鬼狼伝(83) 投稿者:vlad 投稿日:5月22日(月)14時10分
 下からの腕ひしぎ逆十字固めが極まりかかっていた。
 仕掛けるは月島拓也。
 防ぐは柳川裕也。
 拓也が正確に極めるポイントをロックしていく、だが、動く相手に下から腕ひしぎを
極めるのは困難である。
 まず、いうまでもなく立っている相手に対して頭を下方に向けて逆さになっている方
が不利な体勢である。
 拓也は頭を支点にして位置を変えて攻めていく。
 よほど首が強くないとできない芸当だ。
「入るぞ、おい」
 誰にいうともなく浩之がいったその時、柳川の両手が動いた。左右の手をクラッチし
て右腕を伸ばされるのを防ごうとする。
 拓也の手が浩之の見たことのない動きをする。
 耕一も見たことのない動きであり、英二にも記憶は無かった。
 拓也が柳川の右手首に巻き付いたスーツを左手に巻いて縛ろうとしているのである。
 確かに、そのようなシチュエーションは今まで見たことが無かった。
 両手を拘束されてはたまらじと柳川が結手を解いた。
「ぇけあっ!」
 人間の声帯を通したとは思えぬ奇声が拓也の口からほとばしる。当然のように彼は至
福の笑顔であった。
 みり……。
 と、確かな感触。
 腕ひしぎ逆十字固めが極まっていた。
 
 みり……。

 と、皮の向こうで鳴った。

 みりっ……。

 と、肉の中で鳴っていた。
 凄まじい危機感が柳川を突き上げる。
 折られる。
 電流のようなものが全身を駈ける。
 それは本能が訴える恐怖。
 本能的恐怖そのものであった。
 それは顔に出た。表情に出た。
 それを見た拓也が心底嬉しそうに笑う。
 元々、拓也は無表情に淡々とした表情で闘っている男だった。それが、この柳川とい
う男と闘っている間は笑いっぱなしだ。
 とても嬉しい。
 嬉しいから笑う。
 嬉しいから笑みがこぼれる。
 不満はただ一つ。
 なぜ、この人も一緒に笑ってくれないのか。
 笑えよ。
 さあ、笑えよ。
 腕を極めるぞ。折るぞ。靭帯を引き千切るぞ!
 笑えよ。
 僕が他人の笑顔を求めるなんて滅多に無いことなんだぞ。
 あなたは二人目なんだぞ。
 瑠璃子とあなただけなんだ。
 笑えよ。
 瑠璃子の幸せを願うぐらいにあなたを壊したいよ。
 瑠璃子が笑顔でいて欲しいと思うぐらいにあなたの笑顔が見たいよ。
 瑠璃子に幸せになって欲しいんだ。いつも笑っていて欲しいんだ。
 あなたを壊してやりたいんだ。僕の闘いで笑って欲しいんだ。
 なんということだ。僕の中に価値観の一大変動が起きている。
 瑠璃子と同じぐらいに……。
 なんだ、それは。そんなことは今まで僕の中に存在していたことがあったか!?
 僕の中に、瑠璃子と同じぐらいのものなんて存在していなかったはずだぞ。
 柳川裕也――。
 瑠璃子と同じぐらいだ……。
 瑠璃子を慈しむのと同じぐらいに壊してあげるよ。
 さあ、まずは右腕!
 みり、と音が鳴ったぞ、靭帯が伸びたぐらいのダメージはあったはず。
 おお、表情が変わったじゃないか。
 まだ、笑ってくれない。でも、その表情もいいぞ。本能的恐怖に歪められたその表情
はたまらなくいいぞ。
 折ったら、どうなるんだろう。
 もっと顔を歪めて痛がるのだろうか。

 それはとてもいいな。
 でも……笑ってくれたらもっといいな。
 柳川の表情が変わった。
 激変した、といっていい。
 恐怖も怯えも無かった。
 歓喜も恍惚も介在する余地が無かった。
 憤怒も激情も、あるにはあったが僅かであった。
 いうなれば人間の顔ではなかった。
 その顔を、拓也はかつて見たことがあった。
 鬼。
 他に形容のしようがない。
 それは、鬼の顔だった。
 前にそれを見た時は、後頭部を蹴飛ばされた。
 今回はどうなる?
 なにはともあれ。
 その顔も、すごくいいぞ。
 拓也の頭が地面から浮き上がっていた。

