鬼狼伝(82) 投稿者:vlad 投稿日:5月15日(月)03時02分
 掌を前方に突き出している。
 左の掌だ。
 親指が右を、そしてそれ以外の指が上方を向いている。
 だが、人指し指一本だけが自分の方を向いている。
 自分を指差している人指し指を拓也はうっとりとした絡みつくような視線で捕らえて
いる。
 彼の左手人指し指は不自然に湾曲していた。
 その部分に鈍痛がある。
 だが、拓也はそれを痛みとして認識していなかった。
 人指し指をじっと見ている。
 その焦点が奥のものへと移る。
 人指し指と中指の間から、柳川裕也が見えた。
 同志だ。
 僕に付き合ってくれるらしい。
 どうだ。冷静で常識的で知ったかぶりなもう一人の僕よ――。
 どうだ。どんな気分だ。
 もう一人の僕よ。
 僕が毎日練習しているのを冷笑していたもう一人の僕よ。
 僕が心身を削り合うような闘いを夢見ていたのを嘲笑していたもう一人の僕よ。
 僕の夢想を笑った僕よ。
 どうだ。
 ここにいたぞ。
 僕の思い描く理想の闘いを否定した僕よ。
 お前みたいな狂った男に付き合ってくれる人間がいるわけないじゃないか、と知った
風なことをいっていた僕よ。
 ここに付き合ってくれる人間がいるぞ。
 そんな練習をしたって無駄だといった僕よ。
 相手がいないじゃないかといった僕よ。 
 無駄じゃなかったぞ。
 相手がいたぞ。
 そう……。
 僕の中のもう一人の僕よ――。
 無駄じゃなかったぞ。
 この人がいるから、僕のやってきたことは無駄じゃなかったぞ。

「速えっ!」
 思わず叫び声が漏れていた。
 それは突然のことだった。
 うっとりと、とても折られた自分の指を見ているとは思えないような目をしていた拓
也がそのまま前進していった。
 その先に柳川が立っていることに気付いているのかいないのか、目は変わらない。
 ギリギリの間合いに入ったところで拓也の目色が変わった。
 その後に彼が動く間に一瞬しか必要とはしなかった。
 上半身が沈む。
 タックルを仕掛ける、と浩之は思った。
 だが、拓也は上半身の姿勢をそのままに右手を上方に振った。
 肘と手首の運動で横薙ぎに引っ掻くように顔を襲う。
 柳川は上半身を後方に反らせてスウェーでかわす。
 そして、その直後にタックル。
 一度引っ掻き気味の攻撃をするために停止したので前進の勢いは無くなっていて、
膝と腰のバネだけで放ったタックルだが、これが速い。
 最前の柳川のスウェーが拓也を利した。
 上半身が後方に下がって下半身だけが踏ん張っている。
 その下半身に喰らいついていった。
 タックルを受け止めるには両足を後方に引くのが常道だが、それもできない。
「倒されるぞ」
 思ったままをいっていた。
 浩之は、それを隣にいる耕一に向けていっているわけではなかったし、少し離れたと
ころにいる英二や理奈にいっているわけでもなく、まして拓也と柳川にいっているわけ
でもなかった。
 ただ、何か声を出していないと落ち着かなかった。
 あの二人の闘いは――。
 あの二人の"削り合い"は――。
 見ていて、非常に落ち着かなかった。
 倒れる前に柳川が振った右肘が拓也の後頭部に落ちた。
 しかし、体勢がよくなかったので十分な威力を帯びるには至らぬ上に、後頭部の中心
