鬼狼伝(67)  投稿者:vlad


 自分をアイドル歌手にする。
 その兄の意志に理奈は従った。
 理奈だって、それが心底嫌いというわけでもなかった。
 だが、高校を中途退学しろといわれた時にはさすがに反撥した。同業者の中には高校
に通っている間はアイドルとしての活動を控えてきちんと卒業をしたという人間も多い。
 自分もそうしようと思っていたし、兄もそうさせるつもりなのだろうと思っていたが、
どうやらそれほど悠長な計画を立ててはいなかったらしい。
 反撥して、言い争って、その末に結局はその意志に従った。
 ずっとそうだった。
 どんなに反撥しても、結局はその掌の上を出ることができない。
 自分の弱さを他人に晒さない人だった。
 理奈にだって、そんな姿を見せない。
 学生時代にボクシングを止めて以来、数年のブランクを経て突如エクストリームに出
るといい出した時に、理奈は反対した。
 理奈は今、あるドラマの撮影を行っている。
 その中での理奈の役所は、エクストリーム優勝を目指している少女、というものであ
った。
 なんでも、エクストリーム大会を主催する会社の広報の人間とテレビ局のドラマ担当
の人間の間に数年来の付き合いがあり、そこから実現した話らしい。
 エクストリーム大会では馴染みといっていい選手が多数実名で登場する、ということ
を宣伝文句にしているドラマだった。かくいう理奈も三ヶ月ほど前に来栖川綾香とスパ
ーリングをするシーンを撮ったばかりだ。
「そっちは本気で打ってきて下さい」
 綾香はそういった。
 丁度、そのシーンは理奈が来栖川綾香とスパーリングをしてその実力差を実感する、
という場面だったので、理奈が本気でやった方がリアルになると監督が考えたのだ。
 理奈も、元々運動神経は悪くないし、アイドル歌手の素養として昔からダンスなどで
体を動かしている。その上に、撮影前にエクストリーム一般女子の部で準優勝の成績を
残している御堂静香に一通りのことを学んでいたので攻撃のフォームはなかなかサマに
なっている。
 ドラマの中で派手な技も使わせたいとの監督の意向があったので、その時期に理奈は
空中で前転して踵を相手に当てていく浴びせ蹴りの練習までした。
 理奈はエクストリームチャンピオンの綾香が受けてくれるというので思い切り打ち込
んでいった。教えられたコンビネーションを一通り試してみた。
 理奈の攻撃は悉く空を切り、厚いガードに阻まれ、残り時間が少なくなった時に右の
ストレートを寸止めで入れられ、その直後にタックルを貰った。すぐに倒されてマウン
トポジションを取られた。
 そこまで撮影してカットになった。
 その結果として理奈が抱いた感想は単純に「強い人間というのはすごい」ということ
だった。
 一ヶ月の特訓によって得た程度の技術ではどうにもならないレベルだ。
 理奈が覚えたコンビネーションなどは全て読んでいて自分で打ち込んでいて全く当て
られる気がしなかった。
 何度かきわどい場面もあったが、あまりに一方的でも絵にならないと思って手加減し
てくれたのだろう。それほどに差があった。
 それ以前に、静香に借りて前回と前々回のエクストリームのビデオも見たのだが、そ
の二つの大会にもだいぶ差があった。
 予選に参加した人数も増えたようだし、所属する道場やジム、バックボーンとなる格
闘技の前歴もバリエーションが増えた。
 選手個々のレベルも、試合の内容のそれも共に向上していた。
 理奈は理奈なりにこの大会の過酷さを知っている。
 その経験から、兄に反対した。
 どう考えても潰される。と思ったからだ。
 だが、その理奈の予想に反して兄は一回戦を勝ち上がった。
 少しは心配していた理奈だが、それを見て安心した。
 やっぱり、兄さんは大丈夫だ、と。
 昔から人の助けを必要としない人だった。
 常に、理奈に与え、そしてその分、自らの意志通りに動くことを要求してきた。
 その兄が、二回戦を前にしていつになく不安そうにしているのを見た時、理奈は兄に
いっていた。
「とにかく、なにか心配事があるならいってみなさいよ」
 と。
 それに対する返答は拒絶。
 理奈の気遣いを拒絶したつもりはない、と兄は主張するかもしれないが、理奈は、
「何も無い」
 という返答を拒絶と感じた。
 やはり、兄には自分の助力などは要らないのだろう。
 そう思って、ふてくされ気味な気分で試合を見ていた。
 そう、理奈はふてくされていた。
 もしかしたら……自分が兄の役に立てるかもしれない。
