鬼狼伝(77) 投稿者:vlad 投稿日:4月9日(日)23時27分
 三戸の心が軋んだ。思わず、レフリーに棄権を告げそうになる。
 顔がレフリーの方を向く。
 と、その瞬間の時を捉えて、拓也が組み付いてきた。左腕を両手で掴んで三戸を崩そ
うとする。それに気付いた三戸が慌てて体勢を立て直そうとした時、拓也が舞った。
 両足が三戸の左肩をロックする。
 海面に飛び上がった肉食魚が獲物に噛み付いたのに似ていた。
 左腕に拓也の全体重を乗せられて、三戸がたまらずに倒れる。
 そして、このままでは腕拉ぎが極まる。
 拓也が思いきり体重を乗せている。
 こいつ……落とした瞬間に折る気か!?
 三戸の全身が戦慄と化して震える。
 これは、体重をかけて極めた瞬間に折る気だ。
「うがっ!」
 声とも、呼気の塊とも取れるものが三戸の口から飛び出す。
 拓也が思いきり上半身を振った。
 それにさらわれて三戸の体が泳ぐ。
 一瞬片足立ちになって踏ん張った三戸の左足がマット上を滑る。
 三戸の背中がマットを叩いた時、両腕で三戸の左腕を掴んで引き付けたまま拓也が上
半身を後方に倒していた。
 ぷつ。
 そんな、張り詰めた弦が切れるのに似た音を三戸は聞いたような気がした。
 靭帯が伸びてしまったようだ。
 やられた!
 三戸の表情に滲んだのは苦渋。
 関節部を折られたわけではないので、試合続行は不可能ではないが、おそらくもう左
腕がまともには機能しない。
 負けだ。
 この後、左腕が万全でない状態で闘えるかどうか、といえばそれは可能だ。左腕が全
く動かないわけではないし、靭帯が伸びた程度ならば闘える。試合中に痛い痛いと思っ
ていて後で病院に行って初めて靭帯が伸びていたことを知ったという例を何件か知って
いる。
 だが、勝てるか、と問われれば難しい。よりによって相手も悪い。
 ぷつ。
 という音を聞いた時、三戸は右手でタップしようとしたが、突如、両手両足による左
肩から左腕への拘束が解けた。
 意外であった。
 突如として見せた無垢な笑顔によってわからなくなった拓也のイメージ、その不可解
極まりない笑顔を元に新たに構築したイメージを、さらに崩す緊張したような、張り詰
めたような表情。
 そこへ、三戸がタップもしていないのに技を解いてきた。
 仕掛けた拓也の方も三戸の靭帯を伸ばしたことに気付いているはずだ。
 だが、崩されて崩されて、また新たに築き始めた拓也のイメージからはおよそ遠い行
動であった。
 その程度で技を解くような奴じゃないはずだ。
 疑問が生じる。
 生じた疑問が三戸の中の拓也に穴をぽっかりと空ける。
 意外に、相手を必要以上に痛めつけることをよしとしない男なのだろうか?
 疑問には拓也の次の行動が答えた。
 上半身を起こしつつ、左足で三戸の体をまたぐ。
 仰向けの相手の上半身の上に馬乗りになる──すなわちマウントポジション。
 だが、基本的な形と違うのは、拓也の右足の位置である。
 拓也は右足を三戸の左腕──つまり、負傷した方の腕──に乗せていた。
 三戸の口から呻き声が漏れる。
 このポジションに移行するために腕拉ぎを解いたのか。
 しかし、グラウンドでの打撃が禁じられているエクストリームにおいてマウントポジ
ションはそれほど有効な体勢ではない。
 新たな疑問が生じる。
 それには、拓也の握り拳が答えた。
 それは不意にやってきた。
 それは来ないだろう、と思っていた三戸の意識外からそれは飛んできた。
 拓也の右拳が三戸の顔面にゆっくりと降ってきた。その際既に左手で三戸の右手を掴
んでいる。
 三戸の眼前で止まり、ゆっくりと、拓也の右拳が上がる。
 まさか、次は本気で殴ってくるんじゃ……。
「おい……」
 三戸の心が軋んでいた。

