鬼狼伝(80) 投稿者:vlad 投稿日:4月30日(日)23時47分
 エクストリームはアマチュア格闘家にとっては夢の舞台といっていい。
 特に、プロを目指している人間にとっては、だ。
 そのショーアップされた世界を嫌い、それほどの価値を認めていない人間もいるが、
それは少ない例外である。
 ジム長は自分のところのジムからゾロゾロと選手を出すのをみっともないと考える人
間だったので大会前に選抜のために試合を行った。
 三日を費やして行われた選抜に勝ち抜いたのは三戸雄志郎であった。
 決勝戦で辻原と五十分に及ぶ関節の取り合いをしての勝利だった。
 そして当のエクストリーム、一回戦、二回戦を勝ち上がった三戸に対する感情は既に
憧れにと昇華していた。
 それが潰された。
 納得いかない潰され方だった。
 腕拉ぎ逆十字固めが完全に極まり、その後すぐに変形のマウントポジションへと移行
して殴った。
「反則じゃねえか!」
 叫んだ。
 隣で観戦していた同輩の臼井も似たような意味のことを叫んでいた。
 先輩の方から「あの月島とかいうのをやっちまえ」といわれた時、望むところと勇躍
した。
 彼と臼井を率いて、試合場から姿を消してしまった月島拓也の捜索をすることになっ
た先輩の辻原は気乗り薄で、三戸と拓也の試合が納得行かないという二人に、
「あんなもん、ちょっとエキサイトしただけだろ、あの腕拉ぎで勝負は決まってたよ」
 と、いってひたすら面倒臭そうであった。
 だが、とにかく納得がいかなかった。
 勝負が決まっていたのなら、あの後に何も反則のマウントパンチをやる必要は無いで
はないか。
 反則負けで決勝戦進出を棒に振ってまでなんであんなことをする必要があったのか。
 今、その男が前にいる。
 間近で見てみると悽愴な気をまとった男だった。
 自分がまともに行っても到底勝てまい。
 臼井と二人がかりでやればなんとかなるだろう。
 だが、臼井が一人でやるといって聞かない。それならば、臼井と向き合っているとこ
ろへ後ろから蹴りを見舞ってやろう、と思った。
 どんな手段を使ってでもやってやる。
 だが、月島拓也は思っていた以上の男だった。
 狙い澄ましたハイキックははずれ、臼井が金的を蹴り上げられ、自分はハイキックを
貰い、辻原までもが腕を折られた。
 自分は立ち上がっていた。
 そのまま寝ていればいいと思わないでもなかったのだが気付いた時には立っていた。
「塩崎ぃ、逃げろ!」
 辻原が叫んでいたのだが、逃げられなかった。
 逃げようにも、足が動かなかった。
 月島拓也が近付いてくる。
 三戸とほぼ互角の技量を持ち、スパーリングでは自分や臼井を子供扱いにする辻原が
あっさりとやられたのだ。
 逃げるべきであった。
 逃げたかった。
 足が竦んだ。
 どうしても足が動かない。
「けあぁぁぁぁっ!」
 叫んだ。
 足が前に出た。
「けえぇぇぇぇっ!」
 どうしても動かなかった足が前に出た。
 何も考えずに突っ込んで行った。
 接触した次の瞬間には右腕を極められていた。
 拓也は腕を極めて塩崎を自在にコントロールする。
 極められまいと塩崎が動くと、どうしてもバランスが崩れてしまう。だが、そうせね
ば折られてしまうためにそう動かざるを得ない。
 バランスが崩れたところに、死角から拓也の右肘が襲ってくる。
 そして今度は左腕が極められた。
 またさっきと同じ、操られる。
 今度は片足立ちになったところに、軸足を引っかけられた。
