鬼狼伝(73) 投稿者:vlad 投稿日:3月12日(日)11時29分
 インターバルの間、浩之は呼吸を整えながら、試合場の下にいる雅史と葵に手など振
っていた。
 ラウンド終了間際の腕拉ぎは残念だった。後十秒あれば決まっていただろう。加納が
タップせずとも折ってしまえばレフリーが試合を止める。
「惜しかったですよ、もう少しでした」
 葵の声に笑いながら手を振る。
「相手の目の色が変わってるよ、次の立ち上がり気を付けて」
 雅史の声に「わかってるよ」という風に頷く。

 第2ラウンドは加納の左ストレートで幕を開けた。
 それが防がれると、すぐに接近してくる。
 体勢が高い、タックルではなく、組み付いてくる気か? そうなれば相手の腰に手を
回して倒し合うという、相撲でいう「差し合い」の体勢に近くなる。
 近年、総合格闘においてボクシングと並んで、注目を浴びているのが相撲の技術であ
る。
 それなら腰を落として重心を低くして対応せねばならない。
 が、やってきたのは右のショートアッパーであった。
 顎が僅かにだが浮く。
 まず一発アッパーを入れてからか。確かに、今のは少し効いたが……。
 今度は横殴り。
 左のショートフックだ。
 これはちょっとたまらない。
 一時でいいから、加納のパンチを喰らわない位置に移動したい。
 下がるか?──
 出るか?──
 浩之は前に出た。
 下がっても下がっただけ距離を詰められてしまうだけだ。
 組み付いた瞬間。下方から顎を突き上げられた。
 組んだ状態からのショートアッパー。左手でこちらの後頭部を押さえ付けるようにし
て右手で小刻みに打ってくる。組み合った際の打撃では使い易い攻撃の一つである。
 ショートアッパーというのは、自分の胸前の辺りを強く連続して殴るのに最も適した
パンチといっていい。
 片方の手で相手の頭を胸に押し付けて、もう片方でショートアッパー。
 密着して打撃をかわそうとした相手を迎え撃つのに持ってこいといえる。
 浩之は舌打ちしながら、両腕で下を向いてしまった顔面をガードするが、それより前
に何発か貰っていた。
「やろっ!」
 思わず声を出して首と頭を捻って脱出する。
 頭部を押さえているのが片手なのでこれでも抜けられる。両手で抱えられて、いわゆ
る首相撲の形になっていたらこのような抜け方はできない。
 浩之はマットを蹴って後退しながら視線を加納の方へと戻した。
 下を向いて、上から押さえ付けられたところを、頭を捻って逃れたのだから、どうし
ても一瞬、加納から目を逸らすことになる。
 密着していて、打撃技の種類と威力が制限されている状態ならばいいのだが、離れた
からには打撃には注意せねばならない。
 そして、時に、注意をしても喰らってしまうことというのは多々あるものだ。
「!……」
 浩之が見ると同時に、加納が拡大した。一気に距離を詰めてきたのだ。
 右のストレートが伸びる。
 顔面に──。
 数歩後退。
 さらに追撃。
 左ストレート。
 後退。
 突き飛ばされた頭部の跳ねるような後退に、足が着いて行かなかった。
 背中がマットに接触する。
「ダウン!」
 レフリーのその声は聞こえていたが、不思議と浩之の意識の外にあった。
 カウントを、どことなく他人事のように聞いている。
 倒れた瞬間に思ったのは、終わってない、ということだ。
 それから、立てる、と思った。
 そして、カウントエイトぐらいまで休んでいよう、と思った。
「ってえ……」
 鼻の頭に貰ってしまった。
 指で探ると、幸いなことに鼻血は出ていないようだ。
「エイト!」
 その声に反応して浩之の上半身が起き上がった。
 レフリーが次のカウントを「ナイ」で止めて浩之の顔を覗く。
「やれますよ、まだまだ」
 そういって微笑した浩之の笑顔を見て、レフリーは立ち上がって試合再開を促した。
 浩之はすぐに立ち上がって、構える。
 ゴングが鳴った余韻が消える前に、加納が接近してきた。
 すぐさま、互いの拳の交換が始まる。
 右目の上辺りに加納のパンチがヒットした。
 浩之も負けじと殴り返す。
 グローブが肉を打ち、空を切り、腕と腕が噛み合って汗が散った。
 浩之は激しい乱打戦の中に身を乗り入れた。
 渾身の力で加納の顔でも腹でも、隙あらば攻撃を送り込む。
 こいつ、怒ったな……。
 浩之は、加納の対象物を灼きそうな視線を体の各所にじりじりと感じながら思った。
 先程の、完全に極まった腕拉ぎ逆十字固めが、この男の自尊心を著しく傷付け、闘志
を甚だしく掻き立てているのがわかる。
 俗にいう「キレる」というのとは違う。
 加納は冷静だ。
 攻撃も防御も足捌きも、冷静だ。
 だが、この男が浩之をぶちのめそうとしているのは間違いない。
 さっきまでのスタンドでの消極さが嘘のようだ。
 しかし、冷静だ。
 これも間違いない。
 この男、冷静に自分をぶちのめそうとしている。
 そう思った時、浩之の心が不思議と落ち着いていた。
 加納のパンチをかわす。
 冷静に──。
 加納を殴る。
 冷静に──。
 やってやろうじゃねえか。
 冷静に、ぶちのめしてやるよ。
 顔を打つ、胸を打つ、腹を打つ。
 顔を打たれる、胸を打たれる、腹を打たれる。
 蓄積していく痛みを、疲労を、冷静に計算しながら殴り、防ぐ。
 左フックが浩之の頬を叩いて、口からマウスピースを押し出す。
 薄赤く色のついた唾液にまみれたそれがマットに落ちる前に浩之の反撃の右ストレー
トが加納の顔面を叩いていた。
 浅いっ!
 踏み込んで追い打ちを……。
「ストップ!」
 レフリーが間に入りやがった。なんだ? おれなんかしたか?
 それとも、加納がなんかしたのか?
 加納が背を向ける。
 なんだ……第2ラウンドが終わったのか。
 おれたち、五分近く殴り合っていたんだな。

