鬼狼伝(71) 投稿者:vlad 投稿日:2月27日(日)23時46分
 加納久の使う打撃技にはボクシングの色が濃い。
 総合格闘をやるにあたってのベースはもちろん学生時代からやっている柔道であるが、
近年のスポーツ化された柔道には当て身(打撃技)が無いためにそれを何か別の媒体か
ら持ってくる必要があった。
 その時に加納が選んだのがボクシングである。
 パンチの攻防の技術を突き詰めた競技だけに、その面では最高峰のものをその体系の
中に孕んでいる。
 蹴りは必要無い。というのが加納の持論だった。
 先程、浩之に対して試合開始早々にハイキックを打ってきたが、あれは浩之を大した
ことはあるまいとたかをくくっていたためである。
 それに、既に何度か触れているようにこの男らしく、派手にKOすればマスコミの食
い付きがいいだろう、というような目論みもあった。
 それが変わった。
 試合時間が一分を経過し、いわゆる「秒殺試合」の目が消えたのもあるが、一連の攻
防で、派手な大技を無理に狙おうものなら、この藤田浩之という男に足下をすくわれる
可能性があるということがわかったからだ。
 いいかえれば、堅実に勝ちにこだわれば絶対に負けないと思っている。
 藤田浩之。
 非常にいい素質を持っているようだ。
 そして、それがいい具合に開花しているように見える。
 打撃にはキレとスピードがあるし、組み付いた時に相手を崩し、投げる技術もなかな
かのものだし、グラウンドに移行してからの関節の取り合いもいいものを持っている。
 しかし、我流である。
 所々、甘いところがある。
 グラウンドにおいて、一度こっちが優位なポジションを取ってしまえば仕留めるのは
難しくないと思う。
 その辺りを「所詮、我流だな」と加納はいったわけである。 
  もちろん認めていないわけではない。
 いいものはある。
 グラウンドで優位なポジションを取るのもそうそう簡単ではないだろう。
 だが、その上で絶対に勝つと思っているのは、負ける要素が見当たらないからだ。
 グラウンドで浩之の仕掛ける攻撃の全てを凌ぐ自信がある。
 後に残る不安点は打撃、それもラッキーパンチの類だ。
 それも、気をつけてさえいればいい。
 加納は本来、蹴り技を使う選手ではない。
 牽制に素早い前蹴りなどを時折使うぐらいである。
 蹴り、という動作はどうしても片方の足が浮く。
 加納はそれを嫌った。確かに蹴りは威力が大きいが、実際にそれを相手の急所に的確
にヒットさせてノックダウンするのは難しい。
 それよりも、パンチを数多く当てていく方がいいと加納は考えている。
 その結果、ボクシングジムへと通い、その技術を自らのスタイルに取り入れた。スタ
ンドでの打撃はほぼボクシングの技術であるといっていい。
 小刻みに左右のジャブを繰り出す。
 この試合、打撃はこれだけでいいと思っている。
 このジャブで相手との距離をはかりながら組み付くか、タックルに行く機会を窺うつ
もりだ。
 そして同時に、浩之の打撃とタックルを牽制する。
 最初の接触が勝敗を分けると加納は考えている。特にこの試合はだ。
 浩之の思う通りにタックルを決められてしまえば、グラウンドに移行しても容易に極
めることはできない。
 だが、その反面、こちらが浩之を思惑通りに倒してしまえば有利なポジションを取れ
る。
 そして、一度そうなれば勝ったも同然だ。気をつけるべきなのは、先程足を取ろうと
してそうなってしまったように汗で滑ることだ。
 浩之がパンチを放ってくる。
 それをかわしざま、右ストレートを打つ。
 倒すつもりのパンチではない。が、一発いいのを入れて隙を作り、そこへタックルを
入れていこうという意図はある。
 浩之はその辺りの加納の意図を悟っている。
 浩之は浩之で、加納のグラウンドテクニックを高く評価していた。特に、柔道でなら
した男だけあって押さえ込む技術が上手い。
 加納が抱いている自信も、その気になれば押さえ込みの体勢までは持っていけるとい
うことがあるからだ。
 浩之としてはスタンドで勝負を決めたい。
 加納が思っているほど、浩之はラッキーパンチを期待してはいなかった。
