鬼狼伝(70) 投稿者:vlad 投稿日:2月21日(月)01時26分
 左右のワンツー。
 右のローキック。
 それを悉く弾いて、浩之は右ストレートを放っていった。
 無造作に打つ。
 打った際に左手を少し下げた。
 来るか!?
 来いよ、右のハイキック。
 思い切りぶん回して来いよ。おめえ、秒殺試合をやりたいんだろ?
 おれの左手が下がったところへ狙い澄まして右のハイだ。
 それで一発KOしたら目立つぞ、おい。
 来い。
 右のハイだ。
 すぐに間合いを詰めて威力を殺してやる。蹴りなんて、ミートポイントをずらして足
刀からスネの部分よりも内側の膝から付け根の方……腿の辺りが当たるようにすれば効
きゃしないんだ。
 そこからショートアッパーを顎に、ショートフックをテンプルに、どちらでもいい。
入れられそうな方だ。右か左かも同様。
 一発頭部に入れてから組み付いていけば、倒して有利なポジションを取るのがより容
易になる。
 来い。
 左手が下がっているぞ。
 ここが空いてるぞ。
 浩之は左手で手招きをしたい気分だった。
 が……。
 加納は動かなかった。
 一瞬の間を置いてから動いた。
 しかし、その動作が浩之の望んでいたそれとはかけ離れていた。
 後退したのだ。
「一分経過!」
 声が上の方から聞こえてくる。場内アナウンスが試合時間の経過を客に伝えているの
だ。
 なるほどね……。
 ゆっくりと、浩之の左手が上がる。
 下がった加納を追うように浩之が前進を始めた。
 右のミドルキックを打つ。様子見の一撃。
 加納は左膝を上げてガードした。
 これだ。と、思った。
 二試合ほど試合のビデオを見て、それから先程、一回戦を生観戦している。
 そこから弾き出したファイトスタイルが、今の加納とぴったりと重なっていた。輪郭
と輪郭が一本の線と化すほどに重なっていた。
 これが加納久の本来のスタイルだ。
 ふざけた奴だ。
 一分が過ぎて「秒殺」の報酬が無いとなったら短兵急なスタイルをいつものスタイル
に変えやがった。
 この男の頭の中には自分は無い。
 いや、無いといっては極端過ぎるか……。やはり対戦相手である以上、頭の片隅程度
には「藤田浩之」というものが存在しているだろう。
 だが、それが全てではないし、かといって「大部分」ではない。
 一部だ。
 腹の立つことに一部である。
 加納久の頭の片隅の一部分だけを自分は占めている。
 この男の頭の「大部分」を占めているのは客だ。正確には客の目、マスコミの人間の
目、世間の目だ。
 エクストリームを完全に「プロになる前の顔見せの場所」と割り切っている男だ。
 耕一のことすら、そのための踏み台程度にしか考えていない男である。
 浩之など、ただの地面ぐらいにしか思っていないだろう。
 そういうことされると……燃えるよ、おれは。
 おめえ、こっち向けっ!
 左右のワンツーを放っていく。
 そして右のミドルキック。
 加納が動いた。
 身を低くして腰に食い付くタックル。
 先程浩之が意図したように、蹴りが伸びきる前に間合いを詰めてミートポイントを外
して威力を減少させるとともに組み付いていく。
 蹴りを打とうとしている右足の膝が上がっているだろうから左腕を下方から突き上げ
て右の腿の裏に当てて右足を抱え込んでもいい。
 右足を捕まえながら残った左足をこちらの足で刈れば容易く倒れる。右足を抱え込ん
でいれば足関節を極めにも行けるし、そこを起点に転がせることも可能だ。
「!?……」
 加納の目に僅かに疑惑の色が滲む。
 加納が動いた時、上がっていた浩之の右膝が下がっていた。
 戻しが早いっ!
 そう思ったのは僅かな瞬間。
 誘ったか!?
 疑問が生まれたのにも、それが確信に変わるにも一瞬以上の時間を要しなかった。
 最初から右ミドルキックなどを打つつもりは無かったのだ。あれはただの「フリ」だ。
こちらのタックルを誘ったのだ。
 気付いた時には前に出ている。
 今更止められない。
 今、ここで前に出るのを止めたところで状況が悪化するだけだ。まだ悪い状態とは断
定できない状態からはっきりと「悪い」といえる状態に移行するだけだ。
 車でも電車でもタックルをしている人間でも、ある一定の線を越えたスピードで動い
ているものは急には止まれない。
 無理に止まろうとして止まれないこともないが、その時は一瞬だけ停止する。
 止まってすぐに後退というわけにはいかないのだ。必ず、一瞬だけ停止期間がある。
 そこを狙われたらたまらない。
 むしろ初志貫徹、組み付いて密着していった方がいい。
 加納はタックルの動作を続行した。足が抱え込めなくなったが不利というわけではな
い。有利になるチャンスが一つ無くなったというに過ぎない。
 組み付いて行けば元々が柔道でならした格闘家である加納には絶大の自信があった。
 頭を浩之の左脇に差し込むように突っ込んで行く。
 浩之の左手が動くのが視界の隅に視認できた。
 下方からせり上がってくるものがあった。
 肘!?