を捕らえることができずに頭部の丸みで肘が滑った。
 完全に浮き上がっていた柳川の右足が地を踏む。
 堪えきれるわけはない。もう既に「倒れる体勢」なのだ。
 今から拓也が押すのを止めてももう倒れる。そこまでの体勢になってしまっている。
 だが、柳川は右足を踏ん張った。
 べったりと着いた状態の右足の爪先がすぐに地を離れ、踵だけを頼りにして柳川の抵
抗が続いた。
 柳川が腰を捻って上半身を密着させている拓也の体の位置を変えていく。
 踵は着いたまま踵と地の接触した部分を支点にして二人は地面に倒れ込んだ。
「危ねえ……」
 浩之が呟く。耕一も、ほう、と溜息をついていた。
 倒れた柳川の顔のすぐ横に外灯の立っている。直径5センチメートルほどの太さの金
属製のものだ。
 位置を変えずにあのまま倒されていれば後頭部をその鉄柱に打ち付けていたところだ。
 上になった拓也が素早く動く。
 腕を振って執拗に柳川の顔を狙っていく。
 やっぱり……。
 浩之がそれは声に出さずに呟いた時、
「やっぱり眼鏡か……」
 今度は耕一が呟いていた。
 浩之も耕一も先程のタックルの直前に拓也が見せたスナップを効かせた右手による攻
撃の意味を少しの間だけはかりかねていた。
 素早いには素早いが、力の入らないあの手の攻撃が効くとは思えない。
 初めに思ったのはまたもや目を狙っていったのか、ということであった。
 だが、それにしてはその攻撃は横から過ぎた。手首の運動による軽くて早い攻撃で目
を狙うというのならば掌の部分を相手に向けて外側から振るよりもその逆、手の甲を向
けて内側から振っていった方がいい、そちらの方が爪をより効果的に使える。
 だが、拓也は柳川の目を狙っているのではなかった。
 組み付いてからも横から薙ぐように手を振っていく。その行動で浩之も耕一も了解し
た。
 拓也の目的は柳川の眼鏡を落とすことだ。
 それほど度の強い眼鏡ではないようだが、普段から使用していることから考えてそれ
ほど視力はよくないだろう。
 眼鏡を取られてしまっては戦闘に支障が出るのはもちろんだ。
 特に打撃をしっかりと見切れるかどうか。
 グラウンドを得意とし、また本人も執着しているために拓也にスタンドでのスタイル
を重ね合わせて見るのは難しいが、決してまずいものではない。
 元々の格闘技のベースが寝技もありという空手流派だったために、その打撃の技術は
「グラウンド系の人間が相手の打撃を凌ぐため」などという範疇ではおさまらないだけ
のものを持っている。
 二人が揉み合う。
 柳川が下から右足を拓也に押し付けて柔道の巴投げのように拓也を投げようとする。
 長身の柳川の足に突き上げられて拓也の足が浮く。
 勢いよく投げる必要はない。
 地に叩き付ける必要もない。
 ただ、自分の背後に立っている鉄柱に頭をぶつけてやればいい。
 そう簡単に頭を割られるような奴にも見えないが。
「っ!」
 拓也は自分の進行方向に先程自分が柳川の後頭部を叩き付けてやろうとしていた鉄柱
を見出して反射的に右手を前に突き出した。
 右手で鉄柱への激突を回避する。
 それでほっとするような男ではなかったし、そのような暇も無かった。
 右手が塞がった!