 宙を舞った塩崎の目に飛び込んできたのはベンチの背もたれだった。
 自分の体重と、そして拓也のそれまでを乗せた塩崎の顔面が背もたれに激突する。
 激痛に目が眩む。
 鼻血が出ていた。
 口の中一杯に血の味が広がった。
 顔を浮かせた時、目の前は赤であった。
 ベンチにべっとりと血が付着していた。それが全て自分の血かと思うと青ざめるよう
な気分だ。
 でも、後ろにいる。
 後ろから、ぞくりとする気配が来る。
「っあえぁぁっ!」
 叫んだ。
 ろれつが回っていなかった。
 中腰になっていた塩崎の血にまみれた口に拓也の蹴りが入った。
 その時塩崎の見た拓也は不思議なほどに冷めた表情で血を吐きながら倒れていく塩崎
を見つめていた。
「後一人」
 拓也はぽつりと呟いた。
 自分が考えた通りに行った。まずは一人にタックルで食い付きバックに回って金的を
蹴上げる。そして、後ろからかかってくる奴にそれをぶつけて蹴り。
 これで二人を一時戦闘不能にしておいて少し離れて見ていた──おそらく三人の中で
は先輩格の──男と一対一の状況を作る。
 実力的には三戸と同程度と見ていた。
 それならば一対一で負ける気はしない。
 そして、その後は先に叩いた二人の後始末だ。おそらく、顔に蹴りを入れた方が金的
を蹴り上げた方よりも先に回復してくる。
 ここまでは考え通りだった。
 立ち上ってくる血の臭いを嗅ぎながら拓也の耳は地面と靴が擦れる音を聞いていた。
「てめえ……」
 睾丸を蹴り潰したわけではないので、時間さえ経てばダメージは残っていない。
 臼井が向かってくる。
 また辻原は叫ばねばならなかった。
「臼井ぃ、逃げろ!」
 だが、臼井は向かっていく。
 いい度胸、とは思うが、無意味な度胸だ。
 逆効果だ。
 そのまま寝ていればいいのだ。
 右腕が無茶苦茶痛いのだが……先輩として行かねば格好が悪い。
 辻原が立ち上がった時、二つの身体は既に接触を果たしていた。辻原は一歩を踏み出し、
続いて二歩目を踏みだそうとした。
「おおう」
 辻原は呻いた。
 さっきと同じだ。拓也が一瞬にして臼井の背後に回っていた。臼井が右肘を振ったの
も同じ。ただ、臼井は両足を内股にして金的への蹴りを警戒していた。
 拓也はぴったりと密着した。
 完全に密着されると横へ振った肘は当たらない。拓也の両手が交錯した。
 交錯した両手の中に臼井の頭部があった。
 スリーパーホールド。
 一瞬で極まっていた。
 辻原が五歩目を踏み出した時には臼井の唇の端から涎が垂れ、すぐに空気を含んで泡
になった。
 完全に落ちた。
 だが、この男、離さないのではないか。
 辻原の懸念はそこにある。落として相手を解放するような奴ならば右腕の痛みを堪え
てわざわざ立ち上がったりはしないし、ましてや向かっていこうなどとは思わない。
 落ちる、というのは脳に酸素が行かなくなって気絶したということだが、すぐに頸動
脈や気管への圧迫を止めれば酸素が通い蘇生する。だが、そのまま絞め続ければ酸素の
供給が完全に途絶え、脳細胞はどんどん死んでいく。
 長時間続ければ死ぬ。死なないまでも、後遺症が残る。
「ちょっと待て、おい!」
 辻原の叫びに応じるかのように、拓也が両手を広げた。
 臼井が崩れ落ちる。
「君たちはもう不要だ」
 拓也がぼそりといった。
 二人に挟まれ、少し離れたところにもう一人いる。
 その状況下にあって拓也の心は躍った。はっきりいって一人一人は自分に及ぶべくも
無いが三人いれば……三対一ならば何か間違いが起こるのではないか?
