鬼狼伝(75) 投稿者:vlad 投稿日:3月27日(月)00時31分
 気色が悪い。
 三戸雄志郎の背筋を縦断した悪寒は消えない。
 この気色の悪さはなんであろうか──。
 悪寒の原因はこの男の気配だ。
 薄ら寒い、それに触れていると肌にぶつぶつと鳥肌が沸き立ち、背筋が凍り、寒冷が
全身を蹂躙する。
 そして、この男はいつ反則スレスレの危険な攻撃をしてくるかがわからない。
 それに裏付けられて寒さは一層に三戸の身を突く。
 しかし、三戸だって負けてはいない。
 この男が一回戦、精英塾の深水征に使った反則まがいの戦法をこっちが逆に仕掛けて
やった。
 惜しくもそれで仕留めることはできなかったが、やってやった。三戸は会心の気持ち
で立ち上がった。
 そして、その男を見る。
 タックルを潰して、バックを取って、こいつが使った戦法を逆に使ってやった。
 してやったり、という気持ちが強い。
 こいつも普通の、おれと同じ人間じゃねえか。
 そう、強く思う。
 だったら、恐くねえ。
 強く思う。
 恐くねえ。
 それを唱える。
 鳥肌が背筋の悪寒が、嘘のように引いていく。
 熱を持ち始めた身体を持て余すようにステップを踏む。
 さあ、早く立ってこい。叩き潰してやる。
 背中を向けてうずくまったその男が立ち上がるのを待つ。
 その男が、身を起こしながら振り返る。
 想像していたいかなる表情も無かった。
 怒ってもいない。恐れてもいない。驚いてもいない。
 笑顔──。
 その男──月島拓也──は笑っていた。
 しかも”無垢”と表現していいような不純物の無い笑顔だ。
 本来、このような場面で出てくる笑顔とは、三戸には到底思えなかった。
 このような場面で出てくる笑顔とは、不敵な笑みか、それとも冷笑の類であろうと三
戸は思っていた。
 そういう種類のそれならば何も恐くはない。
 何を余裕くれてんだ、おい。
 そんな感じに闘志も沸こうというものだ。
 だが、純粋に笑顔だ。
 その笑みは作られたものではなかった。
 それは本来の笑みであった。
 嬉しい時、喜んだ時に自然とこぼれてくる笑みがそこにあった。
 親愛の情がそこにあった。
 なんだ!?
 拓也の無垢な笑顔が三戸に目に見えぬ衝撃を与えてくる。
 それまで我が身の中で抱き、形成してきた「月島拓也」という名の人間に対するイメ
ージが根底から覆されそうになる。
 無垢な笑顔が、三戸の中にいる月島拓也を激しく揺さぶり、侵食する。
 どことなく不気味な奴だ……。
 そう思いつつも、ある程度のイメージは固まっていた。輪郭まではっきりと見えてい
た。
 それが一瞬にして掻き消える。
 輪郭がぼやけ、その中に入っていた月島拓也が中空に滲み出し、漂い、不定形の存在
となって笑っていた。
 滲んだその笑顔はやはり無垢。
 なんだ、こいつは!?
 惑う自らを叱咤するために三戸が左右の掌で思い切り自分の頬を叩く。
 まだ、笑っている。
 三戸の中の滲んだ拓也もまだ笑っていた。
「くそ!」
 思わず声が出る。
 ばちん!