 普通の打撃で──葵に教えてもらった打撃で倒せる。
 だが、それには加納にも少し打ち合ってやるという意志を持ってもらわねばならない。
 浩之が一番恐れているのが、加納がスタンドでの打撃戦において防御一辺倒の殻に閉
じこもってしまうことである。
 そうやってじっと待たれてしまうと厄介だ。
 打撃の防御技術が大したことの無い者がその殻にこもれば何も恐れることはない。思
い切り接近していって乱打してやればいいことだ。
 しかし、この加納久という男は、それに関しては侮れぬものを持っている。
 ただ単に打撃をかわし、防ぐだけではない。
 相手の打撃をかいくぐってタックルに行く技術もある。いや、むしろ、単純な防御よ
りもそちらの方を得意にしているようだ。
 下手な仕掛けは隙を作るだけだ。
 手が出せなくなる。
 軽いジャブや前蹴りなど、出せる技が限られてくる。
 限られた技は限られたコンビネーションを強いる。
 焦るな……。
 浩之は加納から数歩分の間合いを取って止まった。
 腰の入っていない攻撃で相手を倒すことはできない。
 しかし、腰の入った攻撃がかわされてしまえば隙ができる。
 よって、腰の入った攻撃を繰り出すのは「ここぞ」という時だ。
 問題なのは、その状況を作り出す手段とルートすら現在の状況下では制限されている
ということである。
 加納はグラウンドに絶対の自信を持っているし、浩之もできればそこでは加納と争い
たくない。
 と、なるとスタンドだが、記述したように、スタンドにおいては加納はあまり積極的
ではない。
 軽いジャブと、時折ストレートを放ってくる。
 万が一判定になった時のためのポイント稼ぎ、と浩之には思えた。
 だが、ここで我慢だ。
 最後まで我慢し通しってわけじゃない。
 ここだけでいい、この一見打つ手無しに見える状況を打ち破るまでの時間だけだ。
 ここで討って出て行けば一回戦の時の二の舞だ。どうも自分はあまりにも消極的な闘
い方を相手がしていると思うとカッと来てしまう。
 これは悪いクセだ。
 相手がそれを見越して罠を仕掛けていればやられてしまう。
 ここで、少し落ち着く。
 ここで、動きを止める。
 加納が一気に距離を詰められないだけの間合いを取って全身の力を抜いた。
 両手を下げる。
 ダラリ、と下げた。
 顔面ががら空きになる。
 加納の回りをゆっくりと回り出す。
 加納との距離は加納が一歩を大きく踏み出して、思い切り腕を伸ばして拳の先端が届
く位置から数十センチ近辺を維持。
 ギリギリのところだ。
 これ以上接近すれば加納が一気に詰めてきて打ち出したパンチをよけられないかもし
れない。
 この距離ならばなんとかなる。
「加納、顔面がら空きだぞ!」
 そんな声が観客席の方から聞こえてきた。
 いいぞ、もっといえ。
 浩之は唇の端で笑う。
 今の距離は一気に詰められそうで半歩届かぬような微妙な距離だ。
 この状態で突っ込んできたらやれる。
 だが、加納もそれを熟知しているから来ない。
 二人だけで……若しくはそれを見る人間がごく少数で道場か何かで立ち合いをすれば、
加納は絶対に来ないだろう。
 だが、この加納久という男には特徴がある。
 力の強さ、身体の柔軟さ、動きの速さ。
 打撃の上手さ、寝技の上手さ。
 度胸の良さ、読みの鋭さ。
 そういったものとは全く別次元に存在するあるもの……。
 それが「観客の目を意識すること」であった。
 浩之とて多少は意識する。が、加納のように将来プロになることまでを見越した上で
の計算上に成り立つ意識ではない。
 加納にはそれが濃厚にある。
 下手をすれば、対戦相手よりもそちらを意識している。
 浩之が両手を下げたまま、ひょい、と顔を前に突き出して見せる。
「いいぞ、もっとやれ、藤田!」
「加納、どうした!」
「隙だらけだぞ!」
 いつもは鬱陶しいと思っている無責任な声援と野次の混合物が今ほどありがたいと思
ったことはない。
 いいぞ、もっとやれ。
 こっちがいいたいぐらいだ。
 そうやって騒ぎ立てて、あいつの背中を押してやれ。
 さあ、どうする?
