鬼狼伝(68)  投稿者:vlad


 兄の頬をひっぱたいた感覚が掌を伝わるのは、初めてのことではなかった。何度か、
やったことはある。
 だが、今回ばかりは、理奈の手には全力が籠められていた。さらにいえば力だけでは
なく、その他の色々なものを籠めたつもりだった。
 呆然とした英二の表情を理奈は睨み付ける。
 何をやっているのか。
 明らかに負けたくせに、いつまでも負けていないと言い張って、応援してくれた人を
嫌な気分にさせて、係員の人たちにまで迷惑かけて……。
 落ち着いて冷静になってみれば、自分がどれだけ恥ずかしいことをしていたか嫌でも
わかるはずなのだ。
 とにかく落ち着けといいたかった。
 そして、実際にそういった。
 だが、英二は口では「落ち着いている」といいながら、落ち着いていなかった。
 いや、それも所詮は自分に言い聞かせているようなものだった。
 理奈のことがあまり視界に入っていない感じがした。
 逃げてる。
 理奈はすぐにそう思った。
 兄さんは負けたと、はっきりという理奈から逃げた。
 理奈はそう解釈した。
 カッとなった時には手が出ていた。
「落ち着きなさい!」
 そういって掌を振った。
「こっち向きさないよ!」
 そういいたい気持ちもあった。
 果たして、英二は理奈の方を向いた。
 怒ってはいない。
 驚いてもいない。
 不思議そうな表情をしている。
 もしかしたら、理奈が自分に何をしたか理解していないのではないか。
「しっかりしなさい!」
 今度は、理奈が英二の両肩を掴んで揺さぶった。
「してるさ」
 英二の声にも表情にも芯が無かった。朧気で虚ろであった。
「しっかりしてるさ」
 また、自分に言い聞かせるようにいう。
 理奈の手を振りほどき、英二は四方を見回した。
 自分に味方してくれる人間を探しているようだった。
 その泳いだ目が気に入らなかった。
 以前から度々不愉快にさせてくれる兄だが、今日だけは格別だ。一つ一つの不愉快な
行為が今までのそれを大きく上回っている上に連続してである。
「兄さん」
 理奈が呼びかけた時には、英二は既に背を向けていた。
 その視線の先に浩之と、そして雅史がいる。
「おい、藤田くん、佐藤くん」
 声をかけられた浩之と雅史は、困惑を表情に浮かべていた。英二に何をいわれるかが
わかっているのだろう。
「君たちならわかるだろう。おれがまだやれるってことを」
 浩之の目に、哀れみがあった。
 雅史の目にもあった。
 理奈はそれに気付いた。
 英二はそれに気付かないのか。
 兄は、そんな目で見られていいのか。
 そんな目で見られるのをよしとするのか。
 そんな人じゃないはずだ。
 兄は、そんなのじゃない。
 はっきりいってこの兄には気に入らない部分も多い。よく腹を立てさせられている。
そういう、理奈にとっての兄の気に入らないところ……それが今は無い。哀れなほどに
自分の負けを認めない兄には、それが無かった。
 だが、それが無いことが、理奈を苛立たせる。
 兄が兄らしくないことが異様にむかついた。
「兄さん!」
 肩を掴んで、振り向かせて、もう一度兄の前に立つ。
 その瞬間まで、兄に対して何をするかを決めていたわけではなかった。
 だが、その顔を見て決断した。
 腕を振った。
 手は強く握られていた。
「馬鹿っ!」
 ただ、それだけを叫んでいた。
 顎を正面から叩く形になった。
 英二の膝が折れて、一瞬、体が沈む。
 それを立て直して身を起こした時、英二の表情は一変した。
「理奈……か……」
 初めて、彼女に気付いたかのような口調であった。
 理奈はその呆けた顔を情けなく思い、思った次の瞬間には身を翻して駆け出していた。
 その場に立ち尽くしていた英二をただ見守っていた人々の中から、やがて静香が英二
の元までやってきた。
「大丈夫ですか?」
 心配そうに覗き込むように英二の顔を見る。
 理奈に殴られたことをいっているのだろう。
 英二は顎をさすりながら、
