鬼狼伝(84) 投稿者:vlad 投稿日:5月29日(月)00時31分
「あんた、こんなとこでなにやってんのよ、雅史が探してるわよ!」
「うるせ……」
 うるせえなあ、ギャーギャー騒ぐなよ、大体この緊張感溢れる場にお前が乱入してき
たらなんもかんもぶち壊しじゃねえか。いいから、帰って雅史には大丈夫だっていっとけ。
 と、志保にいおうとした浩之の言葉が止まった。
 気配が動く。
 音が鳴る。
 二つの気配が動いて近づく。
 地面が音を立てる。
 浩之は志保に向けて逸らしていた視線を元の位置に戻した。
 よく晴れた天候に乾ききった地面が砂煙を立ち上らせている。
 拓也が前のめりに身を低くして両手を地面に着いている。それとやや距離を取って柳
川が立っている。
 二人の動く前の位置、今の位置。
 そして立ち上った砂煙の形。
 ほぼ無風状態の今ならばそれで一瞬の間に何が起こったかは想像がつく。
 拓也が体勢を低くしてタックルに行ったのを柳川がかわした。直線の動きであるタッ
クルをかわすために横に、位置からしておそらく右足を旋回軸にして体を左に回しなが
ら拓也をすかしたのだろう。
 すかされた拓也はすぐに体の向きを変えつつ、前にのめった体を支えるために両手を
地面に着いた。
 それだけの動作が浩之が目を離した隙に行われたのだろう。
「……」
「ちょっと、ヒロ、聞いてんの」
「……」
「もう試合まで十分ぐらいしか無いわよ」
「……うるせえっ、お前のせいで今の見逃しちまったじゃねえか!」
 勿体無え。
 強く思う。
 今の一瞬の攻防を見逃してしまった。
「何よ、人が心配してやってんのに!」
「いいから黙って……」
 浩之の言葉が止まった。
 気配が動く、音が鳴る。
 今度は見逃さねえ。
 拓也が再びタックルを仕掛けた。それを柳川が身を旋回させながらかわす。タックル
に対しては足を後方に引いて上から体重をかけて潰すのが定石の一つだが、このように
身を触れずにかわしてしまう、というのは相当に困難なことだ。
 かわしざま横を向いた柳川に対して拓也が即座に体の向きを変え、両手を地面に着く。
 おそらく、ここまでは先程行われたのとほぼ変わらぬ攻防。
 だが、二回目となればどちらにも期するところがあろう。
 柳川が拓也の顔目掛けて左の蹴りを放つ。
 主に膝の屈伸で蹴り、蹴ってすぐに蹴り足を戻す、足で放つジャブともいえる。
 それを拓也はさらに身を低くしてかわす。
 柳川の靴が前髪に触れた時も、この男は細い目を開いていた。
 地べたに貼り付くように身を低くした拓也は柳川の左足が戻るのにぴったりと追尾す
るように前に出た。
 跳ねるように飛びながらの前進であった。
 右腕を突き上げる。狙いは金的。
 柳川が僅かに後退する。が、その僅かな後退が拓也の金的打ちを不発にさせていた。
 外れた。
 思う間もなく上空から柳川の左足が降ってきた。
 後方に逸らした顔を掠めて行った。少しでもかわすのが遅れれば頭頂から打ち抜かれ
ていたところだ。
 その足を拓也が掴んだ。
 上から柳川の右拳が頭に打ち下ろされる。
 重々しい音が鳴り、柳川が二発目を送り込もうとした時、拓也の頭が腕で攻撃できる
範囲から脱していた。
 だが、掴んだ足は離していない。
 上半身を後方に退きながら下半身を前に、そして両足を上に。
 両足で柳川の左足を絡め取って倒し、足関節を決めていくパターンの動きだ。さらに
その際に左足で金的を蹴るような素振りもして牽制している。
 倒して、ヒールホールド。
 膝十字も足首固めも威力のある技だが、この手の闘いにおいては関節技はとにかく、
「即効性」のあるものがいい。
 極めている間に、相手がどのような反撃をしてくるかわからない。