 持ち上げた!?
 柳川が右腕一本で拓也の体を持ち上げているのを目の当たりにしても浩之も英二もそ
れをいまいち実感できなかった。
 柳川は細身ではないが、それほど膂力があるようにも見えない。
 片腕一本で自分とそれほど体格の変わらぬ人間を持ち上げるなど、そうそうできるこ
とではない。
 耕一だけは、それを冷静な表情で眺めている。
 柳川が右腕を振った。浮き上がった拓也の頭がゆっくりと弧を描く。体の角度は地面
に対して約四十度から五十度。
 拓也が両手による柳川の右腕の拘束を解く。
 戦闘が始まってから、自分を中心に半径3メートル以内に何があるかは常に把握して
いる。
 その記憶によれば、このままではまずい。
 拓也が両足でのロックはそのままに、両手を後頭部に回す。
 一瞬の間を置いて、その両手に衝撃が走る。
 先程柳川の頭をぶつけてやろうとした外灯の鉄柱だ。
 その位置を把握していなかったら、腕を極めることに気を捕らわれて後頭部を痛打し
ていたところだ。
 その衝撃で両足のロックも外れ、柳川が右腕を拓也の右足の下を潜らせるように脱出
させた。同時に、右腕で拓也の両足を弾く。
 拓也が引っ繰り返って柳川に背を向ける体勢になる。
 頭を蹴られまいと地を蹴って距離を取るが、背中に蹴りを貰ってしまった。
「くあっ!」
 呻きながらも拓也が体を返して背中を地につけて足を柳川に向けて上げる姿勢に移行
する。
 だが、その時既に柳川は右足を上げていた。
 踏みつけるつもりだ。
 固い地面の上に寝た相手を上から踏みつける。単純だが、当たればこれほど効く攻撃
もそうそう無い。
 それだけに拓也にとってはこんなものを頭に貰ったらそれ一発で勝負がついてしまう。
死線の上に投げ出されたようなもので、左右どちらに身を転ずるかで勝敗が決定してし
まう一撃だ。
 拓也は、それ一本で柳川の身を支えている左足を払うことを考えた。
 下手に防ぐよりもそれで相手の体勢を崩した方が、右足による踏みつけを逸らすこと
ができる。
 自らの右足で柳川の左足を刈ろうとした時。
「!……」
 柳川の左足が予定の位置に無かった。
 格闘によらず、他人との戦いにおいて、相手が自分の思う通りに動いてくれるとは限
らないというのは鉄則ではあるが、既に右足を浮かせたこの限定された状況において左
足が消えるなどということは予想の範疇に無かった。
 上!
 だが、その瞬間に範疇に無くとも次の瞬間にはそれを自らの範疇内にしてしまえると
いう域に月島拓也は達していた。
 柳川の左足は、右足に少し遅れて地を蹴って地上から飛翔していた。
 つまり、柳川の体のどの部分も地面に接触してはいなかった。
 飛んだっ!
 飛び上がって全体重をかけた右足で踏み潰すつもりだ。
 だが、跳躍しての攻撃の不利はその途中で攻撃軌道を修正するのが極めて困難である
ことにある。
 大体、どの辺に右足が落ちてくるかは予測できる。
 拓也は体の位置をずらしつつ、両腕で水月近辺をガードした。この距離と跳躍の度合
いからして頭部に攻撃はやってこないと判断したのだ。
 果たして柳川の右足は腹部に降ってきた。
 拓也はそれを右腕で受け、すぐに受けた右腕を傾けて柳川のバランスを崩した。
 倒れながらも左足で拓也の顔を狙ってきたのはさすがだが、バランスを崩しながらの
蹴りなので正確ではない。顔を背けて位置を変えることで難なくかわすことができた。
 前のめりに倒れた柳川が両手をついて地面との激突を逃れた時には拓也はその背後で
立ち上がっていた。
 柳川が振り向きながら身を起こす。
 蹴り――を打つには柳川の体勢の立て直しが早い。
 小さく舌打ちの音を洩らしつつ、拓也が体勢を下げて低空飛行で突っ込んでいく。
 立ち上がりかけていた柳川に衝突する。
 倒れざま、柳川が拓也の体に両手を回してしがみつく。
 拓也がそれを切る。
 柳川が切られまいと手を掴む。
 互いに両手を掴み合って力比べの体勢になった。それまでの目まぐるしさが一転、動
きの少ない攻防が展開される。
 両腕で互いの膂力を比べ合いながら激しく頭を動かす。
 お互いに、噛み付きを警戒してのことだ。特に危ないのが鼻や耳などの突起した部分
である。
 拓也が小刻みに頭突きを放っていく。
 その意図は直接的なダメージを求めてのものではないことは明白。
 何発目かのそれによって、柳川の眼鏡がずれる。
 柳川がそうはさせまいと顔を下に向ける。
 拓也が強引に救い上げるように頭突きを打つ。
 柳川の眼鏡が乾いた音を立てて地面に落ちた時に拓也の心に隙が生じなかったとはい
えない。
 眼鏡を落としてしまえば、確実に絶対的に自分が優位に立てる。
 そう思っていた。
 そう思っていたから眼鏡を狙った。
 眼鏡を落としたことによる心理的効果も計算に入れていた。
 だが、眼鏡が落ちた瞬間には、柳川の頭突きが拓也の顔面に炸裂していた。
 眼鏡を失ったことが大きく影響するのは離れて距離を取った場合だ。今のように接近
して、ましてやお互い触れ合っている状態ではほとんど意味をなさない。
 頭突きの衝撃から立ち直る前に蹴りが来た。
 顎を蹴り上げられたが、さすがに眼鏡無しでは正確な照準がしがたいのか、おそらく
距離を見誤ったのだろう、かすっただけであった。
 その蹴りよりも、その前の頭突きの方がダメージは大きかった。たまらずに拓也がよ
ろめく。
 その間に柳川は悠然と眼鏡を拾い上げる。落ちた場所は地面に接触した時の音の方向
と大きさで知れていた。
 浩之が、ほう、と溜め息をつく。
 二人の間に戦闘が交わされていた間は呼吸も満足にできぬほどに息苦しかった。二人
の動きを追うのに夢中になって、ついつい呼吸を忘れてしまうのだ。
 まだ、どちらにも致命傷は無い。
 時計を見る。
 ほう、ともう一度溜め息が漏れる。
 この闘い――始まってからまだ二分しか経っていない。
 凄まじい濃度が隙間無い密度で存在していた二分間だった。
 しかも……。
 まだ終わりではないのだ。

