鬼狼伝(72) 投稿者:vlad 投稿日:3月6日(月)00時23分
 加納久は、本来待てる男である。
 もしも、時間が無限に与えられているのならば、そして、その勝負が絶対に負けられ
ないものであれば、いつまででも待っているだろう。
 下がって距離を取り、ちらりと電光掲示板に目をやると、時間は1ラウンドが三分を
過ぎた頃であった。
 残り試合時間は約十二分間。
 相手の藤田浩之がすぐに開いた距離を詰めてくる。
 また、一歩踏み込んで拳を打ち出してもギリギリで届かない、という位置まで出てき
て、両手を下げ、顔面を無防備にさらして時折手招きする。
 観客の中には、その浩之の行動に喝采を送る者と、討って出ない加納をなじる者とが
混在して生まれてきていた。
 加納の口が思わず舌打ちの音を洩らす。
 加納がいる場所に、加納と同じ手足の長さを持ち、なおかつそれを自ら熟知している
人間が立てばよくわかる。
 浩之が保っている両者間の距離が非常に微妙なのである。
 素早く前に出ても、一気に相手を間合いに収められない。
 グラウンドに引きずり込みたい加納と、スタンドで勝負したい浩之。この二人の勝敗
を分けるのは一番最初の接触の形態であると加納は判断している。
 もちろん、加納は組み付いて倒していきたい。だが、そこで組み付く前に打撃を貰っ
たら……。
 体全体でぶつかっていくタックルを仕掛けるにしても、この距離が微妙なのである。
 だが、最終的にこちらから仕掛けるとしたらタックルしかないとも加納は思っている。
 打撃を警戒して低くタックルに行く。
 警戒すべきは蹴りだ。基本的にタックルというのは一直線の動きのために、読まれる
と頭部が描く軌道を知られてしまう。
 それを防ぐには顔を上げずに、思い切り速く行くことだ。単純だが、下手に相手の蹴
りをかわすとかは考えずにとにかく高速で突っ込んだ方がいい。
 十分な威力を蹴りに持たせるには、蹴り足を引いて、反動をつけて蹴る。その足を引
く段階で距離を詰めてしまい、軸足に食い付く。もし蹴りが来ても振り抜く前に当たる
のでそれほどの威力ではない。
 それにしても……距離が遠い。
 パンチを当てるには二歩。
 パンチで打ち抜くには三歩の踏み込みが必要だ。
 だが、体ごとぶつかっていくタックルならば一歩踏み込んで突っ込めばいい。
 試みにゆっくりと前に出てみれば、浩之は下がって距離を崩さない。
 慎重を期したい加納としてはできれば自分からは出ていきたくはない。
 自分も顔面ノーガードにしてみたが、客が沸いたのは少しの間だけでまた加納をなじ
る声が上がり始める。
 加納ばかりがなじられる理由はわかっている。
 浩之が加納よりも「格下」と思われているからだ。
 浩之には公式試合での実績が無いに等しい。辛うじて、先程の都築克彦との試合があ
るだけだが、元々、都築というのが高い評価を受けていた選手ではない。
 それに勝利したとしても、藤田浩之という男に対する評価はまだ未知数であった。
 対して、加納には実績がある。
 選手プロフィールに堂々と「我流」と書かれている浩之と違って、柔道という極めて
メジャーな競技のバックボーンがあり、何度かの公式試合の勝率も八割に達している。
 ほとんど誰もが、加納が勝つと思っている。
 浩之が攻めていかないのを当然と思っている人間も多い。
 「格下」の相手に何をビビってやがる──。
 苛立っている人間の心情はおよそ、そのようなものであった。
 その上に、「格下」の浩之が顔面をガードしないで顔を突き出したりするものだから、
余計に加納が出て行かないのが歯がゆく思えるのだろう。
 眉間に皺を寄せた加納の心中が、浩之にはわかる。
 加納は優勝を狙っている。そうでなければプロ進出への弾みとならない。
 そのためには、ここで無名の選手に負けるわけにはいかない。
 だが、軽く料理できるというほどには浩之の実力を低く見積もってはいない。
 だが、このままでは勝てても印象は良くない。ファンとマスコミの目を意識する加納
にとっては苛立つ事態だ。
 結局は、この辺りのジレンマが加納の内部で葛藤しており、そのために、加納は動け
ないでいる。
 しかし、最終的には加納は来る、と浩之は考えている。
 浩之の強さと自分の強さ、消極的な戦法と積極的な戦法、それらを天秤にかけて熟考
した結果、加納が出すであろう結論はこうだ。
 この藤田浩之というのは侮れないが、自分が勝てないほどではない。
 このままこうしていれば印象は悪くなる。自分はプロとして大成するのを望んでいる
のだ。是非とも、プロ行きの前に、このエクストリームの大舞台でファンの心を掴んで
おきたい。
 自分の強さ。
 積極的に闘うことにより得られる評価。
 天秤は、そちらに傾くだろう。
 そういう意味では、加納久はプロ向きの人材だ。この男はただ勝つことを目的にはし
ていない。
 浩之は、耕一ともう一度闘いたくてここに来ている。
 耕一と当たるまでの試合で勝利することは目的ではなく「手段」だ。
 耕一ともう一度闘うのは簡単といえば簡単である。耕一を捕まえて「もう一回相手し
て下さい」といえばいい。
 だが、負けてすぐに再戦するというのも浩之は嫌だった。
 正直なところ、耕一に完膚無きまでに叩きのめされて自信を失いかけもした。
 だから、他の人間と闘って完全に自信を回復するまで再戦は無しにしようと思ってい
た。
 そんな思いの中、人伝に聞いた月島拓也という男と試合った。
 拓也が目つきを敢行し、浩之がその指に噛み付く、といった凄惨な──緒方英二曰く
「行儀の悪い」──闘いを経て、浩之にある程度の自信が蘇った。
 その場で緒方英二から、今度のエクストリームに柏木耕一が出場することを知ったの
だ。
 その時、浩之の中で闘志が沸騰した。
 拓也と、身を削り合うような死闘をした後だというのに、後から後から際限無くそれ
は沸いた。
 エクストリームへの出場を即座に決意した。
 トーナメントの一回戦で当たれば当たったで嬉しかっただろう。だが、Bブロックの
決勝で当たる組み合わせになった時、落胆はしなかった。
 耕一が負ける、ということは浩之は自然と考えていなかった。
 耕一と当たるまでの二試合が、自分を試す試練であるような気が自然とした。
 この二試合を勝てば、耕一とまた闘う資格が得られるんじゃないか……。
 やりたくてやりたくてしょうがない気持ちと──まだ自分にはその資格は無いんじゃ
ないのか──という気持ち。
 とてつもなく強い願望と、それを踏み止まらせる疑念。
 その両者に折り合いをつけるのが、その二試合だったのかもしれない。
 勝つ。
 勝たねば耕一とは闘えない。
 勝つことで、何かを得られればそれを耕一との闘いに持っていこう。
 一回戦の相手だった都築克彦は純粋に実力だけでいえば大した男ではなかった。でも、
勝ちたい気持ち、最後のギリギリまで追い詰められた時の執念では浩之が今まで闘った
相手の中でも群を抜いていた。あの月島拓也に迫るほどではなかったろうか。
 試合後、話をした。
 この男の夢を潰して勝ち上がった以上、無様な試合はできない、と思った。もちろん
それが無くとも無様な試合などしたいとは思っていないが、その気持ちがより一層強ま
ったのは、やはりあの男のおかげだと思う。
 そういうものを貰った。
 耕一と闘うに際して、いいものを受け取ったと思っている。
 加納久──。
 お前は、何をくれるんだ?

