口裂け  投稿者:vlad


「先輩」
 と、高校の後輩だった松原葵から電話がかかってきたのは冬のある日だ。
「二ヶ月ぶりだな。元気でやってんの?」
「はい!」
「葵ちゃんはいっつも元気だな」
 浩之はそのことに安堵を覚えつついった。
 浩之は今、なんとか合格できた大学に通いながら格闘技は趣味程度に止めている。
 テレビでエクストリームや、その他の格闘技の中継があると欠かさずに見るようには
しているが、葵と一緒にエクストリーム同好会で頑張っていた頃に比べれば随分と体は
鈍っているはずだ。
「で、今日はなんの用だい?」
「先輩、綾香さんが道場を開いたの知ってます?」
「ああ、雑誌で見たよ」
 道場を開いた。という葵の表現は少し大袈裟であるが、浩之はそのような記事を一ヶ
月ほど前に読んだことがあった。
 あの、葵の長年の目標であり、今やエクストリーム大会でのライバルである来栖川綾
香が主催する総合格闘の道場が開かれたのである。
「エクストリーム全体のレベルを上げていきたい」
 と、綾香がインタビューに答えていた。
「それに、色々な人たちと一緒に練習することによって、自分も磨かれていくと思うん
です」
 とも、いっていた。
 その記事によると、入門希望者が殺到しているということだった。綾香は既に高名な
格闘家であり、当然、格闘技をやる少女で、彼女に憧れる者は多い。
「今日、遊びに来ないか? って誘われたんです」
「へえ」
「で、綾香さん、久しぶりに先輩にも会いたがっていたし、どうですか? 先輩、道場
開きのパーティーには来れなかったですから」
「んー、今は暇なもんだよ、おれも綾香には会ってみたいなあ、よし、行くよ」
「はい、それじゃ、どこで待ち合わせしましょうか?」

 来栖川綾香の主催する道場「来栖川道場」は、あるビルの二階にあった。
「藤田先輩、丁度練習が始まるみたいですよ。見学させてもらいましょう」
 葵のいう通り、十人近い少女たちが柔軟運動をやっている。皆、高校生ぐらいだろう。
「失礼します。松原葵です!」
「どーも、藤田っす」
 やる気のなさそうな浩之の声ではなく、葵の元気な声が聞こえたのだろう。奥の更衣
室から綾香が出てきた。
「よく来たわね、葵! 久しぶり、浩之」
「はい! 今日はしっかり見学させてもらいます」
「おう、相変わらず元気そうだな」
「じゃ、しっかり見てってね」
 綾香は軽く柔軟運動をしながら、
「それじゃ、スクワット!」
 と、いった。
「はいっ!」
 輝く瞳を持った少女たちがそれに応じて、スクワットを始めた。
 葵と浩之はそれを見ていた。
 十分後……。
「……けっこう……頑張るな……」
「もう、300回ぐらいやってますよ。私も見習わなきゃ」
「おおい、綾香、まだやらせんのか?」
 いい加減、みんなバテてきて、膝がガクガクと笑っている子もいる。
「まだまだよ」
 そういいながら綾香は手に竹刀を持ってやってきた。
「……お前、それ……」
「まだ半分しか過ぎてないわよ、気合入れなさい!」
「はいっ!」
 半分……。
「もう十分やんのか? おい」
「当たり前よ」
 と、いいつつ、竹刀を肩に担いだ綾香が一心不乱に膝の屈伸を続ける少女たちに近付
いていく。
「気合入れて上げるから頑張りなさい!」
「はいっ!」
「うりゃぁっ!」
 バシッ!
「うわ! やりやがった!」
 浩之が顔を渋面にしていった通り、綾香は一番手近にいた少女の背中を思い切り竹刀
で叩いた。
「竹刀ごっつぁんです!」
「よーし、次ぃ!」
 ビシッ!
「竹刀ごっつぁんです!」
「おらぁっ!」
 ベシッ!
「竹刀ごっつぁんです!」
「まだまだぁ!」
 ボコッ!
「竹刀ごっつぁんです!」
 浩之は、その光景を見ながら段々気分が悪くなってきた。
「あー、葵ちゃん、これはちぃとたまらねえなあ……」
 と、隣の葵に救いを求めるように声をかけると、葵は正座の姿勢のまま、目を潤ませ
ていた。
「ど、どうしたの!? 見てて痛いんなら無理に見ることは……」
「美しいです」
「は?」
「見て下さい。先輩、彼女たちの美しい姿を……」
「……そうかなあ……」
 どうしても浩之には美しいというより、痛々しい、というように見える。
「もう我慢できません!」
 葵は叫ぶや否や立ち上がって少女たちの列に加わり、自らもスクワットを始めた。
「あんたもやるの! 葵!」
 綾香が、嬉しそうに叫ぶ。
「はい、お願いしますっ!」
「よーし」
 バシッッッ!!
「竹刀ごっつあんです!」
「……」
 浩之は一人取り残され、ぽつんと隅に胡座をかいたまま、その光景を見ていた。

