鬼狼伝(78) 投稿者:vlad 投稿日:4月17日(月)02時18分
 いないな……表に出たのか?
 奇しくも、緒方英二と柳川祐也はほとんど同時にそれを思った。
 二人とも、試合場を出て、それぞれ控え室を覗き、試合会場をぐるりと取り囲んだ通
路を回った後であった。

 表に出て帰ってしまったのだろうか?
 藤田浩之と柏木耕一はほとんど同時にそれを思った。
 二人とも、この後試合を控えているだけにそれほど熱心に月島拓也の姿を探し求めて
いたわけではない。
 一階のロビー、入り口と売店がある場所に出た浩之は、既にその場に来ていて入り口
から表を見ている耕一を発見した。
「耕一さん」
 20分後……いや、もう15分後に試合を控えた耕一がウォーミングアップもせずに
こんなところにいるわけを浩之はなんとなく悟っていた。と、いうよりもある一つの理
由しか思い付けなかった。
「おう、浩之か」
 15分後、拳を交える相手に対してとは思えぬ屈託の無い顔で耕一は答えた。
 それは浩之も同様で、一度の対戦を経て、この二人の間には言葉では表現が困難な絆
が存在している。
「月島さん、探してるんすか?」
 自然と、それが口から出ていた。
 耕一は一瞬だけ笑顔を見せた。
「なんだか……気になってな……お前もか?」
「はい」
 二人で軽く情報交換などしていると、耕一の視線が浩之から外れた。
 左肩の上を通り抜ける耕一の視線を追って、自らのそれを絡めた浩之は一人の男が近
付いてくるのを見た。
 あの人……確か……さっき綾香の決勝戦の時に、棄権させろっていいに来た人だ……。
「どうも」
 耕一が頭を下げる。
「知ってる人なんですか?」
「ああ、ちょっとした顔見知りでね。刑事だよ」
「へえ」
 二人の会話を聞き流しながら、柳川祐也はその場を立ち去ろうとして思い止まった。
一応、こいつらに聞き込みをしてみよう。
「今さっき試合をした月島拓也を見なかったか?」
「え!?」
 自分でも驚くほどに、浩之の口から大きな声が出た。
 自分たちが正に拓也を探していた、というのもあったが、刑事が探しているというこ
とで、早くもなんかやったか!? と思ったわけである。
「見ていないのならいいんだ」
 そういって去ろうとする柳川を浩之が追う。
「ちょっと待って下さいよ、月島さん、なんかやったんすか?」
 外に出ようとした柳川を追った浩之は、ガラス越しに見知った顔を見付けて、柳川の
無言の返答も気にならずに視線と意識をそちらに奪われた。
「英二さんだ……何してんだろ?」
 そういいながら、なんとなくわかっていた。
 みんな、月島拓也を探しているのだ。
 足早で英二の元に向かう浩之を見送りながら、マイペースの歩調で踏み出した柳川の
横に、いつのまにかぴったりと耕一がついていた。
「どうも、おじさん」
 その言葉に、柳川はなんら感情を動かされたようには見えぬ。
 ただ、ちらりと一瞥をくれただけであった。
「おれと千鶴さんだけは知っている。梓と楓ちゃんと初音ちゃんは知らない」
「ああ」
 それが暗に、だから三人にはいわないでくれ、ということをいっていると了解した柳
川がそれを了承した。元々、いうつもりも無い。
「格闘技を始めたんだな」
 さすがに、静香に付き添ってやってきたこの会場で、柏木耕一が出場していることを
知った時には驚きがあった。
「ああ、色々とあるからな」
 曖昧にはぐらかしたのではない。
 耕一には格闘技を始めるにあたっては本当に入り組んだ理由があった。それは結局は
ある一つの、彼が持つ血筋、大層ないい方をすれば「血統」とでも呼べるものが原因で
あった。
 それを知る、いや共有する柳川にならば、それだけで大体のところはわかってもらえ
るはずだ、と耕一は考えている。
 柳川はそれで全てを悟ったわけではなかったが、元々、この甥とそれほど突っ込んだ
話をするつもりは無い。
「それに……おれが守りたいからな……」
 その言葉を柳川は聞いてはいたが、それを自分に向けられたものだとは思っていなか
った。
 耕一が、自分で自分にいっているように思えた。
「四人とも……おれの家族だから」
 その声は、先のそれよりもさらに小さく、外側にベクトルを持っていなかった。
 内側に、自分自身に──。
 そんな声だった。
 家族。
 柳川にはそういうものは無い。
 そういえば、この柏木耕一には両親は既に亡く、兄弟はいないはずだ。
 その辺り、自分と境遇は似ている。
 だが、所詮、別の人間であり、別の人生を歩んできた二人だ。
 深いところを知ろうという気は、柳川には無かった。
 それよりも、今は月島拓也──。
 あの男。
 冷たい眼差しを持った男だった。
 熱くならず、冷たいままに人間を壊すことができる男だ。
 柳川が彼に怖さを感じた。
 冷たさを感じた。
 だが、それ以外のものをそれ以上に感じてもいた。
 危なさ──。
