鬼狼伝(64)  投稿者:vlad


 第2ラウンドの立ち上がりは静かであった。
 英二が軽いジャブを送り込む度に、英二のオープンフィンガーグローブがそれを防御
した耕一の腕に当たって、パン、と乾いた音が鳴った。
 マットに足の裏がこすれて、キュッ、と音が鳴る。
 キュッと鳴り、パンと鳴る。
 二種類の音だけがそれを見る人々の耳朶に触れた。
 それに、段々と声が混じり始める。
 はじめは小さく、だが、音の間隔が狭まるにつれて、その声も大きく盛んに――。
「行け」
「どうした」
「行け、緒方」
「どうした、柏木」
 英二のパンチが次々にヒットするようになってきたのである。
 どうしたことか?
 弱い。
 脆い。
 こんなものじゃないはずだ。
 だが、英二のパンチが面白いように当たる。
 頬に当たる。
 額に当たる。
 鼻に当たる。
 こんなに当たっていいのか、というぐらいに当たり出した。
 しかし、油断はできない。まだ耕一の目は死んでいない。
 一気に畳み掛けていくのは耕一の目が死んでいるのを確認してからだ。それが無い限
りは駄目だ。
 右のストレートを一発。
 無意識の内に気が逸り、重心が前に出ていたかもしれない。
 だが、僅かなものだ。
 英二自身が気付かないような微々たるものだ。
 耕一がそこを衝いてきた時にはじめて我ながら気付いた。
 そして、驚愕した。
 耕一の顔が、英二の右ストレートの内側を通って突進してくる。右の親指の辺りが頭
髪に触れた。
 そのまま真っすぐに進めば胸部、若しくは腹部に衝突する。
 だが、触れるかと見えた寸前、刹那の時を捕らえて耕一は頭を左に振った。
 どんっ、と激突した。
 耕一の頭が英二の右脇に接触し、右肩が腹部に激突する。
 英二の両膝が僅かに曲がる。
 このように密着して押して来られた場合は足を引いて腰を落とし上から覆い被さって
潰してしまうのが常道だが、右ストレートを打った直後だったために踏み込んだ足を引
くことができなかった。
 辛うじて、右足だけを引いて踏ん張った。
 押してくる。
 こらえる……が、耕一がマットを蹴った。
 蹴った右足が軽く浮き――。
 蹴った左足が大きく浮いた。
 空に大きく弧を描いて、耕一の左足が英二の首に前から喰らい付いた。
 耕一の両手が瞬時の内に英二の腰から離れて英二の右腕を掴んでいる。
 そして、左足で首を刈りながら――両手で右腕を掴みながら英二の上半身を下方に引
き落としていた。
 飛び付き十字固め。
「くっっっ!」
 英二の体が落ちていく。
 両足が前後に大きく開いていたのに付け込まれた。この下半身の状態で上半身に喰い
付かれて横から引き落とされたら崩れざるを得ない。
 英二の体はうつ伏せに倒れていく。
 腕を掴まれ、首に足をかけられている。倒れながら、右足が右肩に触れて左足と組み
合わされている。
 このまま倒れていけば、倒れた時には裏十字固めが極められる。
 英二は左半身を右半身とマットの間に丸め込むようにしてうつ伏せになるのを防ぐと
ともに左手を伸ばして右手をクラッチ(結手)しようとする。
 耕一の体が回転した。
 英二の右腕を引きながら仰向けに。
 裏から表へ。