 残りは第3ラウンド。
 後五分間。
 それで仕留められるか?
 疑問が背中を刺す。
 こんな無名の相手に2ラウンドもかけてしまっただけで随分なマイナスだ。この十分
間で藤田浩之の評価は上がり、それと同等、いや、それ以上に自分への評価は下がって
いるに違いない。
 それを払拭するために派手に勝たねばならない。
 そのために、ノックアウト狙いの打撃戦を挑んでいったのだが、思っていたよりも遙
かにしぶとい男だ。
 どうする?
 また第1ラウンドのようにスタンドでは打ち合わないようにしようか。
 いや、弱気に過ぎないか。自分は十分にあの男を打ち合いの末にノックアウトできる
はずだ。
 思考の海に身を浸す加納の耳に、インターバル終了を告げるゴングの音が聞こえてき
た。
 行こう。
 加納は中央線へと向けて歩いて行った。
 第3ラウンド開始。

 開始四十秒後、加納のワンツーが綺麗に浩之の顔を捉えた。
 追撃はしないで下がって距離を取る。
 浩之の目が死んでいない。
 だが、じきにそれも変わる。
 諦めた目になる。
 今まで、そんな目をした奴を幾らでも見てきた。
 カウンターでパンチを入れてやった相手が崩れ落ちる直前に見せた目。
 関節を極めた相手がタップする直前に見せた目。
 そういう目をした時、そいつはもう”諦めている”のだ。
 こいつも、すぐにそういう目になる。
 もう何発かいいのを入れてやれば、そういう目で自分を見るようになる。
 そして、その時が終わりだ。
 この厄介な試合も、この厄介な相手も共に終わる。
 ほら、またいいのが入った。
 どうだ!
 目は……まだか。
 まだ諦めていないようだな。
 ここまで往生際が悪い奴は初めてだ。
 もう一発、入った!
 これはいいタイミングで入ったぞ。右のストレートが思い切りだ。
 こいつが入ったらさすがに”諦めた”だろう。
 ワンツー。
 右手を戻すと同時に左を打ち出す。
 念のために止めの左ストレート。
 空を切った。
 浩之の頭が沈んでいる。
 かわした!?
 そう思ったのは一瞬だけだ。
 かわしたんじゃなくって、その前の右で完全にやられてしまったのだろう。それで崩
れ落ちるのが左をかわしように見えただけだ。
 たぶん、今頃こいつは全てを諦めた目でマットを見ながら崩れていっているんだろう。
 何気なく下を見た。
 この、自分を散々手こずらせた男の”諦めた”目が見たい。と思ったからだが、崩れ
落ちる人間が上を向いているわけは……。
「!……」
 浩之と目があった。
 その目は違った。
 諦めて無い。
 加納と目が合った次の瞬間、浩之は加納の両足にしがみついた。
 タックル……には加納には見えなかった。
 倒れる途中に前にのめって足にしがみついたように見えた。おそらく、加納がそこに
立っていなければ前のめりにダウンしていたはずだ。
 いわゆる「ごまかしタックル」
「っ!」
 完全に終わったと思っていたので対応が遅れた。
 両足を引かれて、加納が後方に倒れる。
 まさか、こんなせこい戦法で!
 思った時には倒されていた。
 しかも、右足の先の方に激痛が走る。
 倒れきる間際にアキレス腱を極めていた!?
「があぁぁぁっ!」
 それは声というより、喉と呼気が擦れて発する音であった。
 浩之はアキレス腱を極めたまま胸を反らす。浩之とて、余裕があるわけではない。レ
