鬼狼伝(65)  投稿者:vlad


 立ち上がった耕一を歓声が包んだ。
 無数の声が波のように押し寄せてはぶつかっていく。
 無意識の内に、その中から幾つかの声を拾い上げる。
「よし、立ったっ!」
 我が事のようだな、浩之。
「ほら、耕一はあんなもんじゃくたばらないって」
 ああ、こんなもんじゃくたばらないよ、梓。
「ああ、よかったぁ、全然動かないんだもん」
 心配かけたね、初音ちゃん。
「……よかった」
 こっちも心配かけちゃったね、楓ちゃん。
「あんなもん効いちゃおらんだろうが、さっさと立たんか!」
 先生の声は耳を澄ますまでもなくよく聞こえるなあ。こりゃ、あのまんま寝てたら後
で大目玉だったな、先生、手抜きとか大嫌いだからな。
「立ったか」
 立ったよ……英二さん。

 そろそろ本気か……。
 英二は耕一の周囲を円を描くようにフットワークを踏みながら観察者の眼光を注いで
いた。
 先程のグラウンドでのパンチは故意ではあるが、全部が全部、自らの意志であったわ
けではない。
 あのままでは足関節を取られてしまいそうだったので仕方なく殴った。
 注意一回では負けにならないことを見越した上でのパンチだった。
 だが……それで少し耕一の雰囲気が変わったように思える。
 遂に出たか。
 この試合の前から……いや、もっと前、自分がある日曜日の午後にこの男と藤田浩之
の対決を見て持っていた思い。
 この男、まだ何か隠しているのではないか……。
 その思い。
 全力を振り絞っているいるように見えて、まだ奥底に何かが隠れているのではないか。
 そう思わせる何かがこの男にはある。
 思えば、自分はそれを引き出したかったのかもしれない。
 さて……それを引き出せたのかどうか。
 耕一が接近してくるのに合わせてジャブを繰り出していく。
 幾つかが空を叩き、幾つかが耕一の腕を、そして僅かだが幾つかが耕一の顔に達する。
たかが知れたダメージだが、蓄積はされていく。
 しかし、耕一がそのような悠長な闘いに付き合うつもりが無いことは明白だ。先程か
ら、数多く繰り出される英二の軽い攻撃をほとんど相手にしていない。
 大きな一発を狙っている。ダメージの蓄積とかそんなものはふっ飛ぶ一発だ。それを
貰えばもう立ち上がることのできない一発だ。
 だが、そこに付け込む隙が生じる可能性がある。
 耕一に守勢気味の闘いを展開されては手も足も出ないところだ。
 すっ、と左手のガードを下げて誘ってみる。
 下がりきらぬ内に、耕一の右膝が上がっていた。
「!……」
 すぐさま咄嗟に上げた左腕に耕一の素早い右ハイキックが炸裂する。
 威力よりも速さを重視したそれだが、頭部に喰えば失神確実のものだ。
 誘うために下げたのではなかったらガードの戻しが間に合わずに、右ハイを側頭部に
貰っていただろう。
 右ハイが戻ったと見るや、英二は踏み込んで左ストレートを放った。
 耕一は、右ハイを打つために引いていた上半身を左に振ると同時に前に出した。英二
の左ストレートが右耳をかすっていく。
 耕一の右耳から、細い朱線が宙に引かれる。オープンフィンガーグローブで切ってし
まったのだ。
 英二は感じた驚愕をあますところなく表情に出しながら上半身を引いていた。右ハイ
を放って上半身を引いた状態にある耕一に左ストレートで追い打ちをかけて倒してしま
おうとしていたのに、一瞬で立場を逆転された。
 左ストレートを掻い潜った耕一が組みついてくるのを嫌って身を引いた英二をなおも
追撃してくる耕一に向かって右のショートフックを振った。
 合わせた!