 瞬時に加納はそれを思った。
 エクストリームでは肘による打撃は禁止事項だ。
 それをやってくる気か!?
 この藤田浩之という男、どこの流派にも属していない。パンフレットの流派、もしく
は格闘技の前歴などを書く部分にはただ「我流」とのみ書かれている。
 それと、エクストリーム以前にこのような格闘技の大会に出たことが無いこともあっ
て情報を集めようとはしたのだが、よく集まらなかった。
 大したことはあるまいと思って、捨てて置いた。
 予想では、都築克彦に負けて当然、という程度に見ていた。
 反則をしてくるような奴だったのか!?
 それとも、苦し紛れに肘が出たのか!?
 だとしても、このまま突っ込んで額で弾く。
 こっちにはある程度の体重が乗っている。肘を弾いて組み付いていくのは十分に可能。
 加納は突進した。
 気をつけるべきなのは、肘の最も突起していて最も固い骨の部分を目や鼻などに喰ら
わないようにすることだ。
 目をやられて、眼球そのものは助かったとしても、試合中に目が開けられなくなって
しまえばいうまでもなく不利であるし、鼻血が出れば血が口に入るか、レフリーが一時
試合を停止してドクターの治療を受けることができたにしても鼻が塞がれ、どちらにし
ろ、呼吸が苦しくなる。
 額で受ければいい。
 回避するのはほぼ不可能、と加納は一瞬で断を下していた。
 左右にかわすのは、もし遅れた場合、目に直撃を喰う恐れが大きいし、下方に、さら
に倒れ込んで肘をかわしざま、足に食い付いていく手もあるにはあるがそれに気付くの
が遅く、この状態からでは間に合わないと思った。
 後退するのは、既述したように、急には止まれぬために僅かといえど停止期間がある
のがまずい。
 そうなれば、頭部の中では比較的打撃を受けてもそれに耐えうるだけの強さを持った
額で弾いていくのがいい。
 とりあえず、この肘を凌げば、すぐにレフリーが止めて浩之の肘を反則にとって注意
を与えるだろう。そうなれば、この後、加納が反則をしない限りは判定になった時に圧
倒的に有利。
 と、いっても、もちろん加納はこの試合を5分間3ラウンドを一杯に使おうなどとは
考えていない。その前に試合を自分の勝利で決めるつもりだ。
 と……。
 その時──。
 浩之が肘を振り抜かずに止めた。
 丁度、肘から先の下腕部をマットに垂直に立てたところで止まった。
 加納の額は、その肉の厚い部分へ接触した。
 肘打ち……ではない。
 加納の額が触れる寸前に、浩之の腕は動きを止めていた。
 動作としては、肘打ちで迎撃した……のではなく、腕で加納の突進を止めたように見
える。
 それを知った時に加納が思ったのは、試合が止まらずにこのまま続くこと。そして、
自分の頭部と浩之の右手との間に距離があることだった。
 そもそも、加納が組み付きに行った時に頭部を密着させていこうとしたのは、組み付
き間際に殴られないようにするためである。
 胸か脇の辺りに頭を密着させていけば頭を殴るのは困難だ。例え届いたとしても、肘
を屈伸させて小刻みに叩くような、あまり威力を得られないパンチになってしまう。
 だが、距離が──。
 加納が身を退いた。
 距離を多く取って届かない位置まで逃げる決断をしたのだ。
 浩之の左腕をこちらの手で弾いてあくまで組み付いて行った方がよかったか!?
 そう思った時には浩之の右フックが湾曲した線を空に描きつつ、加納の頬に到達して
いた。
 退く速度をパンチの速度が上回った。
 頬を左から右に打ち抜かれる感触が加納を襲う。
 斜め後方によろめいた体勢を立て直した時、浩之が組み付いてきていた。
 右腕を加納の左脇に差し込んで手先を後頭部の方へと回し、左手を胸前と首の右側を
通して、右手とクラッチ(結手)する。
 浩之は渾身の力を両腕に込めた。
 加納の頸動脈に軽い圧迫感が生じるが、もちろん、ギブアップするほどのものではな
い。
 加納が腕をほどこうとした時、浩之が加納を腰に乗せて投げていた。
 「ぬっ!……」
 それを右足で堪える。
 が、浩之の右足が加納の右足を刈る。
 両者の右足と右足の接触点を支点にするように、加納が回った。
 柔道の払い腰に近い技であり、原理はほぼ同じだ。
 受け身っ!
