鬼狼伝(79) 投稿者:vlad 投稿日:4月24日(月)02時07分
 いつしか、表に出ていた。
 気付いた時には桜の花が舞い散る中であった。
 その日、風は強くはない。が、無風でもなく、頭髪をゆらゆらとそよがせる程度の風
が吹いている。
 それに乗った花びらが空中で回り、翻り、上昇している。
 風が止む。
 宙に待っていた花びらがゆっくりと地に落ちる。
 月島拓也は下半身を道着のズボンで覆い、上半身を黒いTシャツに包んでいた。
 首の辺りに汗が滲んでシャツの色が濃く変わっている。
 額にも頬にも首にも汗が浮いていた。
 表に何があるというわけではない。むしろ、自分が探している人間は試合会場の中に
いるだろう。
 戻ろうか。
 ここにいてもしょうがない。
 風が、また動いた。
 向かい風だ。
 拓也に向かって風が来る。
 低く、地を這うように吹いた風が桃色の絨毯のように地面に落ちている花びらたちを
滑らせる。
 一枚、大きく舞い上がった花びらが汗に湿った拓也の額に貼り付いた。
 やはり、戻ろう。
 それを拭い取りもせずに拓也は身を翻した。
 背中に吹き付ける風が冷たく、心地よい。
「月島拓也だな」
 その声を拓也の聴覚は感じてはいたが、自然と無視していた。
 自分が会いたい人間ではなかったからだ。と、いうよりも拓也が一度も会ったことの
無い人間だった。
「間違いないな、月島拓也だ」
 男がそういって、背後にいる二人の男に目配せすると二人は素早く拓也の背後に回っ
た。よく見れば三人とも同じ色合いのジャージの上下を着ている。
 左胸のところに小さく文字が縫い込んであるが拓也にはどうでもよいことだった。
「辻原(つじはら)さん、やっちゃいましょう」
 拓也の右後背に回っていた男がいった。
 拓也の正面に立っている男は辻原というらしい。……やはり知らぬ名だ。
「三戸雄志郎と同じジムに通っている……といえば用件はわかるな?」
 辻原はそういって拓也を見た。睨む、というほどに鋭い眼光ではない。なんとなくだ
るそうな表情をしていた。
「三戸の奴、腕の筋伸びて前歯折れて後頭部をマットで打ったんで病院に運んだよ」
「……」
 拓也は無関心に、無感動に、それを聞いていた。
「お前のせいだってのはいうまでもないわな」
 いってから辻原は口に手をあてて欠伸をした。
「そんなもん、おれはどうでもいいんだけどよ」
 欠伸のせいで潤んだ目で拓也を見ながら辻原がさらりといった。
「辻原さん、それは無いっすよ」
「そうっすよ、三戸さんの仇討ちましょう」
 後ろから二種類の声がやってくる。この二人は辻原とそして三戸の後輩らしいが、こ
ちらは三戸の仇討ちに積極的なようだ。
「まあ、あいつはおれよかなんぼか面倒見のいい奴なんでな、こういうふうなこという
後輩がいるわけだ」
 辻原が苦笑する。
「んでもって、先輩にもそういうこという人間はいるわけだ。うちをナメくさってるあ
の細目野郎をやってこい、ってな……ああ、細目野郎ってのはその先輩がいったことだ
ぜ」
 別に彼らのジムをナメているわけではない。そもそもそんなジムのことなど気にも止
めていなかった。とは、思ったものの、それを口に出してわざわざ弁解する拓也でもな
い。
 むしろ、不意に自分を取り囲んだこの事態を歓迎する気持ちが芽生えていた。
「ほれ、あそこ、二階から後輩がお前さんを見付けたんでな、すぐに駆けつけてきたわ
けだ」
 溜め息をつく。見付けなけりゃよかったのに、といわんばかりである。
「お前、なんでさっさと逃げなかったんだい? あんなことしたんだ、やばいとは思わ
なかったのか?」
「……」
 それに答えずに拓也は俯いていた。
 逃げる?
 この男は何をいっているのだろうか。
 自分が……逃げる?
 何から?