 振った瞬間、英二は確信した。
 突っ込んでくる耕一の顎の先端を横から殴打できる。もし、耕一が咄嗟に身を引いて
それを回避し得たとしても組みつかれるのを嫌った英二の目的は達されるわけで、十分
に牽制の役目を果たしたことになる。
 耕一が身を引く素振りはない。
 行ける。
 顎を横から殴られれば、どんな人間でも脳を揺らされざるを得ない。一瞬でも、脳震
盪を起こす可能性が高い。
 そして、例え一瞬でも、瞬間瞬間の攻防の結果如何によってすぐさま展開が変わって
いく格闘においては、それが敗北の呼び水になることは珍しくはない。
 当たる寸前――。
 耕一の顎が思い切り跳ね上がった。
 空を切った。
 英二の右拳が耕一の顎の下、喉の前を通過する。
 当たらぬと見るや、即座に右手を戻した英二の視線の先に、耕一の目があった。体勢
を低くして接近してきていた耕一が顎を上げたのだから、英二を見上げる形になってい
る。
 落ち着いた目をしている。
 さっきまでは、少なからず動揺があったのだが、今はほとんど無い。
 霧がかかっていたのに、それが晴れた。
 その向こうにあるもの、英二が見たかったもの、知りたかったもの。
 それが見える。
 英二が想像していたものとはやや違うそれは、耕一の両目に静かに揺れていた。
 闘争本能しか持たぬ獣は、そこにはいなかった。
 その本能を持て余し、その本能に突き動かされ、狂おしいほどに、ある線のあっちと
こっちを行ったり来たりしているような姿は、そこにはなかった。
 静かであった。
 今、死力を尽くして闘っている英二のことすら憎んでいないのではないか。
 ふっ、と弛みそうになる。
 この男になんとしても勝とうという意志が弱くなりそうになる。
 だが直前、ギリギリのところで引き締まる。
 耕一の目を奥底に、あるものを見たからだ。
 それが、英二を刺激する。危険信号が凄まじい速さで唸る。
 それは色として、英二に認識された。
 赤い。
 仄かに赤く灯る光が耕一の目の奥に輝いている。
 それは錯覚だったのかもしれない。
 だが、錯覚なのかどうかなどということを考える前にその感覚は英二の背中を押して
いた。
 かわされた右のショートフックを戻すと同時に左を振る。
 上がった顎を横から殴る。
 その左ショートフックが叩いたものもまた、手応えの無い虚空であった。
 耕一の頭部が沈んでいる。
 だが、それをかわされるのは予想の範疇にあった。左を引きざま、再び右。
 沈んだ耕一の顔面を下方から、アッパーとフックの中間、斜めに走るショートパンチ
で一撃。
 ごつん、とした感触が拳から手首へ、そして腕全体に伝わる。
 固い感触だ。
 英二の右拳が打ったのは耕一の額であった。
 横から頬から顎にかけての部分を殴ろうとした英二のショートパンチが当たる寸前に
顔を左に向けて顎を引き、額でそれを受けたのだ。
 額は顔面では最も固い部分だ。さらにはオープンフィンガーグローブをはめているた
めに、痛いには痛いだろうが、後に残るようなダメージは無いはずだ。
 いや、素手だったならば英二の拳もタダでは済まなかっただろう。
 腰を低くして顔を左下に向けた耕一の体勢から英二はボディーを狙った右ストレート
が来ることを察知した。
 打ち出されたパンチのスピードは予想通り。
 ガードが間に合わないのも予想通り。
 水月に思い切り貰って体を「くの字」に曲げてマットを舐めることまで予想通りであ
った。
 どこか遠くの方からダウンカウントが聞こえる。
 激痛から己れを救い上げた時には、既にレフリーはカウントをシックスまで刻んでい
た。
 気を失いそうな苦しさが腹部を襲っている。
 英二が頭を振りながら上半身を起こした時に観客席がどよめいたのは、ほとんどの人
間が英二の負けを想像していたのだろう。
 まだだ。
 まだまだ。
 まだやれる。
 かつて、英二が最後にやったボクシングの試合の相手はもっとタフだった。