 ぬうっ!

 やがて浩之は心中で呻いた。
 鋭い、獲物を狙う餓えた肉食獣に等しい視線が、自分を見ているのを感じたのだ。
 ちらり、と少しだけその視線の元を見てみた。

 あ、綾香がこっち見てるッッッ!

 浩之は即座にその視線を外して何の変哲も無い壁の方を向いた。

 やべえ、目を合わせちゃならねえ。

 目が合った途端に、自分もあの竹刀で叩かれてスクワットしている一群の中に投じら
れてしまうに違いない。

 関係ねえ。
 葵ちゃんは、あれは自分から望んで行ったんだ。おれはただの見学なんだから、やら
ねえぞ、そんなのやらねえぞ。

 じいぃぃぃぃぃぃっ。
 と、なおも綾香の視線が浩之の側頭部に突き刺さる。

 駄目だ。不動心だ。
 この位置から頭を動かすな。
 チラリと横目で見ても駄目だ。

 足音が近付いてくる。
 その音がすぐ横までやってきて止まった。
 ふわりと、何かが下りてきた。
「浩之……」
 後頭部を向けた方向から綾香の声がする。
「な、なんだ……」
 浩之は、なおも恐る恐るではあったが振り返った。
 振り返った時、浩之の目の前にあったのは掌であった。
 綾香が、自分の掌をかざしている。
「綾香?……」
「触ってみて」
 いわれるままに、浩之は綾香の掌に触れた。
「うふふ、表面がザラザラしてるでしょ」
「……ああ」
「ここのところ、ずっと握力とか指を鍛えてたのよ……前はまだすべすべとしてたんだ
けどね」
「……」
「こんなにザラザラになっちゃって……女の子の手じゃないわよね、これじゃ」
「綾香……」
「でもね、そのおかげでね……」
「ああ……」
「この指で、人の耳を千切り取ることができるのよ、浩之ィ」
「!……」
 頭を退こうとした時には、耳が綾香の親指と人差し指に挟まれていた。
「見てるだけじゃ退屈でしょ」
「痛えって! ちょっと待て、自分で立つから!」
 吊り上げられながら浩之は叫んだ。
 そして──。
「行くわよ、おりゃあああああっ!」
 バシィィィィン!!
「ぐわっ!」
「返事は!」
「竹刀ごっつぁんです!」