 他人を侵す危なさも持っていた。
 だが、それ以外のそれをそれ以上に持っていた。
 自分を滅ぼしかねない危なさ。
 この男は自分にいった。
「殺して……やる」
 と。
 そういいながら人を殺したことはあるまい、と柳川は思った。まだそこまで踏み込ん
でいないだろうと、その目を見てなんとなく思った。
 危うい。
 理性と狂気の境界線で綱渡りをしているに似た危うさがある。
 そんな男が見せた寂しさが気になった。
 自分に何ができるかはわからない。何もできないかもしれない。
 でも、無性に会いたかった。
「耕一さん!」
 英二と、それと一緒にいる理奈と合流して会話を交わしていた浩之が耕一に向けて声
を上げ、さらに激しく手招きしている。
 耕一と柳川が会場を出て、さくらの木に挟まれた並木道に出る。
「あっちから、声聞こえませんか?」
 浩之が指で示した「あっち」というのは並木道から外れて少し行ったところにある公
園の方であった。
「声?」
 耕一が耳を澄ませた時、柳川が既にそちらに向かって歩き出していた。
 その背中を見ながら耕一がいった。
「聞こえる……これ、喧嘩か何かしてるんじゃないのか?」
 頷いた英二が柳川の後を追う。
「理奈……お前は戻っていろ」
 なおも着いてくる妹にいったものの、
「駄目よ、今の兄さん、どんな馬鹿するかわからないもの」
 一蹴された。
「おれたちも行ってみましょう。耕一さん」
「そうだな」
 既にこの二人の試合時間は約十三分後に迫っているが、これから起こることを見届け
たいという欲求がそれを圧した。
「よし、行きましょう」
 だが、それを見逃さなかったのは、会場の二階の出入り口のところにいた志保であっ
た。もちろん、あかりも横にいて、そもそも会場の外にいる浩之に気付いたのは彼女だ。
しかし、大声を張り上げたのは志保だった。
「ヒィィィィィィロォォォォォォォ!」
 耳を澄ませる必要などないその大声は浩之の耳に達した。
「なんだ。志保か」
 誰かと思ったが、自分をそう呼ぶのも、あんな大声で人を呼ぶのも知人には一人しか
思い付かない。
「あんた! 試合がもうすぐなのに、そんなとこで何やってんのよー!」
「ちょっと用事があるんだよー!」
「用事って何よー!」
「んなもん、詳しく説明してる暇ねえって!」
「雅史が浩之がどこかに行っちゃった、って心配してたわよー!」
「試合前には戻るから! あいつにはそういっとけって!」
「あんた、どこ行こうっていうのよー!」
「あー、もう、うるせえ! 戻るから心配すんな!」
「うるせえとは何よ、人が心配してやってんのにー!」
「いいから、雅史に大丈夫だっていっておいてくれー!」
「ちょっと待ってなさいよー! 今からそっち行くからー!」
「来なくっていいって!」
 浩之はそこで志保との遠距離会話を打ち切って、なんとなく二人のやり取りを見てい
た耕一を促して、遅ればせながら柳川たちの後を追った。
「ちょっと待ちなさいよー!」
 志保の声を背中で受け流す。
「志保……」
 大声張り上げて頭に血が上った志保にあかりが声をかける。
「何よ」
「今、浩之ちゃんと一緒にいたのって柏木耕一さんじゃなかった? 次に浩之ちゃんと
試合する……」
「……そういえばそうだったかしら」
 志保が公園の方に向かっている浩之と、そしてその隣を併走する耕一のことを見て、
目を細める。確認はできないが、いわれてみればそうなような気もする。
「よし、行ってみましょ」
 元々、好奇心は異常に旺盛な志保である。試合を前にした二人がどこかに行こうとし
ている。その行く先に何があるのかに激しく興味を覚えた。
「ヒロったら、なんかあるのよ」
 あかりを促して下に行こうとした時、
「すいません」
 一人の男が志保に声をかけてきた。
「何よ?」
 既に急ぎ足だった志保が胡散臭そうな視線で一瞥する。
 でも、まあ、決して悪くはないわよね。
 同時に、瞬時にして値踏みする。
「すいません、ちょっと今の見ていたんですが……」
 と、いうよりも、この場にいた人間ならば嫌でも今の志保と浩之のやり取りは耳目に
入っているだろう。
「あの人? 藤田浩之さんですよね。彼とは一度だけ会ったことがあるんですけど」
「え、ヒロの知り合い?」
 志保が後ろにいるあかりを振り返る。
 あかりは、自分は知らない、という風に首を横に振った。
「ちょっと自分たちも着いていっていいですか?」
 と、そういった男──長瀬祐介──の横にひっそりと立っていた月島瑠璃子が頷く。
「たぶん、お兄ちゃんがいるとしたらあの公園の方だよ……少なくとも、この会場内に
はもういないと思うよ」
「そうか……よし、行ってみよう。もしかしたら藤田くんたち、月島さんを見付けたの
かもしれない」
 話が全く見えない志保とあかりは、二人の会話をわけもわからず聞いているだけだっ
たが、二人が背を向けるとその後を追った。