 加納の思考はほぼ浩之の予想通りの道を経て、結論に到達していた。
 出て行く。
 出て行って、倒す。
 自分はこんなところでくすぶっている人間じゃないはずだ。
 藤田浩之──。
 悪くない選手だが、それほど手間をかけているわけにはいかない。
 キレのある打撃技に少々慎重になり過ぎた。
 低めの、足を狙ったタックルを仕掛けて行こう。既述したように警戒すべきは蹴りだ
が、言い換えれば、警戒さえすればそれほど怖くは無い。ただ、頭のてっぺんの天倒と
いう急所に足刀を貰わないように気をつければいい。
「四分経過!」
 試合場下から聞こえたその声が、加納の背中を押した。
 大きく一歩踏み込んでタックル──を、直前で止める。
 浩之の右足が僅かに下がっていた。
 やはり、蹴りを狙っていた。タックルに蹴りを合わせるのは至難の技だが、上手くい
けばカウンターになって一撃で甚大なダメージを与えることが可能だ。
 加納は、それを浩之のいちかばちかの戦法だと判断した。
 まともにやり合っては適わぬと見て、挑発してカウンターを狙っているのだろうと思
った。だとすれば、奇しくも、浩之が一回戦で闘った都築克彦の常套戦法だが、それに
は加納は気付いてはいない。
 一度身を起こして下がって距離を取る。
 浩之が律儀といってもいいほどにきっちりとそれを詰める。
 加納が止まる。
 浩之が止まる。
 その次の瞬間に加納が一瞬の静から、動へと脱していた。
 低空で飛ぶ加納の視界にあった浩之の右足が上方へと消える。
 やはり、右足で蹴ってくる気か。だが、間に合うまい。
 軸足の左足を掴んで、右足による蹴りは肩で受ける。
 振り切れていない蹴りは元々大したことはないし、軸足をちょっと動かすだけでも威
力はさらに半減。
 そのまま左足を起点に倒して、極めに行く。
 加納は柔道にはない足関節技を得るためにサンボも少々かじっている。
 左足を──。
「!……」
 左足が無かった。
 右足ともに引いたのか。
 だとすると、浩之の狙いは蹴りではなく、上から覆い被さってタックルを潰すことで
はないのか?
 そうか。
 望むところだ。
 加納が唯一、恐れていたのは接触する際に浩之の打撃を貰わないようにすることだ。
 そっちが来るならこっちに異存は無い。上から潰されても、幾らでも体勢を入れ替え
る方法はある。
 さあ、上から来るぞ。
 ゴツッ、と来た。
「ぐぅ……」
 後頭部に何かが降ってきた。
 打撃!?
 蹴り……なはずはない。パンチか!?
 低空タックルに来ることを読んで、両足を引き、上半身を前屈させてパンチを後頭部
に打ち下ろして来たのか!?
 読んだといっても、距離があったといっても、タックルしてくる人間の後頭部にパン
チを合わせてくるとは。
 はっきりとしていた加納の中の浩之像に靄がかかる。
 こいつ、思っていたよりさらにやる!
 上から攻撃を喰らって、加納はマットに激突しそうになる頭部をかばって両肘をつい
た。パンチを貰った時、加納の両腕は浮いていた。両足もマットにスレスレに接触して
いたが、ほとんど浮いていた。
 ルール上、両足の裏以外の部分がついた場合を倒れている状態と見なすからには、こ
のパンチはルールに違反してはいない。
 ギリギリで打っていい領域での攻撃だった。
 起き上がろうと左腕を直角に曲げて掌でマットを押す。
 その左腕が浩之の両腕に絡め取られた。
 しまった!
 いきなり後頭部を叩かれて瞬間とはいえ、冷静な判断力を失ったか!? 身体の反応
が鈍ったか!?
 浩之はうつ伏せに倒れた加納の右手の方にいたが、そこから上半身を倒し、両腕を伸
ばして加納の左腕を取っていた。
 加納の左腕の肘を自分の方に向けて手首を掴んで引き寄せる。
 肘を逆に極められて加納がやむなくひっくり返るのに合わせて、浩之が後方に倒れ、
その際に両足が加納の左肩に巻き付いてロックしていた。
 腕拉ぎ逆十字固め。
 ガッチリと極まった。
「ぬうっ!」
 加納の声は、苦痛の悲鳴といっても差し支えないほどに苦渋が滲んでいる。
 負ける!?
 こんなところで、こんな奴に!?
 冗談じゃないぞ、おれをなんだと思ってやがる。
 将来、プロになって、総合格闘界にその名を残す男だぞ。
 誰がタップなどするものか、絶対に抜けられるはずだ。