 兄のプロデュース通りにアイドルとしてヒットを飛ばす。そんな形でじゃなくて……
アイドルとプロデューサーとしてじゃなくて……兄と妹の関係において……役に立てる
かもしれない。
 そんなことを考えていた。
 そんなことを考えて、少し気持ちが浮ついていた。
 それに返ってきたのは拒絶。
 そして、ふてくされていた理奈の視線の先で、試合は兄の不利のまま進んでいき、第
2ラウンド、テンカウントが入り、ノックアウトで勝負がついた。
 兄を注視していた理奈には、テンカウントが入ってすぐに兄が立ち上がったというこ
とがわかった。
 わからないのは、あんなにまだ余力があるのに、なぜテンカウントを聞いてしまった
のかということだ。
 しかし、その疑問を疑問として感じ、あれこれ考える以前に、理奈の注意は兄の行動
に移っていた。
 はっきりとテンカウントが入っての敗北にも関わらず、兄は激しくレフリーに抗議し
ていた。
 あまりにしつこいので理奈も恥ずかしくなってきて、もう止めて欲しいと思った。
 それでも、兄は食い下がっていた。
 会場のそこかしこから、理奈の周りからも怒声が上がり始めた。いい加減にしろ、と
いう類の声が初めは小さく少なく、やがて増えて大きくなっていった。
 理奈の真後ろに座っていた男も大きく声を張り上げていた。
「台無しにするなよ! てめえ!」
 そう叫んでいた。
 理奈はテンカウントが入った時、それと同じ声が、緒方よくやったぞ、と兄を讃えて
いたのを覚えていた。
 なんだか、胸が苦しくなった。
 だが、それはそれとして、理奈の関心は兄に吸い付いていた。
 レフリーの両肩を掴んで揺さぶる。
 物凄く険しい目でレフリーを睨み付ける。
 横からタックルを貰って係員に取り押さえられて暴れる。
 あんなに取り乱した兄を見たことはなかった。
 一体、どうしたというのか。
 わからない……だが、試合前の不安そうな英二の表情が関係しているのではないか。
 これから兄に会って何をすればいいのかわからない。
 兄が取り乱したままだったらどうしたらいいのかわからない。
 そう、わからない。
 取り乱している兄など見るのも接するのも初めてなのだから。
「理奈ちゃん」
 周りに誰もいないのを確認してから、冬弥は理奈を呼び止めた。が、理奈は止まらず
さらに歩幅を広げて速度を速めていく。
 冬弥が小走りになって追いつこうとした時、二人は関係者以外立ち入り禁止の区域に
差し掛かっていた。
「ちょっと……関係者の方ですか?」
 警備員が前に立ちはだかりながら尋ねる。
「関係者です……出場した選手の家族なんですけど」
「えっと、誰の?」
「……緒方英二です」
「え?」
 警備員はその名を聞くと、じっ、と帽子を目深に被り、サングラスをした理奈のこと
を見つめる。芸能界の事情にそんなに疎くないのだろう。緒方英二の家族といえば、か
なり限られる。
「緒方理奈です」
 業を煮やした理奈はサングラスを取り、帽子を脱いで、警備員の目を貫くような視線
で見た。
「あ……はい」
 小さく呟いた警備員の横をすり抜けて歩き出した理奈を、僅かに遅れて冬弥が追う。
 歩いていくと声が聞こえてきた。
 それを頼りに選手用通路を進んでいくと、声は、試合会場から少し離れたところから
聞こえてきていた。
 さっ、と理奈が視線を巡らせただけで確認できたのは、兄と、そして自分の格闘方面
の演技指導を行い兄のファンだという御堂静香、それから彼女の試合中セコンドについ
ていた眼鏡をかけた長身の男。
 そして少し離れたところで事態を見守っているのは、確かこの大会に出場している藤
田という選手で、どうやら兄とはちょっとした知り合いらしい。
 自分を取り巻く係員たちになおも食ってかかる兄を、呆然と打つ手無しといった様子
で眺めている静香に、理奈は声をかけた。
「静香さん」
「あ、理奈ちゃん」
 静香は、救いの手が現れたとでもいわんばかりに表情を明るくした。なんとか、理奈
がこの場を収めてくれると思っているのだろう。だが、前述したように理奈にもどうし
ていいのかわからない部分が多い。
「兄さんはどうですか?」
 そう思いながらも、収められる人間がいるとしたらそれは自分しかいないだろう、と
いう諦めと……そして不思議な自負心に突き動かされて、理奈は尋ねた。
「まだやれる……まだやれる……って、そればっかりいってるのよ」
「どう見ても試合は終わってたじゃないの、ノックアウトで兄さんの負けよ」
「でも、まだやれる……って、私もなんとかしようと思ったんだけど、聞く耳持ってく