 ヒールホールドのように、全く可動しない関節を極める技は技に入った瞬間にダメー
ジを与えることができる。
 柳川の背中が地を打った時には拓也の右腕は柳川の足首から踵にかけて絡み付いてい
た。
 だが、間髪を入れず、柳川の右足がやってきて、踵が痛烈に拓也の右腕を叩いた。
 倒れる前に右足を蹴上げていて、倒れるとほぼ同時に足を落としてきたのだ。
 いわば、その時にはまだその場所に存在していなかった拓也の右腕を狙っていたこと
になる。
 身を起こした柳川が右の肘を思い切り拓也の左足に落としていった。
 一発で、緩む。
 二発で、より緩む。
 生じた隙間を利して、するりと左足を抜いた柳川の顔へ拓也が放った左の蹴りが突き
刺さる。
 柳川がすぐに立ち上がって距離を取り、拓也は寝転がって少し様子を見た後に立ち上
がった。
 柳川が右頬を撫でる。どうやら、奥歯は折れていないようだ。

「けっこう長引くな……」
 一度、クリーンヒットが炸裂すればそのまま勝負が決まってしまうような類の闘いな
だけにこの二人の勝負は、相当に長引いていると見ていい。
「ちょっと、ヒロ!」
「なんだよ、うるせえなあ」
「何よ、これ、喧嘩じゃないの」
 志保にいわれて、浩之は一瞬考え込む。
「ん、まあ、そうだな」
「なんで止めないのよ!」
「……え?」
「なんで止めないのかって聞いてんの!」
 止める。
 全く浩之が行わぬ発想であった。
「どっちか大怪我した後じゃ遅いのよ、あの二人、あんたの知り合いなんじゃないの?」
「いや……知り合いっていや知り合いだけど」
「あー、もう、とにかく、さっさと止めなさい!」
 止める。
 喧嘩を止める。
 ごく普通の発想かもしれない、が、それも時と場合による。浩之だって止めるべきだ
と思ったら止めに入る。
 この二人の喧嘩――闘い――を止めることはできない。
 浩之には、それはできなかった。
「あんたには頼まないわよ!」
 浩之の態度を煮えきらぬ、と感じた志保がそういってから辺りを見回す。
 拓也と柳川の間に動きが無くなったこともあって、二人のやり取りを眺めていた耕一
と目が合う。
「えーっと……柏木耕一さんね!」
「ああ、そうだけど」
「もうすっごいですよね、さっきのとその前の試合見ましたよー、もうヒロなんかじゃ
逆立ちしたって勝てないっていうか」
「……」
「そんな柏木さんにお願いがあるんですよ」
「な、なにかな?」
「あれです、あれ。止めて下さいよ」
「いや、それは……」
「あのまんまじゃどっちか再起不能になるまで終わりませんよ」
「そうかもしれないけど……」
「ここは一つ、柏木さんのお力で、ぱぱっとおさめて下さいってば」
 あの二人の闘いをぱぱっとおさめられたらなんの苦労も無い。
「それはできないな。あれは二人の意志で行われているものだから」
「うーーー」
 唸りながら、志保はさらに辺りを見回して、見覚えのある人間を見出した。
「え、嘘っ、あれ緒方英二じゃないの?」
「ああ、緒方英二だよ」
 袖をグイグイ引かれてしょうがなく浩之が答える。
「あーーー、緒方理奈までいるじゃないの!」
「……お前、ちょっと黙れよ」
「サイン貰っておこうかしら……あー! こんな時に限って色紙もなんにも持ってな
いわ! ねえ、この服にサインしてもらったら変かな?」
「変だな」
 暗に、止めろ、といいたかったのだが、浩之のその意図が伝わったとは思えぬ。
「あーーー! マジック、マジック持ってない、あんた!?」
「持ってるわけないだろうが」
「あああーーーーー!」
「今度はなんだ」
「喧嘩止めなきゃ!」
 案外と記憶力はあるらしい。
「ええい、もうあんたらには何も期待しないわ、警察呼んでくる」