「ちょっと、痛かったかな」
 そういって笑った。
 乾いた笑いだった。
 生気のあまり感じられぬ笑いだった。
 だが、目からは先程までの妄執といっていい黒い炎が消えていた。
「す、すいません、私が理奈ちゃんに正拳突きなんて教えなければ……」
「あれ、静香さんが教えたの?」
 そういって、また笑った。
「理奈はどっちに行ったの?」
 英二は尋ねた。
 その理奈が、背中を向けるところも、駆け出すところも目の前で見ていたはずなのに、
英二は尋ねていた。
「えっと……あっちに」
 そういったのは冬弥だった。
 それに軽く頷いて、英二は歩き出した。
 歩きながら、考えていた。
 思考を行えるだけの冷静さを取り戻しつつあった。
 自分について考える。
 負けを認めずにレフリーに食い下がってブーイングを浴びた自分も、レフリーを殴ろ
うとして、それを察知した浩之に止められ、大勢の係員に押さえられて退場した自分も、
退場した後も認めず周りの人間全てにまだやれると訴えていた自分も、不思議と英二は
嫌悪感は抱かなかった。
 さすがに、少し恥ずかしい気持ちはある。
 だが、その無様な自分を否定する気にも、嫌う気にもなれなかった。
 自分の闘う心が死んだ。
 心が折れた。
 そう思う。
 だが、完全に死んだのか、というとそうは思えない。
 なぜなら、自分に心残りがあるからだ。
 まだやれる。まだやりたい。
 そう思っているからだ。
 英二は、何発かいい攻撃を貰っているものの、戦闘不能からは程遠い身体状態にある。
まだ1ラウンドぐらいならば十分に闘い抜ける。
 だから未練がある。
 身が竦んでしまい、テンカウントを聞いてしまったことに激しい後悔がある。
 身が竦んで立てなかったということは、心が死んだということだ。
 完全な負けだ。
 そう思う自分がいるのと別に、それを否定する自分がいる。
 ダウンしてテンカウント内に立ち上がれなければ負け、というルールによって自分は
負けた。
 ルールに負けたのだ。
 そのルールが無ければああいう不完全燃焼な負け方はしていなかった。
 もちろん、そのルールが無ければ負けていなかったなどというつもりは無い。
 むしろ、遙かに凄惨な負け方をしただろう。
 あのダウンのきっかけとなった耕一のハイキックを貰った時、英二の意識は一瞬飛ん
でいた。
 ダウンカウント無しのルールだったら、意識を取り戻す前に関節を極められて意識が
戻った時にはタップか折られる以外の道が無かっただろう。
 いや、そもそも、ダウンカウントが無いルールなどは、倒れた相手への打撃禁止など
という条項も無いはずであって、頭に蹴りを打ち下ろされればそれでおしまいだ。
 ルールが自分を負けさせた。
 ルールが自分をああいう不完全な形で負けさせたのだ。
 立ち上がればよかった。
 立ち上がって、完膚無きまでに叩きのめされ失神させられてしまえばよかったのだ。
 最終的に英二が認めたくなかったのは敗北という事態ではなく、あの敗北そのものだ
った。
 余力を残して負けたことがどうにも納得できなかった。
 叩き潰されればよかったのだ。
 試合中は、もし負ける時は叩き潰されてもいいと思っていたのだ。
 だが、最後の最後で気がくじけた。
 それは、心が死んだということだ。
 だが、未練がある。
 英二の思考は結局そこに巡ってくる。
 間違いなく負けた。
 それはいい。
 だが、その負け方が気に入らない。
 それがよくない。
 非常によくない。
 死んだはずなのに、まだ死んでいないような気分。
 妙な表現だが、そんな感じだ。
「誰か……」
 歩きながら呟いていた。
「殺してくれ……」
 おれの闘う心を殺してくれ。
 これで……今回のエクストリーム出場で最後にしようとしてたのに、これじゃ全然終
わった気がしない。
 あそこで立てなかったことの代償として当然のことなのかもしれないが……。
「誰でもいいんだ……」
 その声は虚無から産まれていた。
 英二の中にいる虚無が吐き出していた。