 その後、浩之はしっかりと練習に付き合わされた。
「見学だけっていったのにぃ……」
 燃え尽きて灰になった我が身を横たえて浩之は呻くように呟いていた。時々、その気
になったら体を軽く動かしているだけの、鈍りきった浩之にとっては、ここの練習はき
ついものであった。
「久しぶりにいい汗かきましたよ」
 葵が、貸してもらったタオルで汗を拭っている。
 あれだけの練習を経て、涼しい顔でいることに、葵が現役であることを感じずにはい
られない。
「これからも時々、出稽古に来ていいそうですから、また来ましょうね、先輩!」
「あー、んー、体がその気になったら……」
 どうやら本格的に鈍っていたようだ。
 少し鍛え直すかな……。
 そんなことを考えながら、浩之はようやく上半身を起こした。
 と、なんだかいい臭いが漂ってくる。
「なんだ?」
 浩之が顔を上げると、自分がへばっていた間に道場の中央にコンロが用意されており、
その上にでかい鍋が乗せてある。
 その鍋からいい香りが漂ってくるらしい。
「お、なんだなんだなんだ」
 浩之はスクワットで足を酷使してしまったために匍匐前進で道場中央へと向かった。
「おう、美味そうな臭いするねえ」
 鍋の中に野菜を入れている道場生に声をかける。
「あ、待ってて下さいね、もう少しでできますから」
「おう、待ってる」
 さっきまで、鈍ったとはいえかつて格闘技をやっていた浩之がへばったトレーニング
メニューをこなしていたというのに大して疲れていないらしい。
 一見すると普通の女の子に見える。
 ええい、情けねえ。
 やっぱり鍛え直しだ!
 浩之は決意した。
 とりあえずその場に寝転がって鍋から立ち上る臭いを嗅いでいた。
 腹が減った。遠慮なく食わせてもらうとしよう。
 やはり道場での練習の後はチャンコだ。これは格闘技界において半ば常識化している
ことである。いや、マジでね。
「まだ?」
「もうちょっと待ってて下さいね」
「あー、腹減った」
 ぼやきながらゴロゴロっと転がる。
 そこへ、
「綾香っ! 綾香はいるっ!? いや、いないとはいわさないよ!!」
 騒々しい声がやってきた。
「あん?」
 浩之が顔を入り口の方へと向けるのと、
「あ、好恵さん!」
 葵がいうのと、ほとんど同時だった。
 浩之の同級生で現在は大学に通いながら空手を続けている坂下好恵だ。
「どうも好恵さん、お久しぶりです」
「なんだ葵、来てたのか」
「はい、見学に来て、練習に参加させてもらってたんです。藤田先輩もいるんですよ」
「藤田が……」
 好恵が道場をぐるりと見回す。
「よう」
 鍋の横で横たわっている物体がかつての同級生であるらしいことが好恵にはわかった
が、
「ああ」
 と、軽く手を上げただけで目当ての人物の姿を探し始める。
「綾香はどこだ! 綾香は!」
 好恵は床を踏み鳴らしながらどんどん道場の奥へと入ってくる。
「どうしたんだよ、そんなに怒って」
 浩之がゴロゴロと好恵の足下まで移動する。
「これ見てみろ」
 そういって好恵が浩之の目の前に一冊の雑誌を落とした。
「んー、なんだ。『格闘スピリッツ』の特別増刊号じゃねえか」
 ようやく上半身を起こした浩之が胡座をかいた足の上にその雑誌を置く。これの本誌
ならば浩之も時々見ている。
「あ、綾香さんだ。女子格闘技の特集みたいですね」
 ひょこっと葵が浩之の右肩の上に顔を覗かせる。
 葵のいう通り、表紙をエクストリームのチャンピオン来栖川綾香が飾っていて、大き
く「今、女子格闘界が熱い!」という太い字が斜めに走っている。
「これがなんだってんだ……おっ」
 前からページをめくっていくと見覚えのある人間が現れた。他でもない、目の前にあ
る顔である。
「なんだ。坂下、すげえじゃねえかよ」
 それは、坂下好恵が先月に開催された日本全国に存在する20を越える流派が加入す
る空手道連盟主催のトーナメントにおいて女子中量級を制したことが報じられていた。
「これ、日本一っていっていいんじゃねえのか?」
「そんな簡単なものじゃない。未参加の流派の方が多いんだ」
「へええ」
 呟きながら次のページをめくると好恵がインタビューに受けた様子が掲載されていた。