「へえ」
 英二は、心底感心したような声を出した。
「な、なによこれ」
 理奈は恐怖を露骨に顕わにしている。
 だから、着いてくるなといったのに……。
 英二はそんな理奈を庇うように移動する。
 僅かに先に到着して、表情も感情も微動だにさせずに立っていた柳川がそれに目をや
って、目を細める。
「な、なんなのこれ、あの人がやったの?」
 さすがに、血を吐いて白目をむいている人間や、肘が外側に曲がっている人間や、口
角に泡を溜めて痙攣している人間などは刺激が強すぎたようだ。
「怖がることはない、おれがついてるから」
「……怖がってはいないわよ」
 二人から目を離して、柳川は視線を転じた。
 彼が探していた男は、下を向いていて、彼に気付いてはいないようであった。
 後ろから、靴が地面に擦れる音が近付いてくる。
「うおっ! また、派手にやりやがったなあ」
 これは……確か、藤田浩之とかいう青年の声。
「一……二……三……全員一人でやったのか……」
 これは……柏木耕一……甥の声だ。
 公園の奥まった一角。
 三人の人間が転がっていた。
 血を吐き、白目をむき。
 本来曲がるはずのない方向へ曲がった腕を健在な方の手で押さえて呻き。
 泡を吹き、ぴくぴくと痙攣し。
 三つの人体が転がっていた。
 その向こうで、下を向いている。
 ベンチに座って、下を向いている。
 注意して見れば、そのベンチにも血液がべっとり付着しているのがわかる。
 その男が吐血した様子は無い。どこかを怪我している様子も無い。おそらく、ベンチ
のすぐ側に転がっている吐血している男のものだろう。
「おい」
 柳川が一番最初に、声をかけた。
 下を向いていた顔が上がった。
 月島拓也は……奇妙なほど嬉しそうに笑っていた。

                                     続く

     どうも、vladです。
     78回目を数えて、とうとう物語も佳境に入ってこないと困るんで
     すが、まあ、無理矢理佳境入りさせますわ。
     ってことで、また来週。

                                    

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