鬼狼伝(66)  投稿者:vlad


 耕一がダウンした自分を見ている。
 その視線をまともに自らのそれで受け止める。
 目の奥には、やはり赤い光が灯っているような気がする。
 怖いな……。
 これ以上、この男と闘ったらまずいかもな。
 頭を振る。
 そんなことを考えている暇は無いはずだ。さっさと立ち上がらねばならない。
 殺されるかもな。
 耕一の目を見ていたら思った。
 頭を振る。
 立ち上がるためにまずは上半身を起こさねば。
「エイト!」
 ほら、急げ。
 怖気がするな。全身にくまなく、隅々まで怖気が行き渡る。
 耕一が自分を見ている。
 奥に赤い輝きを灯した目で見ている。
 怖いな……。
 頭を振る。
 そんなこと考えている暇は無いぞ。目が怖いなら、目を逸らして一気に立ち上がって
しまえ。身体の状態ははっきりいって最悪に近いが、自分はまだやれるんだ。
 もう勝てないかもしれないけど、まだやれるんだ。例え負けても、闘う心は殺されな
いんだ。
 ……だが、英二は視線を耕一の目から外すことはできなかった。
 身が竦む。
 改めて、彼が知る藤田浩之という青年に戦慄した。
 あの青年は、この男と二度目をやろうとしているのだ。
 ごくり、と唾を飲み込む。
 怖いことなんか無い。立ち上がれ。
 耕一と睨み合いながら、英二が立ち上がろうとする。
 マットについた両腕が震えた。
 そんなに怖いか。
 立つぞ、立たねば。