 ── まずは中量級優勝おめでとうございます。
 坂下 ありがとうございます。
 ── ところで、今回は特別増刊号で最近の女子格闘界全般を取り上げているんです。
 坂下 ……。
 ── 今のところ坂下さんは空手の試合以外に出ていないんですが、エクストリーム
        などの総合格闘技に興味は無いのですか?
 坂下 ありません。
 ── エクストリームには昔空手をやっていた来栖川綾香選手がいますが、彼女に対
    しての興味……ぶっちゃけた話が闘ってみたいとか、そういうことは?
 坂下 頑張って欲しいとは思っていますがそういう興味はありません。
 ── かつて同じ道場で空手を学んでいたそうですが。
 坂下 そうです。
 ── やはりその頃から来栖川綾香はずば抜けた選手だったんですか?
 坂下 そうです。
 ── 坂下さんとの対戦成績は?
 坂下 道場でのスパーリングならともかく、公式試合では一度も勝ったことはありま
    せん。
 ── それでは、少し話の趣を変えまして……空手以外に何か趣味はありますか?
 坂下 空手以外には特に無いです。
 ── 一日にどのぐらい練習しているんでしょう?
 坂下 朝、ランニングをして、夕方、道場で筋肉トレーニングと基本稽古、スパーリ
    ングを行います。朝が30分、夕方が三時間前後です。
    日曜日は朝のランニングに筋トレを加えて二時間やります。
 ── 今大会、はじめから優勝を狙っていたんですか?
 坂下 もちろん、優勝を狙うのは当たり前です。
 ── 昨年、ベスト4で終わってしまったんですが、やはりその悔しさをバネにした
    んでしょうね。
 坂下 はい。
 ── では、砕けた質問を……好物はなんですか?
 坂下 魚と……最近は玄米です。
 ── では、嫌いな食べ物はありますか?
 坂下 特にありません。
 ── 毎週欠かさずに見ているテレビ番組などはありますか?
 坂下 特にありません。
 ── 定期購読をしている雑誌などはありますか?
 坂下 月刊『世界空手道通信』は毎号購入しています。
 ── あれ? うちの本誌の『格闘スピリッツ』はどうですか?(笑)
 坂下 見たこともありません。
 ── ……そうですか。それでは、練習の合間の息抜きには何をしているんですか?
 坂下 空気のいいところで体を休めます。
 ── 誰か尊敬している人はいますか?
 坂下 両親です。
 ── 今後の目標は決めているんでしょうか?
 坂下 来年のトーナメントで優勝することです。
 ── V2を目指すということですね。
 坂下 はい。
 ── では、将来的なもっと長期的に見た場合の人生の目標などはありますか?
 坂下 現役を退いた後は後進の育成にあたりたいと思っています。
 ── はい、それでは本日はありがとうございました。
 坂下 はい。

「……」
「綾香は着替えてるのか……しょうがない、少し待ってやるか」
「坂下ぁ……」
「なんだよ」
「お前……なんだよこのインタビューは……素っ気無えっていうか……」
「思っていることを答えただけだ」
「オメーは木戸修か!」
「ふん、別に私はプロになるつもりは無いんだ。そんなところでアピールする必要は無
い」
「全くなあ……で、なんでこれで綾香んとこに怒鳴り込んでくるんだよ」
「そこじゃない」
 叫ぶや否や、好恵は手を伸ばして浩之の足の上にある『格闘スピリッツ』のページを
めくっていく。
「お、綾香だ」
 やがて、見開きのページに大きく綾香の顔が現れた。
「なになに……今、女子格闘界の台風の目といえばこの人。先月開いた道場にて汗を流
したばかりのエクストリームの女王へのインタビューに成功……おお、ここのことだな」
 次のページには綾香が何人かの少女たちとファイティングポーズをとっている写真が
掲載されていた。よく見ると少女たちはここの道場生だ。
「これがどうした?」
「ここ読め、ここ!」
 と、好恵がまたページをめくって左の方を指差した。
「ふむふむ」