 英二の闘う心を殺した奴はこれしきのダメージでは倒れなかった。
 今の自分よりももっとボロボロになってようやく倒れたのだ。しかも、倒れながらい
ったのだ。
「……まだやれます」
 と。
 おれだってまだやれる。
 闘う心を持った自分ならまだやれるはずだ。
「さあ、来い」
 立った時、目が合った耕一に向かって、英二は呟いていた。
 試合再開。
 英二は上半身を僅かに前屈させた姿勢で近付いていった。打撃を主体とするファイト
スタイルの英二にとってはあまりいい構えではないのだが、先程痛打されたボディーを
庇う必要があった。もう一度攻撃を貰ったら立っていられないかもしれない。
 耕一はそれを熟知しているのか、いきなり右の前蹴りで腹部を狙ってきた。
 それをサイドステップでかわした英二が打ち込んだ右のフックを耕一はかわそうとも
しなかった。
 左のジャブで迎撃してきた。
 打ち抜かれるのを回避するために踏み込みを止めたことにより英二のフックの威力も
著しく軽減されてしまった。
 グローブで頬を軽く叩く乾いた音が上がる。
 前蹴りに使用した右足を一瞬マットで休ませただけで、耕一はすぐに右のミドルキッ
クを放ってきた。
 それをガードして弾きつつ英二が肉薄して左右のフックのワンツーを狙う。
「つあっ!」
 だが、英二はそれをなすことなく後退した。右手で腹部を押さえている。接近した時
に耕一が左手で打った裏拳を腹に貰ってしまったのだ。
 軽い攻撃だったのだが、先程右ストレートが入った箇所とほぼ同じところに決まった
ために効いた。
 少し距離を取った英二の視界で耕一が巨大化した。耕一が一気に距離を詰めてきたの
である。しかも右膝を蹴り上げながらだ。
「!!……」
 耕一の目の奥に赤光を英二は認めた。
 今度は、錯覚なんかじゃない。
 上半身を軽く前に倒していた英二の顔面を蹴打するその一撃を咄嗟にガードした右腕
が押し切られて鼻を叩く。
 後方に泳いだ英二の頭を耕一の右ハイキックが刈り取るように蹴撃していた。
 右の側頭部を打たれた、だけでなく、左のそれをマットに激しく叩きつけてしまった。
 かすれた声と、か細い吐気が口から漏れる。
「ダウン! ……ワーン! ツー! スリー!」
 レフリーが宣告するその声がいやに遠くに感じられる。
 それは上の方から聞こえてくる。自分のすぐ側に立ってカウントしているはずなのに
天上から投げ掛けられるもののように、それは遠い。
 頭にきついのを貰えば一瞬記憶が飛ぶ。それから立ち直った時に、はじめて見るのは
天井に輝いている照明の光だ。
 その光を見ながら、自分の体の状態を確認する。
 ボクシングをやっている時から、英二はそうだった。
 そこで、体の状態が試合続行可能か否かがわかる。
 ずっと、英二はそうだった。
 その時のそれはOKだった。行ける。確かに、凄まじい一撃を貰ってしまったが、ま
だ行ける。
 この程度でなら、あの男は立ち上がってきた。
 自分の闘う心を殺した奴は立ち上がってきた。
 そしていったのだ。まだやれると。
 だから、自分も立ち上がる。
 自分の中で闘う心が生きているから立ち上がる。
 そして、レフリーにいってやれ。
「まだやれる」
 と。
 いってやれ。
 立ち上がって、いってやれ。
 英二は顔を起こす。
「セブン!」
 レフリーが右手を振り下ろして叫んでいる。なんとか間に合ったようだ。今すぐに立
ち上がれば大丈夫だ。
 さあ、立ち上がれ。
 耕一が自分を見ていた。

                                     続く               

     どうも、vladです。
     六十五回目となりました。
     今年もよろしくお願いいたします。先週書くの忘れたよ。
     あー、たりぃ。
     でも、続きは書いてます。