 左腕……折れてはいないが、確実に靭帯にダメージを与えた。
 普通だったら、試合を棄権するだろう。                      
 だが、同志ならばどうだ。
 藤田浩之という、とてもいい男がいる。
 藤田浩之は腕を折られても反撃してきた。
 この男はどうだ?
「おい……」
 どうした?
 なんだ。その顔は、まさか、もうやらないなんていうんじゃないだろうな。
 藤田浩之は腕を折られてもまだやるといったぞ。
 よく考えてものをいうんだ。
 僕は、お前の次の言葉で判断するつもりだぞ。
 同志か否か──。
「止めろ」
 なぜ?
「もう終わりだ」
 終わりなのかい?
「左腕の靭帯がイカれた。もうやれねえ」
 その答えていいんだな?
 同志じゃ……ないんだな?
 違うんだな?
 瞼の上から指で押したり、僕の指を極めようとしてのも、違うんだな?
 僕はあれを同志だというメッセージだと思ったけど、違うんだな?
 だったら、もう用無しだよ。
「終わりだ」

 右拳が降ってきた。
 さっきみたいにゆっくりとじゃない、速く、強く、一辺の容赦も無く三戸の鼻を叩い
た。
 浮いて……また落ちる。
 今度は唇の辺り。
 三発目もまた同じ箇所。
 四発目も同じ。
 五発目も同じ。
 六発目も同じ。
 口の中が血の味で一杯になる。

 違うじゃないか。
 お前なんか違うじゃないか。
 腕の靭帯が伸びただけで降参するなんて違うじゃないか。
 騙したな。
 嘘をついたな。
 全然違うじゃないか。
 ほら、反撃してみろよ。
 要らないよ。
 お前なんか、僕には必要無いよ。
 さよならだ。

 素早い小刻みなパンチが立て続けに入った時に、レフリーが動いたが、彼が拓也の右
腕を制するまでに、計六発のパンチが三戸の顔に炸裂していた。
 右腕を掴んで引き剥がした瞬間、拓也がレフリーの腕を極めてマットに這わせた。
「ふん」
 手を放し、歩き出す。
 三戸にも、レフリーにも、観客にも、一切視線を行かせなかった。
 前だけを見て歩いていた。
 試合場を下り、歩いていった。
 入場口のところにいた英二にすら一瞥もくれずに歩いていった。
 それを見送った英二の腕に、いつの間にか理奈がしがみついている。
「何よ……あの人」
 場内には、月島拓也の反則負けがアナウンスされている。
 拓也の背中が通路の奥へと消えた時、英二は理奈の腕を振りほどいた。
「ちょっと、行ってくる」
「私も行くわ」
「……好きにしなさい」
 理奈を説得することで時を費やすことを恐れて、英二はいった。
 今の試合、英二は技の攻防、力の移動よりも拓也の表情を観察していたといっていい。
 入場から試合序盤、いつものように細い目で無表情であった。
 試合中盤、突然、拓也が笑顔になった。無邪気な子供のようなそれだった。
 終盤、張り詰めた、怒っているような表情になり、その表情のまま三戸の腕を伸ばし、
上に乗り、殴った。
 そして今、自分の横を通り抜けた拓也は、いつものように細い目で無表情であった。
 変わらぬ顔で去っていった。
 だが……何かが違う、ということを英二は感じ取っていた。
 とにかく違うのだ。
 今の拓也には、普段より一層、危なっかしさがある。
 野放しにしてはいけないような気がした。