 ── 先日、坂下好恵選手が空手道連盟主催のトーナメントで中量級優勝に輝いたん
    ですが、御存知ですか。
来栖川 もちろん知ってます。
 ── 坂下選手とはかつて同じ道場で空手を学んでいたことがありますよね。
来栖川 はい。道は分かれてしまいましたが古い友人ですから、色々と気にはなります
    ね。
 ── それは……友人として頑張って欲しいということだと思うんですが……。
来栖川 はい。
 ── それとは別に格闘家としての興味はありますか?
来栖川 もちろんあります。是非、自分の身体状態が充実している時に試合をしたいで
    すね。
 ── その身体状態が充実している時というのはいつ頃やってくるんでしょう?
来栖川 今です。
 ── ほう(笑) それでは近い内に……。
来栖川 やります。
 ── ですが、坂下選手はエクストリームに興味が無いと発言していますが。
来栖川 だったら自分が出向いてもいいですよ。
 ── ついでに、格闘家としてのあなたにも興味は無いといっているんですが。
来栖川 それは嘘です。無いわけないじゃないですか(笑)     
  ── いいきりましたね(笑) では、来栖川×坂下戦には期待していいんですね。
来栖川 もちろんです。どうしてもっていうなら道着着てグローブはめてやります(笑)
 ── それはとても楽しみですね(笑)