「テン!」

 英二の視線が耕一から外れた。
「おい……」
 弱々しい声でレフリーに向かって呟いていた。
 レフリーが両手を何度も交差させている。ゴングの音が何度も連なって聞こえた。
「おい……」
 その小さな声を聞いた者は誰もいない。
 自分に背を向けていたレフリーが身を翻して向かってくる。
 英二は立ち上がった。
 跳ね上がるように立っていた。
「おい、待てよ、おい!」
 叫んでいた。
「待て!」
 試合場を下りようとしていた耕一に向けて叫んだ。
「おい、待て!」
 レフリーに向けて叫んだ。
「待て、終わってないだろ、待てよ!」
 両目に宿る光が尋常ではなかった。
「終わりだ。テンカウントが入ったんだよ」
 レフリーが英二に言い聞かせる。その目に怯えた色があった。英二のただならぬ眼光
と気配を感じ取っているのだろう。
「何をいってるんだ。おれはこうして立ってるぞ」
「しかし、もうテンカウントが入ったんだ」
「おれはやれるぞ」
 そう……。
「まだやれるんだ!」
 叫んでいた。
「だから、例え君がぴんぴんしているとしても、テンカウントが入った以上は試合は君
の負けで終了なんだ」
 そのレフリーは、英二よりも二十は年上と思われる中年の男だった。まるで、駄々を
こねる子供を諭すようにいった。
「でも、やれるんだ」
 闘う心は死んでいないはずだ。
 今から試合再開といわれればすぐにも戦闘体勢をとれる。腹部のダメージが大きいが
なんとかなる。
「ならば、なぜテンカウント前に立ち上がらなかったんだね」
「……」
 英二は初めてそれに気付いたように放心した表情を見せた。
 なぜ立ち上がらなかったのか。
 なぜ立ち上がれなかったのか。
 その理由を自らに問うのは英二にとって酷烈な作業であった。
 結論がわかっているからだ。
 身が竦んで動かなかった。
 あの、奥底に赤い灯火を宿した両目を見ていたら、動けなかった。
 怖かったのだ。
 恐怖があった。
 恐怖が自分を押し潰した。
 それは――。
 闘う心が死んだということではないのか?
 新たな問いが生じる。
 いや、死んでいない。
 はねつけるように答える。
 その証拠に、まだやれる。
 だが……。
 また、あの目を見た時にも、そうなのか?
 新たな問いが生じる。
 生まれ続ける問いが英二を徐々に袋小路へと追い詰めていく。
 その袋小路にあるのは、一つの答えであった。
 自分が柏木耕一に負けた、ということ。
 その至極単純な答えが、袋小路で英二を待っていた。
 心が――闘う心が死んだ。
 それは、すなわち負けだ。
 だが、おれの闘う心はまだ死んでいない。と、そう叫ぶ自分が、負けたことを認めよ
うとする自分の中に確かにいた。
 おれの闘う心はまだ死んでいない!
 その声が袋小路に反響してこだまする。
 ならばなぜ立たなかった。
 問う声がする。
 身体的には立つことに問題は無かったのに立てなかったということは、つまり心が死
んだということではないのか。
 詰問する声がする。
 いや、死んでいない。
 頑なに否定する声がする。
 自分が学生時代にやった最後のボクシングの試合が思い出される。忘れようとしても
忘れられない。
 あの時、幾ら殴っても起き上がってきた男に「闘う心」を見た。
 それからだ。英二がその闘争の思想に「闘う心」という概念を持ち、それについてあ
れこれ考え始めたのは。
 身体がボロボロになるよりも「もうやりたくない」と思ってしまう――すなわち闘う
心が死ぬ――ことの方が恐ろしい。そっちが本当の負けだ。と、思うようになった。
 その思想に従えば、英二は負けた。
 完膚無きまでに負けた。
 一言の言い訳すら許されぬ負け方だ。
 身体は大丈夫だったのだ。あそこで立つことはできたのだ。だが、心がそれをさせな
かった。
 耕一の目を見て竦んでいる内にテンカウントが刻まれてしまった。
 なんという不様な負け方だ。これならば顔が倍に腫れ上がるぐらいに殴られて失神し
た方がずっといい。
 かつて英二の闘う心を殺した男がいた。
 殴られても殴られても立ち上がってきて、セコンドがタオルを投げ入れても前に出よ
うとした。もう立っているのがやっとの身体で男がまだやれるといった時に、英二のそ
れは死んだのだ。
 それに引き替え自分はどうだ。
 まだ十分に余力を残しておきながら敗北の宣告を受けている。
 こんな結末を見るために自分は帰ってきたのか。
 深夜テレビのボクシング中継であの男を見た。顔を見てすぐにわかった。やはり、死
闘を演じた相手の顔というものは覚えているものだ。
 どことなく童顔だった幼い顔に、タイトル挑戦までに味わったであろう艱難辛苦が貼
りついていい顔をしていた。
 彼は打たれても打たれても前に出るファイトスタイルを変えておらず、三回打たれて
一回返す、というような試合を展開しつつ、やがて打ち疲れたチャンピオンを一気に沈
めた。
 男はベルトを腰に巻いて天井を見上げながら泣いていた。
 闘う心を持ち続けていたから、その栄冠を手にすることができたのだと英二は思う。
 そして、それを見ながら自分の中で沸き上がるものがあった。それの正体が最初英二
はわからずにいたが、やがてそれを「闘う心」であると知った。
 もう死んだと思っていたのに……細々と生きていたのだ。
 それを知って英二は戸惑いながらもそれの求めに応じるように身体を動かし始めた。
長いブランクを払拭するために多量の汗を流した。英二の身体はまだそれに耐えられる
だけの若さを内包していた。
 長瀬源四郎に会い、柏木耕一のことを知り、彼に会いに行った道場に藤田浩之がやっ
てきた。
 そして、浩之と月島拓也の闘いに立ち合い。
 彼らが闘いに来たこの場所に英二もやってきた。
 そこで、柏木耕一と闘った。
 決して誉められた闘いではなかったかもしれないが、英二なりに必死に懸命にやった
つもりだ。
 必死に限界までやったことが敗北によるショックを和らげてくれることはよくあるこ
とだ。
 ここまでやって負けたのだからしょうがない。