 歩きながらどこへ行こうとは考えていなかった。ただ、前に進む。道が分かれていれ
ばその瞬間に思った方へと曲がる。
 先に何があるかを考えてはいなかった。
 なんだか、同じところをぐるりと大きく回ったような気がする。
 どこへ行こう。
 どこへ行けばいいのか。
 目的の無いまま拓也は歩き続ける。
 その時、拓也は悲しんでいた。
 それを指摘すれば必ず拓也自身はそれを否定したであろうが、この時、確かに拓也は
悲しくて、寂しくて、彷徨っていた。
 だから、出た結論はこうだった。
 同志に会おう。
 同志に会ってこの気持ちを打ち明けよう。
 もちろん、口でじゃない、言葉でじゃない。
 同志たる者と自分には共通の言語がある。
 それで打ち明けて、付き合ってもらおう。
 自分は、悩みや寂しさを他人にさらけ出すタイプの人間じゃない。むしろ、そういう
行為を嫌う方だ。
 でも、同志ならいいな。
 それに、この寂しさを満たしてくれるのは同志しかいない。
 だが、藤田浩之と柏木耕一はどうであろうか。二人とも間違いなく同志だと思うのだ
が、この二人はこれから二十分の休憩を挟んだ後に試合をすることになっている。
 付き合ってくれないかもしれない。
 緒方英二──。
 そういえば、さっき擦れ違ったような気がしないでもない。でも、この男は先程、耕
一と試合をして相当消耗しているはず。
 付き合ってくれないかもしれない。
 あの人はどうだろう?
 あの人も、絶対に同志だ。口ではなんといっても、ギリギリの闘いに身を浸すことが
できる人間だ。
 この会場には来ているはずだ。さっき、女子の部の決勝で優勝した選手のセコンドに
ついていたのを見ている。
 あの人なら付き合ってくれるかもしれない。

 浩之は控え室のモニターで試合を見ていた。が、この拓也のいう「同志」は拓也の行
動がわからない。なぜ、あんなことをしたのかがわからないし、試合場を去っていく際
に彼が何を思っていたのかがわからない。
 だが、何か理由があったのだろう、とは思う。
 無性に、気にもなった。
 浩之は、控え室のドアを開けて表に出た。次の試合まで二十分。ちらりと時計を確認
する。

 耕一は試合場のすぐ下からあの試合を見ていたので、控え室のモニターで観戦してい
た浩之よりは細部のことがわかった。マウントポジションからパンチを打ち下ろすまで
の間に、拓也と三戸が何か会話を交わしているらしいことが知れた。
 あそこで、三戸が何か拓也の気に触ることをいったのだろうか?
 去っていく拓也には、何か鬼気迫るものを感じた。
 少し気になった。

 一方、拓也の表情無き表情にある種の感情を見出した人間は会場内に二人いた。

 祐介は、思ってもいなかった……いや、ある意味で、予想していた最悪の事態で終わ
った試合の結末に二階席から見ているだけでも疲労感を感じていた。
「長瀬ちゃん」
 そこへ、彼の恋人が声をかけてくる。
「なあに? 瑠璃子さん」
「お兄ちゃん、寂しそうだね」
「え?……」
 寂しい……のか?
「ちょっと話をしてくるよ」
 席を立った瑠璃子を追って、祐介もまた立ち上がった。

「あー、駄目ですよ。ちゃんとルール守らなきゃ、エクストリームが野蛮なものだと思
われてしまいますよ」
 と、いうのは、女子の部で優勝などして、色々とそれなりにエクストリームに対して
生じた自らの責務というものを自覚しつつある御堂静香である。
 彼女は横に立っている柳川祐也に向けて先程まで「これから、エクストリームの発展
のために自分が何を出来るか……」などなどと話していたのだ。
「ああ、そうだな」
 それに対して相槌を打ちつつ、柳川は入場口に消えていく拓也を見ていた。二人がい
るのは拓也が入場してきたのとは逆方向の入場口近辺である。
「あいつ……寂しそうだな」
「え?」
「すぐ戻る。ここにいろ」
「は、はい」
 奇異な視線を背中で受け流しつつ、柳川は手近の入場口に消えた。
        
                                     続く

     あー、どうも、vladです。
     77回目であります。
     後少しなんです。うん。