鬼狼伝(76) 投稿者:vlad 投稿日:4月3日(月)00時17分
 戦っている最中に寒気を感じる。
 そういうことが今までに無かったわけじゃない。
 強烈なパンチを貰うと覚悟した瞬間、自分の腕が取られて極められる、と思った瞬間、
ここぞというチャンスを掴んだ瞬間。
 寒気が全身を貫いた経験はあった。
 だが、一瞬一瞬のものだ。
 寒気を感じっぱなし、というのは三戸にとって初めての経験であった。
 腕拉ぎ逆十字固めをなんとか逃れようと両手をクラッチさせながら足でマットを蹴っ
て上半身の向きを変えようとする。
 拓也が吸い付いたように三戸の右腕に貼り付いている。
 掌に汗が浮き上がってくる。
 歯軋りしながら耐えている。
 指にも汗が光り出す。
 今は親指を除く四本の指を鉤状に曲げて互いに引っかけているので耐えられるが、こ
の指が伸びたらすぐに汗で滑って解ける。
 寒気を感じながら指に力を込める。
 冷や汗で全身を濡らしながら十字を極められる直前で耐え続ける。精神をすり減らす
作業だ。
 クラッチを維持したまま左半身を上げていく。
 拓也がそれを両足で防ごうとするが……凌いだ!
 そのまま上半身を起こしていく。
 拓也の両手両足が即座に位置を変える。
 三角締め。
 凌ぐ。
 足をすくわれてアキレス腱固め。
 これも凌ぐ。
 しかし、次から次へと拓也の仕掛けが続き、三戸が攻勢に転じる暇が無い。
 こちらが力を入れる前にその方向を知っているかのようだ。
 凄まじい精神的な疲労感が蓄積していく。
 どのように足掻いても常に一歩先手を取られる。
 場外ラインは遠い、二人が転がっているのは試合場のほぼ真ん中だ。
 拓也が再び腕拉ぎ逆十字固めの体勢に持っていく、今度は右。
 絶え間なく続く拓也の執拗な攻撃に三戸の心はもはや挫ける寸前であった。これを凌
いででもすぐにまた拓也の次なる攻撃が来るだろう。それを凌げばまた次だ。
 拓也は相変わらず笑っている。
 無垢な笑顔をしたまま三戸の腕を極めようとしている。
 だが、三戸はそれとは別に純粋に技術面での拓也の怖さを既に嫌というほど実感して
いた。
 グラウンドでの取り合いになると人間というよりも精密機械に近い。
 極度にミスをせず、こちらのそれはどのように些細なものでも瞬時に見抜き即座に衝
いてくる。
 一度優位な体勢を許せば容易にそれを手放さない。
 そうなれば今の三戸のように延々と拓也に押されることになる。
 そして、いつしか極められる。
 三戸だからここまで凌ぎ続けられているのであって彼よりも実力の無い人間ならばす
ぐに極められているに違いない。
 その三戸も心が折れそうになっている。
 心の底から対戦相手に「こいつには勝てない」という感情を抱いてしまうことを心が
折れることだとすれば、今正に、拓也は三戸の心を極めてへし折らんとしている最中で
あった。
 どうしてもこいつには勝てないんじゃないか。
 その気持ちが三戸の中に芽生える。
 骨が軋む音とは全く異質な音が三戸の中だけに響く。
 心が軋む音だ。
 心が極められて軋んでいる。
 勝てない。
 こいつには勝てない。
 そんな音色をしていた。
 どうやったって、こいつに勝てるわけがない。
 このまま右腕を極められてタップして、それで負けか。
 その近い未来のビジョンが脳裏に閃く。
 だが、その一方で軋みに耐える音も上がる。
 まだまだ……。
 まだ、負けんぞ、これを凌げば、きっとチャンスが……。
 二つの音がぶつかり合う。
 三戸の右腕が拓也によって伸ばされようとしている。
 やはり、駄目か。
 思いながら視線をやった拓也の顔に、凄絶な寒さを感じて三戸は伸ばされようとして
いる右腕を強引に力任せに曲げた。
 折る気だ。
 それがはっきりとわかった。
 こいつ、おれの腕を折る気だ。
 タップをしても技を解くかどうか疑わしい。
 冗談じゃないぞ。
 左手を走らせてクラッチ──。
 だが、クラッチがいつまでも保つか。
 むしろ、左手で右腕を掴んだ拓也の手をはずした方がいい。片方を外してしまえば後
は力比べだ。力では、それほどに両者に開きは無い。
 だが、短時間で外さねば意味が無い。
 それを思った時──。
 恐怖が背中を押した時──。
 三戸の頭脳から呼び覚まされたのは、ある古流武術の一流派の道場に出稽古に行った
時の記憶だった。
 試合じゃ、こういうのは使えないだろうけど……。
 と、前置きしながらそこの師範代が教えてくれた方法だ。
 三戸は右腕を曲げて耐えつつ、左手を伸ばして拓也の左手の人差し指と中指を掴んで
手首を返して極めた。
「!……」
 たまらず拓也の左手が三戸の右腕から離れる。
 瞬間、指を話して左手を右手と結んでクラッチさせて思い切り左に転がるように拓也
の右手を外す。
 上手くいった。
 安心した瞬間、レフリーの声が降ってきた。今の指を取ったのを見られたようだ。が、
まあ、それはどうでもいい。
 レフリーが二人を立たせて中央線まで戻し、三戸に向けてイエローカードを提示した。
 禁止事項になっている「危険技」の使用によるものである。
 まあ、かまわん。
 三戸はそれをあっさりと受け入れた。
 見られていたのなら抗弁しても時間の無駄であるし、そもそも覚悟の上だ。あれをや
っていなければ腕が折られていたかもしれない。
 試合再開の瞬間、三戸の目に拓也の無垢な笑顔が飛び込んできた。
 この男、まだこんな顔を……。