「……」
「……あ、綾香さんと好恵さんが! ……す、すごいです!」
 そういった葵に、
「すごくない!」
 と、好恵が怒鳴る。
「勝手にこんなこといわれちゃ困るんだ。連盟の人から問い合わせがあったんだからな」
「問い合わせって?」
「綾香とそういうこと話したのか、って聞かれたんだよ」
「つまり、お前と打ち合わせた上でそういうこといったと思われたのか」
「そうだよ、もちろん、あいつが勝手にいったことだっていって、向こうも納得してく
れたけど……」
 好恵は相当に腹を立てているのか、雑誌を丸めてギリギリと搾った。
「とにかく、一言文句いってやらないと気が済まないね」
 と、いった好恵の前にタオルで顔を拭いながら綾香が現れた。
「あら、久しぶり」
「ようやく来たね」
 それから三十分、好恵はあらん限りの言葉を使って綾香を詰問したが、綾香はどこ吹
く風といった風情で受け流す。しまいには、
「本気よ、グローブつけてやってもいいし、素手で顔面無しのフルコンルールでもいい
わ」
 と、執拗に対戦要求をし始めた。
 そうこうする内にチャンコができたのでみんなで鍋を囲むことになった。腹いせなの
か何杯もおかわりしながら、好恵は綾香と格闘技論を戦わせている。
 その間、浩之は葵と話していた。
「将来、ジムを持たないかって話が来てるんですよ。これからもっと試合をして実績を
作れたらの話ですけど」
「へえ、すごいじゃないか。葵ちゃんなら行けるって」
「でも、綾香さんでさえ苦労しているみたいです……私ができるかどうか」
「いやいや、葵ちゃんはそういう指導者には適しているんじゃないかな。一番弟子のお
れがいうんだから間違いねえよ」
「そんな、一番弟子だなんて」
 恥ずかしそうにうつむいた葵を見ながら浩之は微笑む。
 微笑んでいたら鍋を挟んだところに陣取った綾香と好恵の方が何やら険悪な雰囲気に
なっている。
「それは聞き捨てならないわね」
「でも、そうだろ」
「できたばっかりの道場だからって甘く見られちゃ困るわ。うちには空手柔道の有段者
だっているんだから」
 浩之はそれに聞き耳を立てながら葵に問い掛ける。
「何話してんだ? あいつら」
「……たぶん、お互いの道場自慢というか……」
 と、葵がいったのを見ると、どうやら二人の間ではよく交わされる話題らしい。
「へえ」
 浩之は大体了解した。綾香のこの道場と、好恵が通っている空手道場。それを互いに
自慢し合い、やがて何時の間にやら相手の道場を腐してしまうようなことになってしま
うのだろう。
「こないだうちの道場の後輩なんかね……」
「そんなこといったらうちの道場の子なんてこの前、大会で……」
 二人の語気はますます熱くなってくる。
「ようは意地の張り合いか」
「……えーっと……そうともいえます」
 葵が遠慮がちにいった。
「そうそう、うちにちょっとすごい人がいるんだ」
 好恵がいった。
「へえ、どんな人?」
「一年前の大会で男子重量級で優勝した人なんだけど、いきなり牛と戦うっていい出し
て、ホントにやっちゃったんだよ」
「へ、へえ……」
 と、いって綾香がぐるりと道場を見回す。さすがに、人間以外のものと闘った道場生
はいないらしい。
「まあ、おかしな人でねえ」
 と、いいながら、好恵の声にも表情にも優越感が表れている。
 綾香はぐるりと見回した視線を浩之のところで止めた。
 浩之が「なんだなんだ」といった表情になる。
 今、この道場に通っている少女たち、皆一途に格闘技に打ち込んでいるだけでなく、
自分を尊敬してくれている。
 そんな彼女たちを危険にさらすわけにはいかない。
 でも、このままでは好恵に負けたようで非常に悔しい。馬鹿馬鹿しいといわれようが
どうしても悔しいのだ。
 そんな時……浩之がそこにいた。
 藤田浩之。
 無愛想なくせに、どことなく頼りになりそうな男性だ。
 気付くと、ついつい頼ってしまう。
「何いってんのよ、うちの客分の浩之なんかねえ、今度ワニと闘うのよ、ワニと!」
「ほ、本当か!?」
「そ、そうだったんですか! 先輩!?」
「ごふっ」
 と、浩之は咳き込んだ。チャンコの具が気道に入ってむせる。
「な、なにいってんだ、おめえは!」
「ねえ、そうよねえ、浩之! ねえ!」
「んなわけあるか!」
 と、いいながら浩之は立ち上がった。少し催してきたのを幸い、トイレに行って逃れ
る。
「全く、いきなり何いい出すんだ、あいつは」
 ブツブツと呟きながらトイレから帰ってきた時、
「ええ、はい、お願いします」
 そういって綾香が携帯電話を切ったところだった。
「……どこに電話してたんだ?」
「ワニ園」
「……」
「浩之、そういうわけであんた明日からうちに通いなさい。ワニ殺し用の特訓をしまし
ょう」
「じょ、冗談じゃねえぞ!」
「冗談じゃないわよ、こうね、自分の腕を囮にしてね、ワニが食い付いてきたところを
腕を引いて、上顎と下顎を掴んで開いて、ワニを担ぎ上げて飛び上がって、口裂けキン
肉バスター一発よ、浩之ィ!」

 著者注 口裂け筋肉バスター ゆでたまご著『キン肉マン』13巻参照

「できるか! そんなもん!」
「あんた、将来に不安は無いの!」
「……あるっていったらあるけど」
「あんた、これやってみなさい、世界中のニュースになって金がわんさか手に入るわよ、
トラックでお金集めなきゃならないわよ!」
 来栖川家の御令嬢にしては誘い方が俗っぽい。
「ね、浩之、お願い」
「できねえって」
「藤田……ワニは強いよ」
「先輩……私もワニは強いと思います」
「だからやらねえって!」
 
 一ヶ月後。
  腕噛まれたよ。
 みんなにお前は馬鹿だっていわれた。
 おれもそう思う。
「浩之、前回の反省点は……」
「帰れ」
 おれは、病室のベッドの上に体を横たえながらいった。

                                     終

     あー、どうも、vladです。
     何もいうな。
     おれも何もいわない。


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