 みりっ……。

 なんだ今の音は!
 左腕の靭帯がもう限界だというのか!?
 完全に極まっているのか。
 抜けられない!?
 ふっ、と浩之の力が緩む。
 レフリーが浩之の腕を掴んで、それを浩之が力をかけようとしているのとは逆の方向
に押しやっていた。
 なんだ!?
 まさか、このレフリーが自分の判断で試合を止めてしまったのか!?
 冗談じゃないぞ。
「ゴングだ! 止めろ」
 レフリーがそういって、なおも力を抜かない浩之を制止する。
「第1ラウンド終了です。これより一分間のインターバルに……」
 そんなアナウンスの声が聞こえてくる。
 ようやく、浩之は技を解いた。
 立ち上がって、舌打ちをしながら自分のコーナーへと戻っていく。
 左腕をゆっくりと屈伸させながら加納は立ち上がった。
 会場には、浩之を讃える声が満ちている。
 それは自分が浴びるはずだったものだ。
 許さんぞ、藤田……。
 完全に極まっていた。抜けようとしても抜けられなかった。あのままでは靭帯が千切
れていただろう。
 ゴングに救われた。
 許さんぞ、藤田……。
 加納の目に、今までとは全く別種の光が宿っていた。

                                     続く

     あー、どうも、vladです。
     72回目です。
          ただ、書くのみ。