 と、奥歯が震動する勢いで頬を叩いた。
 拓也が笑みを消さぬまま立ち上がってきた。
 その笑顔は無垢そのもの。

「……?」
 長瀬祐介は感じた違和感を音声にすることができずに首を傾げた。
 祐介には格闘技のことはわからないので、細かい攻防に関しては皆目見当がつかない。
 祐介が知っているのはスリーパーホールド、腕拉ぎ逆十字固め、アキレス腱固めなど
の比較的知名度の高い技の最終的な形ぐらいなもので、グラウンドでのやり合いになる
と何がなんだか不明である。
 初めは単純に上になっている方が有利なのかと思っていたらそうでもないらしく、下
になっている人間が首と片腕を両足でロックして勝つこともあった。
「えーっと、あれは三角だよ……うん、三角固め」
 と、教えてくれたのは彼の隣に座っていた恋人だ。
 正しくは三角絞めである。
「お兄ちゃんが練習してるの見てたら、教えてくれたよ」
 と、いうことらしい。まさか練習といっても二人で組んず解れつしているわけではな
いだろう、見てたっていってたし、きっとそうだろう。うん、そうだな、自分の恋人を
信じろ、長瀬祐介。
「長瀬ちゃん?」
 隣に座っていた彼の恋人にして月島拓也の妹、月島瑠璃子が不思議そうに尋ねる。
「……長瀬ちゃん?」
「……ああ、ゴメン」
 二回目に呼ばれてようやく気付いた。色々あって変わったつもりだが自分でも知らず
知らずの内に妄想を逞しく育ててしまう癖は抜けきっていない。
「お兄ちゃん……なんだか嬉しそうだね」
「え?……」
 嬉しそう……。
 そういう捉え方は祐介の中のどこを探しても無かった。
 祐介が立ち上がった拓也に感じたのは、ただただ不思議な念だけであった。それが違
和感となって祐介の首を傾げさせていた。
 祐介が感じたその違和感を瑠璃子が「嬉しそう」と表現したのがどうにも気になった。
 そうなのだろうか?
 目を凝らして、座っている一番安い席から拓也を見る。
 瑠璃子が「お兄ちゃんが試合してるとこを見たいよ」といったので、そんなら少し甲
斐性というやつを見せるか、と思って全額負担を申し出たものの、思っていたよりもエ
クストリームの席が高いのに驚きながら購入した3000円席だ。
 嬉しそう……には祐介には見えなかった。
 とにかく、試合開始当初と変わったような気がしてならない。
 嬉しい?
 そうなのか?
 その割りには今の拓也からは薄ら寒いものが感じられてならない。
 それがあの人の嬉しい、ということなのか?
 思考が乱れる。
 ふと、実際に向かい合っているあの三戸という人は自分よりも乱れているのかもしれ
ないと思った。

 乱れに乱れた思考をまとめ上げる前に試合が再開され、三戸はとりあえず本能的に距
離を取った。
 親しげな表情の拓也がそれをゆっくりと追う。
 時間だ。
 乱れた思考を正常に戻すためにとにかく少しでいいから、落ち着くための時間が欲し
い。
 来るんじゃねえ!
 後方にステップを踏む。
 拓也が親しげな笑みを浮かべたまま開いた距離を詰めてくる。
 なぜ、そういう顔で進むことができる。
 進んだ先には自分との闘争があるというのに……。
 闘争に向かって、なぜ、そんな顔をして進んで来られるのか。
 近付いてくる。
 にこやかに、親しげな顔が近付いてくる。
 相変わらず頭を両肩の間に沈めるようにしている。
 おれが何をした!?
 おれは、こいつに何をした!?
 そんな親しげな笑顔をさせる何をした!?
 元々薄気味悪かったこの男をさらに気味悪く、だけでなく不可解な存在としてしまっ
たのはなんだ。
 おれがした何らかの行為が原因なのか!?
