鬼狼伝(81) 投稿者:vlad 投稿日:5月8日(月)01時01分
 双方の距離は約1メートル半。
 一歩を踏み込んで後に放ったタックルか蹴りが十分に届く位置であった。
 ゆっくりと柳川を中心にして円を描く拓也には生物ではなく精密機械のような雰囲気
すらある。
 距離、約1メートル半。
 それがほとんど変わらなかった。
 自ら動いて相手の様子を探りつつ、彼我の距離を崩さない。
 対する柳川裕也。
 不動であった。
 動かない。
 足を少し開いて地に乗せ、両手を脇から腰のラインに添えて掌は開かれていた。
 ようは柳川はその場に突っ立っていた。
 時々、まばたきをすることだけが生物の証のようであった。
 拓也がすり足で柳川の周囲を回る。
 やがて、拓也は先ほどまで腰を下ろしていた血に塗れたベンチを背にした。一回転し
て元の位置に戻ったということになる。
 すり足が描いた曲線が二筋、等間隔で地面に走っている。
 二人を見ていた浩之は、拓也が元の位置に戻った瞬間にそれに気づいた。おそらく、
耕一も英二も気づいているはずだ。
 拓也の足が描いた曲線がぐるりと回って始点と終点が重なった時に、それは生まれた。
 円であった。
 それは浩之が見る限り完璧な真円だった。
 別に拓也が意識してそれを描いたわけではあるまい。
 あるものを中心にして常に距離を一定にして一回転すれば円が描かれる。それだけの
ことだろう。
 だが、フリーハンドで真円などそうそう書けない。書けないからコンパスという道具
が開発された。
 やはり、この男は人間というよりも機械のような動きをする。
 右に左に、そして後ろに拓也がいても微動だにせず「中心」であり続けた柳川も並大
抵のものではない。
 その機械が描いたような真円が、この二人の非人間的と呼べるほどの精密さの現れの
ように思えた。
 拓也がその円の内側へと、中心へと、吸い寄せられるように移動する。
 距離が1メートルに縮まった。
 もうそれが始まるまでにいかなる予備行動をも必要としない距離だ。即座にお互いが
第一撃を送り込める。
 気づいた時には強く握られていた掌を開くと、既に汗に湿っていた。
 浩之はその掌をシャツに押し付けて汗を拭き取りつつ、横に立っている耕一に目をや
る。
 耕一は冷静なようであった。
 自分はさっきからあの二人の対峙を見ているだけで気疲れがしているというのに、こ
んなことでこれから始まる試合に自分は勝つことができるのかと、ふと不安になる。
 だが、耕一のこめかみから頬にかけて一筋、伝わるものがあった。
 英二が額に手をやって汗を拭っている。
 浩之は少し安心した。やはり、あの二人の睨み合いを見ていて平静でいられるわけは
ないのだ。
 全く動揺が見られず、一筋の汗もかいていないのは本人たちだけであったろう。
 理奈など、いつのまにか英二の傍に寄り添ってしまっている。
 正直な話、どのような闘いになるかは全く予想できないながらも、浩之なりにいかな
る展開を見せるのか考えてはいる。
 まず、これだけは自信を持って断言できることは、闘いの火蓋は拓也が切るであろう
ということだ。
 柳川が先程からさっぱり動かず、動く気配も無い。
 拓也から仕掛けるにしても打撃かタックルか、そのどちらかが考えられる。これが試
合場で行われている闘いならば間違いなくタックルで距離をつめて組み付いて行くだろ
うが、この闘い、禁じ手が無い。
 柳川が声をかけ、拓也がベンチから立ち上がった時点で始まってしまったこの闘いに
は前もってルールについての話し合いなど無かった。