 虚無が叫んでいた。
 今から耕一の所へ行こうか。
 そんな気持ちがよぎる。
 行って何をするのか。
 すぐに打ち消す。
 行くとしたらやることは一つだ。
 自分の闘う心を殺してもらうのだ。もう心底闘いたくないと思うように……。
 そんなことができるわけはないし、耕一は拒否するだろう。こちらから襲いかかって
否応無しに闘いに引きずり込むにしても周りの人間に止められるに違いない。
 それに……そんなことをして、耕一との再戦を楽しみにしている浩之をガッカリさせ
るのも嫌だった。
「誰か……」
 誰でもいいんだ。
 誰か……。
 自分を「殺してくれそうな」人間を探して英二は歩く。
 もっと別のものを探していたような気もするな……。
 ……ああ、理奈か。
 自分をぶん殴ってそのままどこかへ行ってしまった妹を探していたんだった。
 ひっぱたかれたことはけっこうあるが、ぶん殴られたのは初めてだ。
 やられた後に何もいわれなかったのも初めてであった。大体、ぱちんと一発叩いた後
に、去るにしても何か痛烈な捨て台詞を残していくのがいつもの理奈だった。
 いつもの理奈ではなかった。
 それがいつもの緒方英二ではない自分によって引き出された理奈だということを、こ
の男は薄々気付いていた。
 理奈を探していたんだ。
 理奈に会ったらなんていおうか。
 ごめん……か?
 なんだかそれも違うような気がする。
 もう大丈夫だ。
 ……そんなもんだな。
 そういうことを考えている時にばったりと会ったらけっこう何もいえないものだ。
「……っと」
 角を曲がったところに、理奈はいた。向こうも丁度角を曲がったところらしく鉢合わ
せの状態になった。
「手は……痛めてないか」
 いおうとしていたことは何一ついえずに、そんなことをいっていた。
「……大丈夫よ」
 理奈は探るように英二を見ている。
 先程逆方向に去った理奈がこちらに向かっていたということは、おそらくぶん殴って
去ったものの、兄のことが心配になって戻ってこようとしていたのだと思うが。
「別に、兄さんのことが心配で戻ってきたわけじゃないからね」
 それを察したのか、理奈が釘を刺してくる。
「わかってるわかってる」
 そんな理奈がおかしくて、英二は笑った。
「……」
 理奈がさらに深く探る視線を放ってくる。
「見違えたわね、兄さん」
 やがて、いった。
「他人をナメきった感じが戻ったわよ」
「それはどうも」
「それはそれでむかつくけど」
「……ああ、そう……」
 そうか……戻ったか。
 理奈にはそう見えるか。
 試合会場の方から声が聞こえてきた。
 次の試合が始まるのだろう。次は、藤田浩之と加納久の試合だ。
「兄さん、見に行かないの」
 と、帽子とサングラスを装着しながら理奈がいう。どうも、一緒に選手入場口の辺り
から観戦するつもりらしい。
 いかに変装していても、自分と一緒にいればそれが緒方理奈だとわかってしまうんで
はないだろうか。
「いいわよ、別に」
 それを察して理奈がいった。今さっきといい、どうも最近この妹は自分の表情から何
を考えているかが読み取れるようになっているらしい。非常に要注意だ。
「そうだな」
 兄妹が一緒にいて何も悪いことはあるまい。
 英二は理奈に促されて歩き出した。
 理奈は、どうやら自分がいつもの緒方英二に戻ったと思っているらしいが……。
 英二の中には試合前には存在しなかった虚無が、未だにくすぶっている。
 それはなんとかせねばいけない。はっきりいっていつまでもこんなものを抱え込んで
いていいはずがない。
 これから始まる藤田浩之の試合。
 あの青年は自分の中の虚無をどうにかしてくれるか……。

 試合会場では、丁度、加納久の入場が終わったところであった。

                                     続く

     どうも、vladです。
     68回目までこぎつけました。
     なんとかなんでしょ。