 今度は指を取ってきた。
 歓喜がしみ出すような笑顔で拓也は笑っていた。
 やるじゃないか、同志。
 レフリーが見ていて、観客が見ている。そんな試合でも、いざ負けるとなれば躊躇無
く、例え反則を取られようとも手段を選ばない。
 次は自分の番だ。
 レフリーに悟られずにあなたの指を取ってみせよう。
 そして、指を極めて相手をコントロールして関節を極めてタップを奪ってみせる。
 こういう試合でなければそのまま指を折ってしまうのだが、ここで反則負けになって
次の試合に進めないというのも残念だ。なにしろ、次は耕一か浩之が相手なのだ。
 拓也の同志はほとんどいなかった。
 付き合ってくれる人間がほとんどいなかった。
 それもそのはず、拓也に付き合うということは、極められれば折られるということだ。
 そんな拓也と闘ってくれる人間などそうそういようはずがない。
 だが、藤田浩之という男がいる。
 この男との闘いには一応ルールがあったが、拓也がそれを無視すると浩之は抗議など
せずに自らも無視して反撃してきた。
 いいだろう、付き合ってやるぜ。
 浩之がそういっているように思えた。
 嬉しくなった。
 嬉しくてたまらなくて、浩之の腕を折ってやった。
 腕を折って終わりかと思っていたら、その油断を衝いて浩之は反撃してきた。
 馬乗りになられて顔を何発か殴られた。
 嬉しくなった。
 まだまだ付き合ってやるぜ。
 浩之がそういっているように思えた。
 腕を折られながらまだ付き合ってくれる人間がいたのか。
 浩之は片腕が使えないながらもさらに闘い、拓也の顔面に蹴りをくれた。
 鼻が潰された。
 でも、とても嬉しかったから、もちろん止めなかった。
 そこで、その場にいた緒方英二に止められた。そして、このエクストリームに耕一が
出場することを知り、さらに浩之も出るらしいことを知った。
 柏木耕一。
 この男も、気になる男だった。
 殴ったわけでもなく、蹴ったわけでもなく、極めたわけでもない。
 ただ、両肩に手を置いただけで、自分に本能的な恐怖を感じさせた男。
 この男とやれるなら……。
 もう一度、浩之とやれるなら……。
 そう思ってここに来た。
 組み合わせを見ると、自分だけ別のブロックにいた。
 なんだか妙に寂しくなった。
 でも、ここに同志がいた。
 一回戦で自分が使ったレフリーに見つかれば反則の攻撃を試合開始直後に仕掛けてき
た。
 やろうぜ、付き合ってくれよ。
 そんな声を聞いたような気がした。
 笑顔のまま、拓也が三戸のパンチをかいくぐってタックルを決めた。

 倒された時、三戸は少しでも優位なポジションを確保しようと激しく動いた。
 揉み合う内に指に痛みが走ったのは驚きの対象ではなかった。やはり来たか、という
予感が当たった感じだ。
 指を極めながらこちらの動きをコントロールして関節を極めやすい体勢に持っていこ
うとしているのだということを三戸は看破した。
 上手いぐあいにレフリーから死角になるようにしている。
 だが、そんなもの──。
 おれが教えてしまえば無駄だ。
「レフリー!」
 三戸は叫んだ。
 それは当然の行為であって、権利の行使であって、何もおかしなことではないと確信
しての行動だった。
「レフリー! 反則だ! 指極めてるぞ、指!」
 その叫びに応じてレフリーが位置を変える。その目に、はっきりと拓也の手が三戸の
指を掴んでいるのが見えた。
 拓也は、レフリーに見られているというのにそれを隠そうとも放そうともしない。
 力を入れてもいなかった。
 ただ、呆然としていた。
 微かに笑みが浮いていた。
 何が起きたかがいまいち理解できない笑みであった。
 レフリーによって三戸から放され、目の前にイエローカードを突き出されても、まだ
理解が及ばないらしかった。
 最初に、ふっ、と思い付いたのは、これも三戸の戦法なのか、ということだ。
 先程自分もイエローカードを貰ってしまったから、こちらにも同じだけの減点を与え
ようというのだろうか。
 理解できないことは無いが、それは違うのではないか?
 手段を選ばないといってもそれは違うのではないか?
 レフリーの力を借りるのは違うのではないか?
 自分がやったことはやられる覚悟をしていて然るべきではないのか?
 疑問が幾つも生じる。
 疑問の果てに、最大の疑問が生じる。
 ──この男、同志じゃないのか?
 違うのではないか?
 違うのか?
 お前、違うのか?
 同志じゃないのか!?
 お前、同志じゃないのか!?
 試してやる……。
 拓也の顔から無垢な笑みが消えていた。

 試合再開の時、何気なく拓也の顔を見た三戸の目が見開かれた。
 どうせ、また、あの薄気味悪い笑顔をしているのだろう。そう思っていた。
 違う顔がそこにはあった。
 張り詰めて、緊張したような顔。
 なんだ!?
 こいつ……。
 怒っているのか!?
 そう思った途端に、三戸の心が軋んだ。

                                          続く

     あー、どうも、vladです。
     76回目となりました。
     一時問題ありそうだったんですけど、今や全く問題無しです。
     たぶん。