 おれのことを恐れているのなら来ないだろう。
 観客に不興を買うことも、負けてしまうことに比べれば遙かにマシとお前は考えるだ
ろうからだ。
 でも、お前、おれのことナメてねえか?
 侮っている……とまではいかないが、無理なく勝てる相手だと思ってやがるんじゃね
えのか?
 さっきっから、お前の態度からはそういうもんを感じるんだよ。
 その気になれば、例えスタンドで打ち合ったとしても負けはしないと思ってるんじゃ
ねえのか?
 思っているんだろ?
 来いって。
 こっちは、ほれ、両手下げて、鶏みたいに顔を突き出しては引っ込めして誘いをかけ
ているんだぜ。
 ネックは距離だな。でも、さすがにこれは譲れない。
「来いよ、おい!」
 浩之が大声を張り上げる。同時に、両手で手招きする。
 わっ、と客が沸く。
 浩之はその声が聞こえないかのように加納を見つめている。
 どうだ?
 おれの行動で客が騒いでるぜ。
 ホントは、こういうのってお前がやりたかったんだろうな。
 それを先にやられちまったぞ。
 その上、お前に対してみんな不満そうじゃないか。
 さっさと来いよ。
 こっちだって、今の距離は絶対安全ってわけじゃないんだ。てめえの顔面エサにして
罠張ってるんだよ。
 食い付いて来いよ。
 上手くいきゃ、ノックアウトできるぜ。
 お前が待つならこっちだって待ってやる。お前、おれの一回戦を見て、おれがそんな
ことできないと思っていたのかもしれないけど、おれだって馬鹿じゃないんだ。
 学習能力だって一応あるんだからな。
 待ってやるぞ。
 残り時間はあと二分、次と次のラウンドも入れれば後十二分ってとこか。
 いいぜ、待ってやる。今の状況じゃ、判定で決着がつくほどポイント差は無いはず。
さっきのグラウンドはあいつが優位に展開したけど、その前におれはあいつにいいのを
一発入れて投げ飛ばしてるからな。
 待ってるから、早く来いよ。
 
「待てるようになったか」
 隣で兄がそう呟いたのを、理奈は聞いていた。
 先程の柏木耕一との一戦を終えてから取り乱したり、ぼーっとしていたりした兄が、
この試合が始まってから目に生気を取り戻して食い入るように試合を見つめているのを
理奈は横から目撃している。
 場所は選手入場口から少し出た位置。
 人目があるので理奈は再びサングラスなどで変装している。が、緒方英二と並んでい
るだけに近くに座っている人間にはバレているかもしれない。
 実際、一回だけカメラのフラッシュが明らかに自分たちに向けて光った。
 だが、英二も理奈もそれを敢然と無視して試合を見ていた。
 英二は試合に夢中でそれどころではないようだ。
「彼とも……やってみたかったな」
 英二がぽつりといった。
「おれにはもうその資格は無いが……」
 その声が空虚だった。
 ようやく、先の敗戦から立ち直ったと思っていた兄のその虚ろな声に、理奈は自分の
考えがまだ甘かったことを悟らされた。
「資格なんてどうでもいいじゃない。やりたいんだったらまた挑戦すればいいのよ」
 ことさら、声を弾ませていう。
「やりたい……うん、またやりたい」
「だったらやりなさいよ」
「でも、おれは……」
 英二が一瞬、言葉を口中に止める。
 やがて、吐いた。
「また、ああなってしまうかもしれない」
 その声もやはり空虚だった。

                                     続く

     どうもvladです。
     七十一回目となりました。
     もう、書くだけです。