フリーが止めるまで例えアキレス腱を切断することになろうとも、極め続けるつもりだ
った。
 その必死の浩之には見えようはずもなかったが……。
 加納の目がある種の色を浮かべて──。
 加納の手が、自分の右足をロックしている浩之の足を叩いていた。
 レフリーが、そんなもの見ちゃいないし、気付いてもいない浩之を即座に制止にかか
る。
「お前の勝ちだ! 藤田!」
 耳元でそう怒鳴りつけられて、浩之は技を解いた。
「おれの勝ちか……」
 呟いた。
 葵と雅史に向けて手を上げる。
 あかりたちが座っている方へと目を向け、遠目からでもよくわかる黄色いリボンを見
付けると、浩之ははにかんだような表情で握り拳を突き上げて見せた。
 第3ラウンド 十一分二十二秒 アキレス腱固めで藤田浩之が勝利したことを場内に
告げるアナウンスが繰り返し繰り返し行われている。
 上半身を起こした浩之の視界に、大の字になって天井を見上げている加納久が入る。
「よお、あんた」
 思わず何か一言いってやりたくなった。この男は先程「所詮我流」といわれたことを
少し根に持っている。
「さっきの一発で、おれが諦めたと思ったんだろうがなあ」
 浩之は立ち上がりながら、
「葵流は諦めねえんだよ」
 誇らしげにいった。
 背を向けて、立ち去る。
「おい……」
 完全に気の抜けた声が、背中に当たった。
「その……葵流ってのはどこに行けば習えるんだ」
「あん?」
 加納の思わぬ言葉に浩之は振り返る。
「おれは駄目だ」
「何がだよ?」
 いいながら、立ったままだと寝転がった加納と話しにくいのでしゃがみ込む。
「お前みたいなどこの馬の骨とも知れないのに負けちまったからよお」
「……馬の骨で悪かったな」
「諦めちまいそうだよ」
「何を?」
「プロになって、世界の格闘史に名を残そうって夢をだよ」
「ふうん、でかい夢でいいじゃねえか」
「その、諦めないっていう葵流ってのは一体どこで?」
「あー、んー、なんだ」
 浩之は返答に窮した。それはそうであろう。そもそも、葵流などというものは浩之が
でっち上げたにも等しい流派だ。ようは、後輩の松原葵の一番弟子ということでふざけ
てそう名乗っていいか? と葵にいって、先程の加納の「所詮我流」発言にカチンと来
て持ち出したものである。
「あれは習うとか、そういうんじゃなくってな……ようは、一生懸命で諦めない人間を
見付けて、それを見習う! そんだけだ」
 浩之は自分でそういいながらなんだか照れ臭くなって、苦笑いをしながら立ち上がっ
た。
「一生懸命で諦めない……」
 天井を見ながら、加納はそれを反芻する。
 自分が柔道を始めたのは、小学生の頃にオリンピックを見たのがきっかけだ。
 そこに出場していたある日本人選手が怪我した足を引きずりながらも内股で一本を取
り、金メダルを取ったのに感動したのがきっかけだったと思う。
 あのビデオ、まだ家にあったはずだ。もう三年ぐらい見ていないが。
 家に帰ったら、あのビデオを見てみるかなあ。
 そう思いながら目を閉じた加納の瞼の裏には、いつか見た綺麗な内股が再生されてい
た。

 第3ラウンド 十一分二十二秒 アキレス腱固め 藤田浩之の勝利

                                    続く
 
     どうも、vladです。
     73回目となりました。
     よかった。加納戦がこの回で終わって……。
     次は拓也だなあ。