 あの二人の自由意志によってルールは決まる。
 拓也はそう思っているはずだ。浩之は柳川のことをよく知らぬのでそちらは断定でき
ないが拓也ならば断固としていえる。
 拓也はこの闘い、何をしてもいいと思っているはずだ。
目を突いてもいいし、突かれてもいい。
金的を攻撃してもいいし、されてもいい。
相手が降参してもなお攻撃を加えたければさらに殴ってもいいし、殴られてもいい。
 降参などするつもりは無いのに、口で降参だといって相手が油断したところを攻撃し
てもいいし、されてもいい。
 結果として、相手が死んでしまってもいいし、自分が死んでしまってもいい。
 殺してもいいし、殺されてもいい。
 おそらくは、あの男はそこまで考えてこの闘いに望んでいるはずだ。
 だが、実際この二人がどこまでやるかについては浩之にはわからない。もし自分であ
ったら口で降参だというだけでは攻撃を止めぬかもしれぬが、例えば相手が完全に失神
したならばそれ以上の攻撃は控えるだろう。
 それを踏まえると不用意にタックルに行くのは考えものである。今やアマレスリング
の技術であるという枠を越えて総合格闘での定石の一つになっている戦法であるが、そ
れで相手にぶち当たり、即座に倒してしまえればいいがまごまごしていると後頭部に肘
を落とされる恐れがある。
 接触した瞬間に倒すか、肘が届かない、もしくは届いたとしても十分な威力を発揮で
きない位置にまで自分の頭を持っていってしまえればいいのだが、柳川はそれほど甘い
相手ではないだろう。
 と、なると打撃である程度のダメージを与えておいてから組み付いていく手が考えら
れる。試合場のマットと比べてこの公園の地面はおそらく人工的に打ち固められたもの
であり、遥かに硬質である。
 そうなると投げも有効になってくる。
 以前浩之が「十人抜き」などと称して野試合をしていた頃は相手を崩して体重をかけ
て地面に叩き付けるのが有効な戦法であった。
 拓也がさらに前へ――。
 もうこれ以上はもたない、1メートルは限界の距離だ。
 これ以上前に出るならすなわちその前進は攻撃に繋がる。
 いよいよ始まる。
 瞬間。
 拓也の攻撃よりも早く柳川の手が上がった。
 意外にも柳川が先制するのか!?
 浩之が身を乗り出す。横に同程度前に突き出された耕一の顔もあった。
「待て」
 またも意外。
 柳川が行ったのは「制止」であった。
 拓也が警戒した視線を送る。
 その警戒は柳川の物理的な攻撃を警戒するよりももっと別のものに対して向けられて
いた。
 この男もそうなのか。
 凄まじい不安が拓也を支配する。
 この男、さっきの三戸と同じなのか?
 同志と思わせておいて――自分を喜ばせておいて――違うのではないか?
 それはとてつもなく大きな不安であった。
 あまりにもそれは大きく、それが的中した時に拓也の内部に生まれる絶望は三戸の時
の比ではあるまい。
 そのように大きな絶望は拓也の体に入りきらない。
 外に出す必要がある。
 同志ではない男へ――。
 絶望を叩き付ける。
 その大きな絶望を人間にぶつけたらどうなるかは拓也にもわからない。
「おれは……別にお前と闘うつもりで来たんじゃない」
 !……。
 弾けたのは不安であった。
 生じたのは絶望であった。
 裏切られたのは渇望。
 自分の体に、それらはあまりにもきつい。
「けあっ!」
 それらを乗せた右拳が疾走する。
 それだけではなく全体重が乗っていた。やや大振りであることを除けば理想的な右ス
トレート。
 下方から電流が来た。
 いや、寒気か?