「ちょ、ちょっと待て」
「何よ、だったらあんた止めなさいよ」
「いや、でも、それやばいっしょ、耕一さん」
「んー、警察官が非番に喧嘩……不祥事扱いになるのかなあ……」
「何よ何よ、何がどうしてやばいのよ」
「あの眼鏡かけた柳川って人、警察官なんだよ」
「……」
「だから、ちぃと警察に知らせんのは止めてくんねえかな」
「……何やってんのよ、警察官が!」
「いや、お前のいうことはけっこうもっともなんだが……」
「あー、もう、しょうがないわね」
「思いとどまってくれたか」
「あんたらじゃ頼りにならないから誰か呼んでくるわよ、警察にはたれ込まないから安
心しなさい」
「あ、おい」
 浩之が呼び止める前に、志保は駆け出していた。まいったな、といった表情で苦笑し
ながら浩之が耕一を見る。
「どうしようもないな、確かに、喧嘩してんの見たら止めようとするのが普通なのかも
な」
「んー、おれらがおかしいんすかねえ」
「まあ、おれはいざとなったら止めるよ。どちらかが死にそうになったらな」
 浩之はその耕一の言葉に考え込んだといっていい。果たして自分はそうなった時にど
うするだろうか。
 あの二人が納得して覚悟して行っているこの闘い、第三者が割って入っていいのかど
うか、死人が出るのはまずい、ということはわかるのだが、その辺りの決断が浩之は未
だにできていなかった。
「死んだら駄目だよ」
 そういった耕一の視線が一人の少女に行っている。
「死んだら、あの子はどうなる。そして……おじ……柳川にだっているはずなんだ。そ
ういう人が」
 そういう人……。
 自分にとっては、あかりだろうか。
「どんなに恨まれても、おれはいざとなったら止める」
 それは強い意志を孕んだ声だった。
 おれは……。
 浩之は自問する。
 おれは、どうする。
 止めるのには抵抗がある。だが、妹の目の前で兄が殺されるようなことは阻止しなけ
ればならないと思う。
 それが普通じゃねえか。
 おれは志保にいわせりゃ普通じゃないのかもしれないけど、そこだけは譲れないぞ。
 その月島拓也の妹だという少女に浩之も視線をやった。
 一体、何を思っているのか、その表情からは窺い知ることができなかった。

「お兄ちゃん」
 囁くような小声ではない。
 少し離れた位置にいる緒方兄妹にも、耕一にも浩之にもあかりにもその声は届いてい
た。
 柳川がそれに反応して僅かにだが、視線を逸らす。
 拓也の耳に聞こえていないはずはない。
 だが、拓也はまるで聞こえていないかのように例の重心を低く落として首を両肩の間
に引っ込めたような構えで柳川を睨み付けている。
「長瀬ちゃん」
 瑠璃子は兄を見たまま、祐介にいった。
「無視されちゃったよ」
「……瑠璃子さん」
「お兄ちゃん、すごく夢中になってるみたいだね」
「うん」
「嬉しいよ、お兄ちゃんがそんなに夢中になれるものが見つかって」
「うん」
「でも、ちょっと寂しいね」
「……うん」
 呼べば飛んでくるような兄だった。
 瑠璃子を愛して、愛し過ぎて狂気の狭間を垣間見たことすらある兄だ。
 今は、祐介を恋人とは認めぬというものの、殺そうともしていないので、だいぶ穏や
かに妹のことを考えられるようになったようだ。
 自分のことよりも瑠璃子を優先する兄だった。
 その兄に、自分と同等、もしくはそれ以上の何かが生まれた。
 それがなんであろうと。
「やっぱり……嬉しいかな」
「……うん」

                                     続く

     どうも、vladです。
     84回目を終えることができました。
     あと、16回。約四ヶ月でこの話も終わるでしょう。