 それを思ったのと右の頬にぞくりと悪寒が生じたのとがほぼ同時。
 浮いていた体が地に下りる。
 柳川が右足を曲げたのだ。
 柳川の左足が拓也の右頬を打ち抜く。
 思い切り革靴の爪先で蹴られた。
 柳川が再び右足を伸ばして拓也を突き上げる。
 拓也は右足を振って柳川の金的を蹴りつけようとしたが柳川が急に右足を曲げたため
に目測が狂った。
 右足が地を打つ。
 だが、その時に拓也は前方にのめっていた体勢を回復することができた。
 すぐさま柳川の右足首を掴んで足首を極めようとする。
 足先を伸ばさせないようにして折り畳み、足先と踵を掴んで足首を捻る。
 それに逆らわないように動けば裏返りになってしまう。つまりは、背中を見せてしま
うことになる。
 柳川の体が転がる。
 完全に裏返る前に左手をついて自らの体を浮かせ、左足を突き出してきた。
 狙いは拓也の右足の膝頭。
 真正面から突いて行く。関節蹴りだ。
 それをかわすために拓也のバランスが崩れた。
 柳川が右足を前後に振って拓也の両手から逃れさせる。
 一時距離を取ろうとした拓也の視界が紺色に染まる。
 立ち上がると同時に脱いでいたスーツの上着を柳川が拓也の顔に被せてきたのだ。
 拓也が直感的に思ったのは頭部のガードである。頭部をガードするために両手を上げ
てついでに上着を取り払う。
 視界が晴れたその瞬間に凄まじくくっきりとした異物感が腹部を侵食する。
 浮き立つほどにはっきりとした輪郭を持ったそれの正体は柳川の右足であった。
 右足を突き出して踵をえぐり込むように蹴られた。
 水月を僅かに逸れたものの思い切り突き刺さっていた。
「おおう」
 呻き声が自然と漏れていた。
 よろめくように後退する。
 柳川は……追撃してくる!
 凄まじい激痛に苛まれながら拓也は右腕を振った。
 右腕には柳川のスーツがまだ取りきれずに引っかかっていた。
「!……」
 広がりながら覆い被さってこようとするスーツを柳川が左腕で払いのけるように掴む。
 前方に拓也はいない。
 それを視認した時には右前方から何かが低く激突してきていた。
 きれいに両足を刈られて柳川がたまらずに倒れる。
 地を這うように拓也が動いてサイドポジションを得ようとする。
 柳川がスーツを使ってそれを防ごうとする。右袖で首を絞めようとしている。
 拓也が左袖を手にした。
 両腕で付け根と先端を持って柳川の首にあてて体重をかけ、喉を圧迫せんと試みる。
 柔道、柔術、サンボなどの衣服を着て試合を行う格闘技には相手のそして時には自ら
の着ているものを使って相手の首を絞めたりする技術が体系中に存在している。
 だが、それでも完全に脱いだ服で首を絞め合う状況はめったに見られないであろう。
「があっ!」
 拓也が首を前屈させて頭突きを落としていく。
「ぬ……」
 首を絞めるのに使っていたスーツの右袖をかざして柳川が防ぐ。
 さらにそのまま右袖を利用して拓也を左方にねじ切るように倒して体勢を入れ替えて
いく。
 柳川が上になった。
 上から右のパンチを打ち下ろしていく。狙いは顔面。マット上でも危険なこの攻撃を
固い地面の上で喰らえばどうなるかは推して知るべし。
 かわしざま、スーツの左袖で柳川の右手首を絡め取る。
 すぐに両足が跳ね上がって柳川の右肩に喰らい付く。
 下からの腕ひしぎ逆十字固め。
 二匹の大蛇が同時に疾走してきたのかと思った。
 思って、ふと柳川の脳裏にある感覚がよぎる。
 以前にも似たようなことを感じたことがあった。あれは確か静香の家を訪ねた帰り、
そうだ、その時の相手もこいつ、月島拓也だった。
 あの時は両腕だった。
 この男の両腕に足が絡め取られた時にそう思ったのだ。
 こいつの四肢は蛇だ。
 こいつの全身もそれで一匹の蛇だ。
 蛇みたいな奴。
 誉め言葉に使われることはあるまい。
「蛇みたいな奴だな……」
 柳川はそれをごく自然に誉め言葉のつもりで使っていた。
 蛇は嫌いじゃない。
 こいつのことも嫌いじゃない。
 必死に自分の腕を折ろうとしているこいつのことは嫌いじゃない。
 いや、むしろ好きなのかもしれない。
 必死に自分に噛み付いてくるこいつが、好きなのかもしれなかった。

                                    続く

     どうも、vladっす。
     82回目ですな。
     もう何も語らぬがよいでしょう。