 元が柔道の選手であった加納は払い腰に近い投げを喰った瞬間に思った。
 この体勢で投げられれば、左手でマットを叩いて受け身を取るのがいいのだが、左腕
は首と一緒に浩之の両腕に拘束されている。
 左肩とマットの間に浩之の右腕が挟まっていて満足な受け身が取れない。
 顎を引いて、後頭部への衝撃は回避したが──。
 背中に衝撃が走り、内臓器官がマットと浩之の身体でサンドイッチの具になった。
 ごふっ──。
 空気の塊が、そんな音を伴って口から吐き出される。
 一本!
 思わず、そう叫びたくなる綺麗な投げだ。
 だが、柔道ではない。
 総合格闘では、ここからが勝負だ。しかし、投げた方が有利なポジションを取るのに
投げられた方よりも一歩先んじているのは事実。
 この場合も、浩之は投げて加納を倒した後も、加納の首と左腕を両腕で巻き込んでい
る体勢を維持していた。
 浩之の頭が加納の左脇の方へと移動する。
 頭で加納の左腕を頭頂方向へ向いた状態に固定しつつ、その左腕を巻き込んで両腕で
頸動脈を圧迫する肩固めに移行しようとしていた。
 加納はすぐにそれを悟って頭の位置を微妙にずらして技を極められないように持って
いく。
 浩之は両手のクラッチを解いてそれを加納の左腕へと差し向ける。
 腕を取ってアームロックへと移行。
 加納がさせじとフリーになっている右腕を救援に向かわせる。
 絡み合う。
 両腕が絡み合う。
 加納が腕の攻防を行いながら自分の足で浩之の足を絡め取った。
 すぐに、両足でも絡め合いが始まる。
 絡め合い。
 絡め合う。
 次第に、頭での押し合いまで始まった。
 全身、使えるものは全て使って有利なポジションを取ろうとする。
 その動きは緩急様々だった。
 単純な力比べになって、少しだけ動かないかと思えば、互いにその力を外してすかそ
うとした瞬間、素早く動き合う。
 こいつ……。
 浩之の顔に焦りが浮く。
 やるっ!
 ふと目が合った加納の表情が平静そのものだったことが浩之を急かせる。
 これは……互角……いや、グラウンドでは経験の差もあって加納が有利か。
 浩之の右肘がみしりと鳴る。
 腕拉ぎ逆十字固め。
 なんとか上半身を起こして回避することができた。
 浩之はそのまま立ち上がろうとした。
 加納の手が浩之の足を救おうとする。
「くあっ!」
 反応が一瞬遅れた。
 浩之は全力を籠めて足を引いた。
 汗が加納の手を滑らせる。
 抜けた!
 浩之が立ち上がって距離を取る。
 今のは……やばかった。
 こいつ、強い。
 レフリーが立っている浩之と寝転がった加納の間に入ってブレイクをかけて試合を仕
切り直す。
 立ち上がる時に加納が洩らした言葉が浩之の耳に入った。
「所詮、我流だな」
 その意味を浩之は瞬時に理解した。
 加納の表情と声の調子でわかる。
 思っていたよりやるようだけど、所詮、我流の選手などこの程度だろう。
 加納は、そういいたいのだ。
 加納のように柔道というしっかりとした前身があり、しっかりとしたコーチについて
格闘技をやっている人間にとっては浩之のようにパンフレットの経歴に「我流」などと
書いてある格闘家には、一抹の胡散臭さのようなものを感じているのだろう。
 しかし、浩之は我流ということにはなっているものの、松原葵に基礎を教えられ、家
の近所の空手道場に顔を出して、実戦に近い闘いをやってきている。それなりに、その
ことを誇りに思っていた。
 我流、ということに、それほどの気恥ずかしさは感じていなかった。
 加納の言葉を聞いても、恥ずかしいとは思わなかった。
 だが、加納の言葉に、少し腕自慢の素人が運良く一回戦を勝ち上がった……というよ
うな響きがあったと思った瞬間、浩之の中で瞬間的に何かが沸騰した。
 それは、なんであったか。
 煮え立ったものはなんであったか。
 神社……サンドバック……そして葵。
 葵との日々。
 浩之を格闘技へと誘った時間の数々。
 それが否定されたような気がした。
 そんな気がしたら、たまらなかった。
 我流じゃねえ。
 おれには、ちゃんと、先生がいて、それに色々と教えてもらったんだ。
 技術。
 それもある。
 だけど、それよりも──技術よりも心。
 それを教えてもらった。
 我流じゃねえ。
 我流じゃねえんだ。
「葵流だよ……」
 思わず呟いていた。

                                     続く

     どうもvladです。
     70回目ですな。
     60回目辺りでは見えていなかった終わりが今はもう見えています。
     あとは、それへと進んで行くだけの作業ですね。

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