鬼狼伝(74) 投稿者:vlad 投稿日:3月20日(月)00時29分
 大会係員が呼び出しに来た時にすぐに同じジムの人間が来た。
 係員に促されて立ち上がり、控え室を出る。同じジムの人間は次の試合のために情報
収集に行ってくれていた。
 その話を歩きながら聞く。
「精英塾の奴に話が聞けたぜ、運良く、うちに出稽古に来たことある奴がいたんでな」
「そうか……それで?」
 と、三戸雄志郎(さんのへ ゆうしろう)が後を促す。
「やっぱりお前の睨んだ通りだ。あのスリーパーに行かれる前に、やられたらしいぜ」
 浅く、三戸が頷く。
 これから試合をする月島拓也という男について、三戸には少し懸念の種があった。
 二回戦、月島拓也は序盤で押されたものの第1ラウンド、約三分で相手を仕留めてい
る。この試合はいい。
 三戸が気になったのは一回戦、精英塾の深水征(ふかみず ただし)との試合の終盤
である。
 この試合、拓也がスリーパーホールドで勝利している。
 その直前、バックを取られてスリーパーが来ることを予測した深水が顎を引いて、腕
を首に入れさせないようにする場面があった。
 そこで拓也は腕を顔に押し付けて引き付け、顎を上げさせてからスリーパーを極めて
いった。
 その際の動きに三戸を刺激するものがあった。
 見た目にはごくごく普通のやり方の一つであった。
 だが、どうにも引っかかったのが拓也が深水の顎を上げさせるために使った腕の位置
である。
 あの時、拓也はまず右腕で首を極めようとし、顎にそれを阻まれるとその右腕を移動
させてそれで顎を上げさせ、左腕を首に入れて技を極めた。
 その時、右腕の掌……つまり手の先端部分が深水の左目の辺りに来ていた。
 控え室に設置されたモニターで三戸はその試合を観戦していたのだが、それを見た時
に何を思ったのかというと、浅いな、ということであった。
 あれでは、左側頭部が全くロックされていない、頭を思い切り左に捻られたら抜けら
れるぞ、と思っていた。
 もっと腕を左に持っていって深く、肘の辺りを顔の真正面に来るようにしてガッチリ
とロックせねばならない。
 そう思っていたのだが、ふっ、と深水が顎を上げた。
 首と顎の間に生じた隙間はすぐに拓也の左腕に埋められた。
 あれ? と思った時にはスリーパーが極まっていた。
 三戸は深水を高く評価していた。
 前述した会話でもわかる通り、三戸の通っているジムと精英塾には交流があり、実際
に手を合わせたことは無いながらも深水という男のことは聞いていた。
 その深水がどうも自分が納得できない負け方をした。
 幸い、自分のジムと精英塾には繋がりがある。そこで今大会で自分のセコンドについ
てサポートしてくれている人間にちょっと探ってくれるように頼んだのだ。
「やっぱりだ。あの時、目をやられたらしいぞ」
 と、三戸のやや後方を歩きながらセコンドの人間がいった。
「親指で閉じた目をグリグリいったってとこだろ?」
「その通り」
「ふうん」
 既に月島拓也が入場しているのだろう。遠くの方から聞こえてくる人の声のさざ波を
浴びながら三戸は唇を強く噛んだ。
「そういう奴か」
 いいながら、入場門を潜った。