 自分がやられるかもしれない。
 そう思った時、拓也の心は躍った。
 そして、それを切り抜けた時、やってきたのは虚しさであった。
 虚しい表情であった。
「おい……」
 辻原は思わず声をかける。
 なんて顔をしてやがんだ、と辻原は思っていた。
「聞こえなかったのかい?」
 熱も起伏も無い声が来た。
「要らないってことだよ」
 拓也が突如、左足を蹴上げてミドルキックを放ってきた。
 右腕でガード、と咄嗟に思った辻原の右腕に鈍い痛みが響く。
 腕が上がらない。
 拓也の左足は痛烈に辻原の右腕を叩いた。
 左に、横倒しに倒れた。
「要らないんだよ」
 倒れた辻原の右腕に拓也が足を打ち下ろしてくる。
 次が鳩尾に蹴り。
 空気の塊を吐き出して辻原は悶絶した。
 足音が遠ざかっていくのを辻原は聞いていた。顔を上げるような余裕を持たない辻原
はそれで拓也が去っていったのを悟った。

 ベンチに腰を下ろす。
 べっとりと血のついた部分を避けてベンチの左端に腰を下ろして下を向いていた。
 静かだ。
 静寂に身を浸して、拓也は何を思うということもなく沈思する。
 探しに行こうか──同志を。
 餓えが拓也を突き上げる。
 禁断症状といってもいい。
 闘いによるせめぎ合いの中で感じる快感を求めてまるで自分以外の何かが自分を突き
上げるようだ。
 あれは麻薬だ。
 そもそも、自分が格闘技を始めたのは瑠璃子のためだったはずだ。いざとなった時に
瑠璃子を守るために肉体的な強さも必要なのではないか、とその程度の理由だったはず
だ。
 瑠璃子が第一だったはずだ。
 全てのことはその次にあったはずだ。
 今はどうだ。
 餓えに餓えた今はどうだ。
 瑠璃子と──同志と──両手を広げて自分を迎えてくれていたら、一体自分はどちら
を選ぶ。
 それを考えるのが怖かった。
 自分は何を置いても瑠璃子を優先するはずだから、それを考える必要は無いと自分に
言い聞かせていた。
 だが、あれは麻薬であることを自分は嫌というほどに知っている。
 その誘惑に耐えることはできない。
 それが目の前に来たら自制心などはふっ飛ぶ。
「へえ」
 遠くから聞こえる子供がはしゃいでいる声に比べて、それはより近く、はっきりとし
た声だった。
 だけど、下を向いていた。
 それに続いて別の声がした。
 さらに別の声がやってきた。
 声質の違いで、男が三人、女が一人であることがわかる。
 だが、気配は五人分あった。
 誰か一人、声も発さずにいる奴がいる。
 もしかしたら、自分が今、全身に感じているとてつもなく強い視線の主であろうか。
「おい」
 初めての声が聞こえた。
 その声に吊り上げられるように顔を上げた。
 拓也は……奇妙なほど嬉しそうに笑っていた。

 浩之はのされている三人の中ではなんとか意識を維持しているらしい男に歩み寄って
声をかけた。
「おい! おい! 大丈夫か!? 右腕やられたのか?」
 その声に応じて辻原が身を起こす。
「どういうことだ、おい」
「おれもそっちの二人も……三戸雄志郎と同じジムの人間だ。あんなのとやり合ったお
かげでこのザマだ」
 いって、苦笑する。
 浩之も、それを聞いていた耕一もそれで大体のことを了解した。
 耕一が臼井の腹部に手を押し当てて活を入れると臼井は蘇生して目を覚ました。
 その臼井が血塗れで倒れていた塩崎を起こして背負うと、辻原は浩之と耕一に型通り
の礼を述べた後に身を翻した。
「もうウチはあいつにゃどんな形であれ関わらねえ、いや、おれが関わらせねえ」
 誰にいうともなくいった。
「辻原さん……」
 臼井が抗議するような視線を向けるが辻原はさらりと受け流した。
「ジム生、全員潰されるぞ」
「……」
「十人か二十人でかからねえと……いや、それでもおれは御免だね、何人かは確実に再
起不能にされるだろうからな……車ではねろっていわれてもおれは嫌だね」
「でも……」
「臼井ぃ……若いな」
 からかうような笑顔を、辻原はした。
「あいつが怖くないのか? おれは怖いぜ」
「……」
「行くぞ……あんたらにゃ世話になったな……確か、藤田浩之と柏木耕一、こんなとこ
で油売ってていいのか? すぐ試合じゃないのか?」
「ちょっとわけありなんだ。な、浩之」
「ああ、これから起こることを見ておきたいんでな」
 二人の言葉に何かを感じ取ったのか、辻原は臼井を促して足早に去った。
「何が起こるか知らねえけど、巻き込まれるのは御免だ」
 そういって、右肩を少し上げ「痛っ」と呟いて左手を上げた。
「警察になんか報せねえよ、病院行くからそんな暇は無い」
 それが、自分たちを介抱してくれたことへの礼であるのかどうかは辻原の背中からは
わからなかった。
「おい……」
 何かいおうとした浩之の肩に耕一の手が置かれる。
「浩之……」
 耕一の視線を追った先に月島拓也がいた。
 拓也はゆっくりと立ち上がっていた。その前方、ほぼ三歩の距離に柳川が悠然と立っ
ている。
「なんだ、もう始まっちまうのかよ」
 浩之のその声が消える前に、拓也が柳川を中心にして円を描き始めていた。

                                     続く

     どうも、vladです。
     80回目となりました。
     もうちょいですね。