れなくて」
 そういいながら静香は悲しそうだ。
「よし、私が言って聞かせるわ」
 理奈が超然、といった表現を使用しても差し支えないような堂々たる足取りで係員の
襟首を掴んでいる兄に向かっていく。
 静香は、呆けたようにそれを見ている。
 その背後にいた柳川は、興味深そうにそれを見ている。
 少し離れた位置にいる浩之と雅史は、それに見とれていた。
「兄さん」
 後頭部に向けて投げ掛けた声に対する反応は無く、兄は依然、後頭部を向けている。
 少々ムッと来た理奈は肩に手を置いて強引に引っ張り、同時に進み出て、兄の真ん前
に立った。
「何してんのよ! 兄さん!」
「……理奈か?」
 呆然と、英二は呟いた。
「私以外のなんに見えるのよ」
「……」
 沈黙した。が、それは一瞬のことだった。すぐに英二は理奈の両肩を掴んだ。
 掴んで、揺さぶった。
 そして、いった。
「理奈! お前ならわかるだろう」
「何がよ」
「おれがまだやれるってことをだ」
 理奈は、絶句したといっていい。
 妹が現れれば、少しは取り乱している自分を客観的に見られるようになって冷静さを
取り戻すかと、一抹の期待を抱いていたのだが……。
「やれるも何も……兄さん、負けたじゃないの」
 理奈は、はっきりといった。少々の荒療治が必要だと思ったからだ。
 もしかしたら、この兄が激昂するところが見られるかもしれないという考えもその胸
中にはあった。
 取り乱すことの無い人だった。
 理奈を叱る時も、感情的になったことが無い。
 もしかしたら、怒るかも……怒って叫び出すかも……そうなったら、ちょっと面白い
わよね。
 どこかで、そんなことを思っていた。
「ふふ……」
 反応は……口辺に薄く浮かんだ微笑であった。
「何をいっているんだ。理奈」
 優しい声が理奈の耳朶に触れ、優しい表情が理奈の目の前にあった。
「おれはまだやれる……つまり、闘う心は死んでないってことだ」
 それは、ものがわかっていない妹に、ものを教えてやろうという兄の姿にしか見えな
かった。
「心が死なない内は、負けじゃないんだよ」
 そういった兄の笑顔が、理奈にはやたらと気に喰わなかった。
 負けは負けだ。テンカウントの間に立つことができなかったのだ。
 素直に負けを認めればいいではないか。
「負けてないから、あの試合の続きをやらなきゃいけない」
 こんな未練がましい兄を見るのは初めてだった。
 笑顔も、とても薄っぺらいものに見える。
 こんな嫌な顔で笑う兄を見たのも初めてだった。
 その薄い表皮を剥げば、そこには泣き出しそうな弱々しい顔があるのではないか。理
奈にはそう思えた。
 腹が立った。
 こんな兄は見たくはなかった。
「わかるだろ? 理奈」
 英二が、理奈に同意を求めた。
 自分に同意を求める兄は、初めて見たわけではなかった。
「これでいいだろ?」
 と、仕事のことで同意を求められたことはある。だが、それは意見を求めているとい
う色合いも強く、理奈も気に入らないところや改案した方がいいと思うところなどはど
んどん意見をいうし、文句もいう。
 だが、この時の英二のそれには、どことなく懇願の響きがあった。
 見た目は堂々と、妹に対する兄のようだが、根底の部分で英二は理奈に「同意してく
れ」と頼んでいた。
 こんな弱い兄を見るのは初めてだった。
 弱い兄を見たくないわけではなかった。
 だが、これは駄目だ。
 理奈は強くそう思った。
 こんな弱さは駄目だ。
 見たくない。
 無性に腹が立った。
 もちろん、こんな兄は見たくはなかった。
「落ち着きなさいよ」
 努めて冷静に理奈はいった。
「落ち着いているさ」
 そういった英二は、理奈がかつて見たことが無いほどに落ち着きが無かった。
「落ち着いている」
 英二は、自分に言い聞かせるようにいった。
「落ち着きなさい!」
 理奈が、右手を上げて振った。
 右の掌が英二の頬に接触して音を立てた。

                                     続く

     あー、どうも、vladです。
     六十七回目であります。
     今まで、感想を下さった方、毎週楽しみにしてますといって下さっ
     た方、叱咤激励をもって自分を奮い立たせて下さった方、その他諸
     々、ここに謹んで感謝の意を表すものであります。
     ようやく、無計画丸出しで完結を先延ばしにしてきたこの話もおれ
     の頭の中では終わりが見えてきました。