 十六人が八人、そして八人が四人。
 四人の人間が「優勝」という可能性を抱いている。
 月島拓也。
 三戸雄志郎。
 柏木耕一。
 藤田浩之。
 この四人だ。
 既に二回戦を勝ち上がった男たちである。
 それだけである程度の実力と運を持っている証明であろう。
 月島拓也ほど、そのことを誇っていない男もいなかっただろう。
 三戸だって耕一だって浩之だって、準決勝にまで残れたことを少なからず誇りに思い、
嬉しく思っている。特に浩之などはこれで念願の耕一との再戦ができるということでそ
れも一際だろう。
 拓也はそれをどうでもいいと思っている。
 不意に、試合を目前にして荷物をまとめて帰ってしまう危険性があるのは唯一、この
男だけだ。
 ただ、次のために試合場にやってきた。
 柏木耕一。
 藤田浩之。
 いずれが勝ち上がってきてもいい。
 どちらもやりたい相手だ。
 耕一とは、以前にある病院の廊下で一触即発にはなったものの、耕一に拓也がいなさ
れる形になってしまって、以後手を合わせていない。
 浩之とは、かつて自分が通っていたことのある道場で試合った。心身を踊らせること
のできる闘いができた。明確に決着がつかずに痛み分けの形になったが、決着をつけた
い気持ちがある。
 そのために、準決勝を勝つ。
 三戸雄志郎という「道」を通る。
 歩いて通る。
 なんの気負いもなくまかり通るつもりだった。
 負ける気が全くしない。
 三戸の試合は一回戦も二回戦も見た。
 実力者だと思う。グラウンドでのテクニックに拓也が感心するだけのものを持ってい
る。
 でも、負ける気がしない。
 これに勝てば耕一か浩之とやれるから負ける気が塵ほどもしない。
 これに勝ったら絶対だ。
 はずれは無い。
 いずれかと必ずやることができる。
 だから、負ける気がしない。
 自分で自分のことはわかっている。
 自分が、強力な願望を実現するために常人にはできないことをできる、ということを
知っている。
 僕はそういう人種だ。
 三戸が試合場に歩いてくる。
 特に興味は無い。
 実をいうと、拓也は三戸の名前もよく覚えていない。三という字が入っていたな、と
いう程度の認識しかなかった。
 その「三という字が入っている」男が試合場に向かってくる。
 やってやるぞ。
 そんな気負いは無い。
 こいつを倒さないと美味いものが食えないから排除するだけだ。
 さあ、来い。
 排除されるために来い。