 ここまでやって負けたのなら自分の力が不足していたということだ。
 そう思えば、諦めもつく。
 やりようによってはそれが次を目指す時のバネになる。
 おそらく、かつて英二に負けた現在のチャンピオンも、あの時の負けをそれほどに苦
にはしていなかっただろう。
 だが、今の自分はどうだ。
 到底、必死に限界までやったとはいえない。
 立てるのに立てないで負けた男が、それに値しないのは明らかだ。
 こんな負け方をするために自分は帰ってきたのか。
 今度こそ心が死んだ。
 断定する声。
 いや、死んでいない。
 否定する声。
 全て、英二の声だった。
 頭の中で全く噛み合わない討論会が起こっているようなものだ。
 頭が痛くなるほどだ。
 そして、実際に口から出ているのは、
「おれはまだやれる」
 その言葉だけだった。
「まだやれるんだ!」
 両手を伸ばしてレフリーの両肩を掴んで揺さぶりながらいった。
 周りからブーイングが聞こえてくる。明らかにテンカウントが入ったにも関わらず食
い下がる英二に不快感を覚えた観客が罵声を浴びせていた。
 それを聞きつつ、だが、自然と完全に無視して英二はレフリーの肩を揺すった。
「第2ラウンド、二分十二秒、ノックアウトで柏木耕一選手の勝利です」
 そのアナウンスの声も、英二の耳には届いていない。
 レフリーの両肩を掴んだまま、英二は視線を転じた。耕一が背中を向けていて、その
背中は先程よりも小さくなっていた。
「おい!」
 その背中に向かって叫ぶが、耕一は振り返りもしなかった。
 耕一は思い詰めた表情に、だが一抹の安堵をよぎらせていた。
 とにかく……終わった。
 精神的に膨大な疲労感を覚える闘いだった。
 呼吸は整っているが、鼓動は早まっている。
 どくん、と心臓が震えている。
 でも、なんとか無事に終えることができた。
 自分は柏木耕一であり、それ以外のものではない。
 振り返ろうとしたが、レフリーに食って掛かる英二を見るのが嫌で止めた。
「おい、やるぞ。柏木くんを呼び戻せ」
 それが無茶な願いであるという認識すら英二には無かった。
 だが、レフリーは首を横に振った。当然である。今の決着に不明瞭な点は全く無かっ
た。英二がテンカウントの間に”立ち上がれなかった”ことは誰の目から見ても明らか
である。
 この裁定は絶対に覆らない。ここでこれを覆してはエクストリームという競技自体の
権威は失墜するだろう。
 首を横に振るレフリーに英二はさらに詰め寄る。
 この男はわからないのか。
 自分がこれほどにやる気だということを、自分がまだやれるということを、わからな
いのか。
「さあ、早く下りなさい」
 レフリーは冷然と促す。選手がごねるのにそうそう付き合うわけにもいかない。
 だが……。
 英二の手が強く握られていることに気付いたらそれをいうのを躊躇ったかもしれない。
 どうなることかと事態を注視していた浩之が何もいわずに試合場に上がったことに隣
にいた雅史はすぐには気付かなかった。
 気付いた時には浩之は前傾姿勢をとっていた。
 その浩之の前方には英二が横顔を見せている。
 側面から英二に近付いて何をする気なのかはわからなかったが雅史は思わずそれを追
っていた。
 英二の握られた右拳が胸の辺りまで上がった。
 膨大な量の苛立ちが英二の中で沸騰していた。
 凄まじい絶望があった。
 絶望が産んだのは自暴自棄であり、それが苛立ちをかきたてる。
 全てが合わさった時、英二は拳を上げていた。
 心中に明確な目的があったわけではない。ただ、漠然と上げていた。
 その拳をどこに振り下ろそうとしていたのか……英二にははっきりとわかっていなか
った。
 ただ、その拳を使って示そうと思った。
 口でいっているだけでは駄目だ。
 まだやれる、ということを、身体で示すしかない。
 拳で誰かを……誰でもいい、思い切り殴ってやればいい。
 丁度目の前にレフリーがいた。
 一番近いところにいたのがその男だった。
 届く位置だ。拳を突き出せば当たる。
 突き出せば……。
 いきなり腰をさらわれたのはその時であった。
「英二さん!」
 そう叫んで横から腰にタックルしてきた男が何者なのかを英二は理解できなかった。
理解できないままにそのタックルを捌こうとしたが横から突然来られたために耐えられ
るものではない。
 誰でもいい。こいつでもいい。
 英二は脇腹に接触している顔を打とうと肘を落とした。が、その瞬間に足がマットを
離れて体勢が崩れて、打つことができなかった。
 もう一発を放とうとして英二はその顔を見た。
 藤田くんか!?
 だが、生じたその驚きも英二の手を止めるには至らなかった。
 肘を打とうとした腕が、掴まれた。浩之かと思ったが違う、浩之の両手は英二の腰に
巻き付いている。
 英二の腕を掴んだ雅史は、強い意志の光を宿した目で英二を見ていた。
 すぐに、大会の係員が何人もやってきて英二を押さえ付けた。
「まだやれるんだ!」
 英二が叫んだ。
 それを聞きながらも、浩之を含めて五人の男が英二を立たせて引きずるように試合場
から下ろす。
 そして、そのまま選手入場口へと消えて行った。

「……」
 冬弥は、眼下で行なわれた光景の一部始終を一言も出さずに見ていた。英二がレフリ
ーに何やら抗議をしているのはわかったのだが、突然、この後試合のある藤田浩之とい
う選手が英二に突っ込んでいって係員が何人も試合場に上がって英二を連れて行ってし
まった。
「藤井くん……私、行ってくるから」
 そういって、隣に座っていた理奈が席を立った。
「あ、待って理……」
 理奈の名前を呼ぼうとして止まった。どこに誰の耳があるかわからない。
 冬弥は理奈に僅かに遅れて席を立ち、その後を追った。

                                    続く

     どうも、vladです。
     66回目となりました。
     まあ、ガツンといってやりますよ、ガツンと。
     具体的にどうガツンといくかは塵ほども考えていません。