 逃げる必要がどこにある。
「おい……お前……」
 それまで緩みきっていた辻原の表情に張り詰めたものが浮き上がる。
「何かおかしいのか?」
 拓也は、笑っていた。
 拓也の右後背にいた男が回り込んで拓也の顔を覗き込んでその笑顔に気付いた。
「っのやろっ!」
 男が拓也に向かって振ろうとした右腕が止まる。
「待て、臼井(うすい)」
 辻原が左腕を横に伸ばして男──臼井の腕を止めていた。
「ここはまずい、人が見ているからな」
 そういわれて、臼井が舌打ちしながらも引き下がる。確かにこの出入り口の真ん前は
二階から丸見えで、休憩時間の今は二階席の客が通路にたむろしている。
「そんな顔してるからには断らないだろうな。すぐ近くに公園がある。そこまで付き合
ってもらおうか」
 やや緊張感のある顔で辻原がいう。
「……いいですよ」
 冷静にいおうとしたその声からいいようもない歓喜が滲み出していた。
「よし、じゃあ行こうか」
 辻原が先に立って歩き、その後ろに拓也、そのまた後ろに臼井ともう一人の男が続い
た。
 やがて公園に入った。
 子供連れの主婦が歓談している一角を抜けて、人気の無い奥地へと進んで行く。
 辻原が身を翻し、拓也と向き合ってから距離を取る。
「よし、やれ」
 その声に応じて拓也の背後で気配が動いた。
「おれがやります」
 この声は臼井という男だ。
 すぐに前に出てきて拓也と向き合う。
「二人でやれ」
 臼井が構える前に辻原がいった。
「おれ一人で十分です」
 臼井が両手を上げて構える。
「いや、二人でやろう」
 拓也の背後から声がした。
「塩崎(しおざき)……おれ一人で大丈夫だ」
「こいつ……なんかやべえ。二人でやろう」
「一人でやれる」
 臼井の声が張った。ムキになっている。
「でも、こいつは三戸さんと互角以上の試合をした奴だぞ……三戸さんが押されてたの
……お前も見てただろ」
「万が一……おれがやられたらお前と辻原さんとでやればいい」
「臼井ぃ……」
 辻原の声に”ドスが利いて”いた。
「……わかったよ……そこまでいうなら一人でやれよ」
 少しだけ躊躇った後に塩崎がいった。
「おいこら、塩崎」
 辻原が塩崎にもドスを利かせた声を向ける。
「……しょうがねえなあ」
 だが、すぐに苦笑して臼井を見た。
「お前、そこまでいったからには無様さらすなよ」
「はい!」
 臼井のその返事が消えぬ内に拓也が口を開いた。
「あの……」
「なんだ?」
「もう攻撃していいんですよね?」
 臼井の表情に一瞬で赤味が差す。
「ああ、いつでもいいよ。な、臼井」
「はい……」
 臼井の視線が放つ眼光が拓也を貫く。
 拓也の笑顔を貫いていた。
「行くぞ、おい!」
 臼井が拓也との距離を詰めようと前に出た瞬間、拓也が体勢を低くしてタックルで突
っ込んできた。
 絶妙のタイミングで決まり、腰を捕まえられた臼井がなんとかこらえようとする。
 速いっ!
 そのことには十分驚きつつ、辻原は、それ以外のことにそれを上回る驚愕を感じてい
た。
 拓也がタックルを決めたのと同時に塩崎の右ハイキックが空を斬っていた。
 辻原の感じた驚愕はそのまま塩崎が感じたものでもあった。
 驚愕は疑惑を伴って二人を打った。
 塩崎が後ろから攻撃してくることを読んでいたのか!?
 先程、塩崎が引き下がった時に辻原が咎めると、塩崎は意味ありげに微笑しながら頷
いた。背中を向けていた拓也と、それから拓也を睨み付けていた臼井も気付いていなか
った。
 臼井と一対一でやらせると拓也に思わせておいて背後から強襲しようというのだ。
 臼井が前に出ようとした瞬間、塩崎の右足が高く上がって疾走していた。だが、まる
でそれをよけるかのように拓也がタックルで臼井に突っ込んでいたのだ。
 偶然か!?
 読んでいたのか!?