 いうなれば、電流のように伝わる寒気が下方から拓也を突き上げた。
「っ!……」
 即座に拓也の両膝が内側を向いて膝頭が合わさる。
 その一瞬後に柳川の右足刀がそこに激突した。
 柳川がバックステップで距離を取る。
 拓也の全身から寒気が去った後、すぐさま全身が発汗していた。
 右ストレートは途中で打つのを止めた。下半身の防御に気を取られてしまい、打って
も当たらなかったであろうし、むしろかわされて付け込まれる恐れが多かったからだ。
 危なかった。
 絶望とそれに付随する怒りに身を任せてしまった。
 今の柳川の右足による蹴りは膝の屈伸運動だけで放つ蹴りだが、それでも金的を直撃
すれば大きなダメージになる。
 深呼吸をする。
 微かに笑っていた。
「……やる気あるんじゃないですか」
 柳川はそれは誤解だといわんばかりに首を横に振る。
「おれはそんなつもりじゃない、ただ……」
 言葉に詰まる。
 ただ、の後が続かなかった。
 ただ、お前が気になった。
 ただ、おれに何かできることがあれば、と思った。
 そういおうとして柳川は口をつぐんだ。
 自分がこいつに何かしてやれることがあるとしたら一つしかないではないか。こいつ
が何よりも望んでいることだ。
 やるしかないのか。
 そんなつもりじゃなかった、といいつつ、この男が何を望んでいるのかはわかってい
たはずだ。
 何かを望まれる。
 それに応える。
 やってみるか。
 自分がそれをやることで何が起こるのかはわからないが、やってみようか。
 ただ、こいつが望んでいる。
 おれと闘うことを――。
 結果は知ったことではない、ただ、自分は望まれている。
「いいだろう……」
 両手がゆっくりと上がる。
「ご希望通りにしてやろう」
 拓也の面上を覆ったのは満面の笑み。
「ふ、ふ、ふふ……ははは……ふ、はは」
 途切れ途切れにぎこちなく拓也は笑っていた。
 だが、まだ安心できない。
 不安は拓也の片隅にしっかりと存在していた。
 まだ同志だと断定はできない。
 そうじゃないとわかった時、たまらなく辛いから、まだだ。
 もう少し、試してやる。
 拓也が横に移動しながら徐々に柳川との距離を詰めて行く。
 その際に、握り拳三個分ほどの大きさの丸い石を拾った。
 拓也はその石を右手で持って柳川に近付いていく。対峙した瞬間から、何かに使える
かもしれないと目をつけておいた石だ。
 柳川がその石に一瞬だけ視線をやった。
「少し大きすぎるな、重いだろう」
 拓也が、にぃ、と笑う。
 確かに、その石を持って頭にでも一撃を加えればそれだけで頭を割られてしまうだろう。
だが、その石は大きすぎて、それを握っていては素早く手が振るえないのだ。
 それを瞬時に察した柳川に同志の臭いを感じて拓也は笑ったのだ。
 もう一度……試させてもらう。
 拓也は突如石を投げ捨てた。
 柳川に投げ付けたわけではない、手首を捻ってやや横前方に放ったのだ。
 瞬間も間を置かず拓也は前進していた。柳川に肉薄する。
 視線と視線が真っ向から合う。
 柳川は"陽動"に拓也が放った石には目もくれていない。
 やっぱり、同志か。
 歓喜と寒気が満ちる。
 でも、もう一度だけ……。
 拓也の左手が下方から突き上げるようにカーブを描いて柳川の顔を狙っていた。人指
し指と中指が立っている。
 目突き。
 柳川が眼鏡をかけているため、下方から狙った。
 斜めにまぶたを突き上げるように突く。
 柳川の右手が走って拓也の人指し指を包み込んでいた。
「おおう!」
 その声ににじんでいたのは紛れも無い歓喜。
 表情に浮いていたのも間違いなく歓喜。
 それは――
 ぺき。
 という音を聞いてからも変わらなかった。むしろ増した。
 左の前蹴りを突き出す。柳川が右膝を上げて防ぐが、この前蹴りは元々、相手を突い
て距離を取るのが目的だ。
 思い切り、ガードの右足を蹴り付けて、拓也は距離を取った。
 不自然に湾曲した人差し指に慈しむような視線を注ぎながら拓也は笑っていた。
 よくぞこうまで鮮やかに折ってくれた。
 同志よ――。

                                     続く

     どうも、vladです。
     81回目という中途半端な位置までやってまいりました。
     今週も凌いだぞ、おらぁ!


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