 考えられるのは、その直前にやった行動だ。
 タックルを潰して、バックに回って、スリーパーホールドを狙い、それを防ぐために
拓也が顎を引いたのを閉じた瞼の上から左目を親指で押して上げさせようとした。
 かつてこの男が深水征に使った戦法をそのまま使ったものだ。
 それか……いや、それしか考えられない。
 現在、試合時間は第1ラウンド五十秒を経過したところである。この短い邂逅の間に
それと思えるものはそれ以外に無い。
 それに対する何らかのリアクションがあることは当然予期していたが、幾つもあった
想定の中にあんな笑顔は無かった。
 拓也があの笑顔のままやってくる。
 それから逃げて後退していた三戸は、自分の足がラインを踏んでしまったことに気付
いた刹那、横に飛んだ。
 ついつい後退し過ぎた。故意にライン外に出ることはペナルティになることは重々承
知していたのにだ。
 まずい、焦っている。
 それが苛つくほどに自覚できる。
 このままでは勝てるものも勝てない。
 とにかく、攻めよう。自ら動いてこの状況を打開しよう。
 横に飛んだ三戸を、ゆっくりと体の向きを変えることで追った拓也は、真っ正面から
目が合うと、また前進を始めた。
 今度は三戸もそれに呼応するように前に出ていく。
 後、二歩踏み込めばパンチが当たるという間合いになった時、拓也が左手を前方に、
泳がせるように出してきた。
 拳は握られていない。
 指が小刻みに揺れ動いている。
 アマレスによく見られる手の探り合いに近い動きだ。
 このルールの試合でアマレス流の手の取り合いをしようというのか。
 だが、当然相手がそれに応じず打撃を送り込んできた場合のことも想定しているはず
であり、むしろ初めからそれを見越して打撃を待っているのかもしれない。
 三戸は迷った時は相手の表情でその考えを読む。
 この時も自然と視線が表情を探った。
 見てから舌打ちする。
 やっぱり、あの笑顔だ。
 苛立ち、焦る。
 焦り、苛立つ。
 二つが交互に左右から心を揺さぶっているようだった。そしてそれが互いに相乗効果
を及ぼし合っている。
 この顔だ。
 この無垢な笑顔がいけないのだ。
 これのせいで自分は苛立ち、焦り、冷や汗で背中を濡らしているのだ。
 殴ってやる。
 思い切り、拳をぶち当てていく。
 別にそれを喰らわせたからといって拓也の笑顔に亀裂が入って砕け散るわけではない
が、少なくとも、笑ってはいられなくなるはずだ。
 獲物を求めるように宙を漂う拓也の左手に合わせて、三戸が右手を出す。
 五本の指では最も長い中指同士が軽く触れる。
 瞬間、三戸は右手を引きつつ、左手を振った。
 左のストレート、拓也の顔目がけて一直線に向かう。
 当たった。
 すぐに引く。
 浅い。
 左のそれが来ると察知して拓也がスウェーで上半身を引いていた。見事な距離の取り
方といっていい。
 だが、それよりも三戸に衝撃を与えたのは、左ストレートが入る前も、入った瞬間も、
入った後も、拓也の表情に一切の変化も見受けられないことであった。
 変化といえばただ一つ。
 鼻の穴から赤い筋が下っただけ。
 その赤い色は、唇から顎へと伝った。
 それでも、表情自体に変化は無い。
 無垢な笑顔。
「ぬあああっっっ!」
 張り裂けるような叫び。
 それと共に繰り出される右のストレート。
 それが空を切った時、拓也は三戸に密着していた。
 パンチを紙一重でかわして右脇へ──。
 三戸が触れたと感じた次の瞬間には感触が背中に回っていた。
「おおおっ!」
 その声もまた張り裂けるような響きを伴っていた。
 右足で、柔道の小内刈りの容量でバックについた拓也の右足を刈って倒す。
 体重を乗せて倒れる。
 潰れてしまえ!
 背中に衝撃が来た。
 倒れる寸前、拓也が刈られた右足をマットにつけ、それを起点に体を左に回転させて
三戸とマットの間から脱していた。
 横四方固め。
 それを跳ね返そうとする三戸の体に吸い付くように拓也が密着していた。
 跳ね返そうとする三戸の力にほとんど逆らわず、三戸が望んだのとほぼ同じ動きをさ
せ、その先手を行って有利なポジションを有し、右腕に腕拉ぎ逆十字固めを極めていこ
うとする。
 こいつは……!
 自分の心を読んでいるとでもいうのか!
 極められる!
 三戸の全身を寒気が巡った。
 
                                     続く

     あー、どうも、vladです。
     75回目となりました。
     この試合、もう一回引っ張ります。