 驚愕から二人が立ち直る前に、拓也は臼井の腰に取り付いたまま滑るように回ってバ
ックを取っていた。
「てめえ!」
 怒声が来る。そしてそれに僅かに遅れて右の肘が来る。
 拓也が臼井の体を手放して上半身を後方に逸らしてそれをかわす。と、同時に右足を
蹴上げていた。
「!!……」
 臼井が両手を股間に持っていって体を「くの字」に曲げる。
 キンタマやりやがった!
 辻原の位置からでもそれはわかった。
 この男、思っていたよりも喧嘩慣れしている。だとすると、やはりさっきのも偶然で
はない。
「塩崎ぃ!」
 辻原の声に弾かれるように、思い切り振ったハイキックの空振りから体勢を立て直し
ていた塩崎が前進する。
 だが、前にのめって苦しんでいる臼井が邪魔だ。横に回って……と思った時には前方
から肉弾がぶち当たってきた。
 拓也が臼井の腰を突き飛ばして塩崎に当てたのだ。
 呻きながら臼井が塩崎の胸にすがりつくように寄りかかった。
「おい、大丈夫か!? 臼井」
 塩崎の視線が臼井の顔を見るために下方を向く。
「バカヤロっ!」
 既に駆け出していた辻原が叫ぶ。
「他人の心配なんぞ!」
 素早いステップで距離と詰めた拓也の右のハイキックが刈り取るように塩崎の左側頭
部を打ち抜いた。
 ぐらり、と揺れる。
 塩崎が、寄りかかっていた臼井もろとも横倒しに倒れる。
 間に合うか!?
 自らに問いながら辻原は駆けていた。
 拓也の背中まで後僅か。
 まさか、ここまで短時間に二人がやられるとは思わなかった。
 走る。
 拓也との距離をゼロにする間に後悔が頭を巡る。
 甘く見た。
 自分がスパーリングで互角にやり合っている三戸をあんなにした奴だ。これぐらいの
芸当をやってのける奴と見るべきだった。
 だが、こういう後悔が無駄なことも辻原は知っている。
 とにかく、拓也が背を向けている今、それに向けて全速力で走ることに全ての力を注
いでいた。
 辻原が接触する前に拓也が振り向く。
「えあぁぁぁっ!」
 急には止まれない。止まれない以上、走ってきた勢いを利して突っ込むまでだ。
 右の肘を突き出して激突していった。
 拓也の頭が沈んだ。
 拓也がしゃがみ込んで体を縮める。
 走ってきた辻原はそれに躓いて前方に転倒する。
「くっ!」
 前回り受け身を取って身を起こそうとした時に後頭部に何かが衝突してきた。おそら
く、拓也の足だ。
 しまった……。
 思った時には右腕が取られていた。
 腕拉ぎ逆十字固め。
 これまた速い!
 三戸との試合を見ていてこの男の関節技のキレはわかっているつもりだったが、自分
がかけられる立場になってみるとより一層その速さが全身に鳥肌を生んだ。
 極められた。
 抵抗する気も失せるような激痛が右肘の辺りを横断する。
 凄まじい激痛は時間の流れを遅く感じさせる。実際は十秒ほどだったその時間は辻原
には三十秒ほどに感じられていた。
 ぺきっ。
 自分の右腕から発された乾いた音を辻原は聞いてはいなかった。
「があぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 声を張り上げて叫びながら、辻原は覚悟を決めた。
 三戸との試合は克明に覚えている。この後に頭部を踏み付けられるぐらいはあるだろ
う。
 だが、予想に反して何も降って来ない。
 右腕の激痛に耐えながら顔を上げた辻原の視界で拓也と塩崎が睨み合っていた。
 バカヤロっ!
 怒鳴りつけてやりたいがそれが声にならない。
 黙って寝てりゃいいんだ。
「塩崎ぃ、逃げろ!」
 その声が塩崎の耳に届いたのかどうかはわからなかった。
 ただ、塩崎は拓也に向かって前進した。
 バカヤロっ! 逃げろっていってんだろ!
 それも、声にならなかった。

                                     続く

     どうも、vladです。
     79回目ですな。
     今回、ノリました。


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