 三戸は月島拓也と向かい合った時に、初めて何やら薄ら寒いものを感じた。
 向き合って、いざ試合、となった時になって初めてわかった。
 こんな薄ら寒い奴だったのか……。
 細い目から放たれる細い眼光が寒い。
 全身から発している雰囲気も寒かった。
 なんだろう。
 拓也に見つめられた関節の節々が不可視の何かにつつかれたようにむず痒い。
 これは……思っていた以上に……。
「それでは、二人とも正々堂々、悔いの無いように」
 ルールについての諸注意を行った後、レフリーがそういった。
 正々堂々ね……。
 また、難しいことをいってくれる。
 三戸は機会があればいきなり仕掛けるつもりであった。
 控え室からここまで歩いてくる間、考えてはいたが決意には至っていなかった。
 それが、向かい合って決意した。
 やってやろう。
 レフリーが拓也を見る。三戸を見る。
「はじめっ!」
 その試合開始の声を聞き、三戸は身構えた。
 ……?
 二人の間に対流する空気に違和感を感じて三戸は念のため、数歩後退した。
 試合開始ともなれば、誰でも気が引き締まる。
 その気配は、いくら隠そうとしても自分から拓也へと流れていったはずだ。
 だが、拓也の方から自分へとそれと同種のものが来ない。
 なんといえばいいのか。
 寒い。
 とにかく、熱が無い。
 顔を見る。
 試合開始前と後で変化が全く無い。
 その顔が下方へ──。
 両肩の間に顔を埋めるように──。
 これまでに何度も見せた体勢を低くしたアマレス風の構えである。
 試合を見ていれば、この月島拓也という男がグラウンドを自らの領域としている選手
であることが三戸にもわかっている。
 ならば、それに乗ってやろう。
 正確には、乗ると思わせる。
 無造作……という表現をしたくなるような足取りで前に出る
 拓也が狙っているのはタックルだろう。
 それを読む。
 手足の位置、運び方、腰の重心の移動。
 手掛かりはそれだけではない。
 気配も重要な一項目だ。
 幾ら何でも、気配が全く感じられないということはありえない。
 絶対に、寸前に気配が来る。
 だが、寸前までは来ないだろう。
 厄介だ。
 その点では、そのようなことを三戸が知るはずもなかったが柏木耕一が実践している
伍津流心得の「むき出しの闘気は忌むべし」という条項を知らず知らずの内に、もしか
したら耕一よりも自然に無理なく実行しているのが拓也かもしれなかった。
 さすがにそのような細かい機微は観戦しているだけではわからないが、伍津双英がこ
の男と向かい合ったら驚愕するだろう。
 拓也の体が前屈に似た形で動く。
 そのまま倒れてしまうのではないか、と錯覚するほどにその動きに力が感じられなか
った。
 だが、その一瞬前に三戸は感じていた。
 拓也の方から寒さが来た。
 寒気が走る。
 泡立つように生じた悪寒でそれを感じることができた。
 二人の間の距離が瞬時に無くなる。
「おおう!」
 三戸が無意識の内に叫んだ。
 我が身を凍てつかせた気配を振り払うのに、叫ぶ必要があった。
 絶妙のタイミングでタックルを潰して上から被さった。
 まさか潰されるとは思わなかったのか、拓也から動揺の気配が伝わってくる。
 それを感じた時に三戸が抱いたのは安堵であった。
 なんだ。こいつも普通の人間じゃねえか。
 そう思ったら楽になった。
 楽になったら体がスムーズに動く気がした。
 よし、思い切って行くか。
 思うと同時に動いていた。
 被さったままクルリと回る。
 バックマウントを取った。
 スリーパーへ!
 拓也が顎を引いて防ぐ。
 機会があれば仕掛けるつもりだった。
 機会が思っていたよりも早く来た。試合開始からまだ二十秒も経っていない。
 顎を引いた拓也の顔へ右腕を──。
 親指を曲げて、それを他の四本の指で覆い隠すように──。
 左目!
 瞼を閉じてもその上から押す。
 押して顎を上げさせる。
 上がったら左腕でスリーパー。
 お前が一回戦に深水にやったやり方だ。
 どう返す!?
 三戸の親指に感触が生まれた刹那、拓也の右腕がまず脇に引き付けられて畳まれ、次
の瞬間に三戸の曲がった右腕と拓也の右側頭部の間にできた空間を突き上げるように潜
っていた。
 そしてそれを曲げ、三戸の右腕の湾曲部、つまりは肘の内側に自らの右腕の肘を当て
て外に向かって押す。
 三戸の右手の親指が拓也の左目からズレる。
 そして瞬間、拓也が顔を左に捻って抜ける。
 さすがに自分で仕掛けるだけあって、抜け方もよくわかっているし、いきなりやられ
る側に回っても素早く対応できる。
 拓也が深水に、そして今、三戸が拓也に仕掛けたやり方は目を押してただ顔を腕で引
きつけるよりも効果がある──もちろんバレたら反則──が、既述したように左側頭部
がロックできないために顔を左に捻ると抜けられ安い。
 さらには、今のように右側頭部と右腕の間に大きな空間ができてしまうのでそこへ右
腕を入れて腕を押し退けることができる。
 拓也がすぐに回転してバックマウントの体勢から抜け出す。
 三戸は拓也を離して立ち上がった。
 どうだ?
 おれにはそういうのは通用しないぜ。
 そう、威嚇したつもりだった。
 拓也がレフリーに促されて立ち上がる。
 試合開始をしても変わっていなかった表情に変化が見受けられた。
 恐怖。
 怒り。
 驚き。
 それらは無く、なんとも不思議な親しみ。
 拓也は微笑していた。
 タックルに来られる直前よりも凄まじい悪寒が三戸を襲う。
 なんだ、こいつは……。
 なんて……寒気のする笑顔だ。

 拓也はこの三戸との試合を目的へ行くためにこなさなければいけない「作業」のよう
なものだと思っていた。
 目的は、あくまでも耕一か浩之だ。
 だけど……こんなところに……。
 拓也は微笑む。
 いたか。
 こんなところにいたか。
 こんなところにいてくれたのか。
 同志よ──。
 この三戸雄志郎という男は自分の同志に違いない。
 これまで自分が求めているのとは違った試合を「作業」としてこなしてきた拓也の渇
いた闘志に潤いが染み行く。
 この男は一回戦の深水と自分の試合を見て、自分が「同志」であることを看破したに
違いない。そして、そのことを教えるために今、自分が先程深水に仕掛けた戦法を仕掛
けてきたに違いない。
 渇いた拓也はそう思った。
 ようし、やろう。
 同志よ──。

 三戸の背筋から悪寒は消えなかった。
 餓えたこの男に「同志」と思われたことが三戸雄志郎の不幸であった。

                                    続く

     あー、どうも、vladです。
     ギリギリまで遅らせていた今話でしたが、いざ書き始めると驚くほ
     ど早く上がりました。
     K1見ながら三時間で書けたもんなあ(笑)


 

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