「ん?……」
 耕一が背後を振り返った。そちらは、公園の入り口の方向だ。
 その視線を追わずとも浩之にはわかっていた。
「あ、こんなとこにいたのね! ヒローっ!」
 と、いう声によって。
「うるせえのが来やがったな」
 全く、緊張感を削がれること甚だしいというものだ。
 そう思って、またいつ激突するかわからぬ拓也と柳川にも注意を配りつつ浩之が振り
向くと志保がどたどたと大股でやってくる。あかりが一緒にいるのも予想通り。
 ただ、それに僅かに遅れてやってくる人物に心当たりがあった。
 長瀬祐介といったはずだ。
 自分が拓也と戦った時にあちらの立会人としてやってきていた。後で英二に聞いたと
ころによると、なんでも拓也の妹の恋人であるらしい。
 と、いうことは、隣を歩いている少女が……。

 確か……瑠璃子といったはずだ。
 以前、ある病院で出会ったことがある。
 目が合うと、微笑んだ。耕一のことを覚えているらしい。

 瑠璃子が拓也を見る。
 拓也は柳川を見ていた。
 柳川は、瑠璃子をちらりと見たが、すぐに拓也に視線を戻した。
 拓也は全く視線を他に転じようとはせず、ただ一心に柳川を見据えていた。

                                  続く

     どうも、vladっす。
     徹夜明けなんで無闇とハイです。
     ちょっと日曜出勤の多い仕事を始めてしまったので、これからは月曜
     投稿になるかもしれませぬ。