 そう来るだろうな。

 英二は思わずほくそ笑んでいた。
 腕拉ぎ逆十字固め。
 だが、その時には英二の左手は右手との邂逅を果たしていた。
 膝を曲げた右足を上半身の方に引き付けてそこを支点にして上半身を起こそうとする
が、すぐに耕一の両足によって押さえ付けられる。
 だが、しつこく、英二は上半身を起こそうとする。
「がっ!」
 声……というより空気の塊が英二の口から漏れた。
 ある程度浮いたところで一気に押さえ付けられてマットで背中を強打したのだ。
 内蔵が鷲掴みにされるような圧迫感を伴う衝撃が体内を走る。
 クラッチを切ろうと耕一が重心を後方に引いていく。それに負けてクラッチが切られ
てしまえば耐えられるのは一瞬だ。腕一本でそうそう保つものではない、すぐに腕を伸
ばされてタップする羽目になる。
 クラッチを維持すれば腕拉ぎは阻止できる。
 だが、純粋な力比べになっては耕一に分がある。
 狙い目は、耕一の引く力が弱まる一瞬だ。
 耕一の引く力が弱まる一瞬は必ずやってくる。今の引っ張り合いの状態で辛うじて両
者の力が均衡している以上、必ず強く引くためにもう一度体重をかけてくるはずだ。
 そして、その一瞬前に一瞬だけ、勢いをつけるために体重を前方にかける瞬間が来る。
 そこを衝く。
 無心になって耕一の体のリズムを読む。
 気配を読む。
 そろそろ……来るか。
 それを読み違えたら大事だ。逆効果になってしまう。
 ちらり、と横目で耕一の目を見る。
 あらゆる情報を求めて英二の五感が総動員されていた。
 そして、それらの情報が”それ”が近いことを告げていた。
 来るか。
 一瞬だ。
 捕らえる獲物は針の穴ほどの僅かな時だ。
 ふっ、と耕一の力が弛んだ。
 これか。
 今か。
 今がその時か。
 迷っている暇は無かった。
 決断より前に体が動いていた。
 クラッチした両手を思い切り左に動かす。
「おっ!」
 耕一の目と口が丸く開いていた。
 的中。
 英二の体が横を向いた。耕一に背中を向ける形になった。
 外した。
 耕一の両足による肩への拘束も解けた。
 否、耕一が自ら解いたのだと理解した時には英二は激しく体を動かしていた。腕拉ぎ
にさっさと見切りをつけた耕一が大きく体の位置を移動させて新たな攻勢を仕掛けて来
ようとしているのを看破したのだ。
 一転。
 百八十度体を回転させて横四方固め――サイドポジション――を狙ってくる耕一に対
して英二は背中を向けてうつ伏せになった。
 膝を曲げて腰とマットの間に畳み込んでいわゆるカメの体勢になっている。
 耕一は今度は九十度転じた。頭の位置は英二のそれと同じ、両足を左右から英二の脇
腹に差し込む。バックマウントポジションの体勢だ。
 耕一が見たところ、英二の顎が上がっている。その首に腕を差し入れてスリーパーホ
ールドを極めに行ける。その際に脇腹に接触している両足で胴体部を絞めてしまえばも
う逃げられない。
 耕一の腕が首に触れる寸前、英二が顎を引いた。
 誘ったのか!?
 生じた疑惑はすぐに確信に変わった。
 英二は右膝を立ててその近辺に空間を作った。すぐに両手が耕一の右足を掴んで外側
に向けて動かす。
 英二の両手が首から無くなってスリーパーを極めやすくなったチャンスと――。
 英二の両手に右足が捕われた危機と――。
 どちらを優先すべきか。
 攻めるか。
 守るか。
 耕一に僅かな間だが、躊躇いの期間が存在した。
 その間隙を縫うように、英二は上半身を大きく左回転させながら外側に振った。
「しまった!」
 思わず耕一が漏らしていた。一応、スリーパーは極められていなかったもののフェイ
スロックの体勢にはなっていたのだ。それを外された。頭が逃げられてしまったのだ。
 チャンスが消えて危機が残った。
 そうなると耕一の頭の切り替えは早い。
 英二が両手で耕一の右足を捕らえて、自らの右足を耕一の右足の付け根の辺りに巻き
付かせる。
 そして、その右足を旋回軸にして回った。
 左足が既に添えられた右足とともに耕一の右足付け根部分を挟み込む体勢になった。
 膝十字固め。
 素早く身を起こした耕一が転がり、巧みに極らないように膝の位置を変えていく。
 英二がなんとしても極めようとするが――。
 身を起こした耕一に上から覆い被られてしまった。右足は両手で捕まえたままだが、
今の位置では極められない。それどころか上に乗られてしまったのでその足によって腹
部が圧迫される。
 耕一が移動してサイドポジションへと移行していく。
 そこからアームロックへ――。

 耕一は、充実した一時の中に我が身があることを実感していた。
 やはり、思った通りだ。
 スタンドでの闘いよりもグラウンドでのそれの方が落ち着いて行なうことができる。
 今まで英二が反則スレスレの危険な攻撃を繰り出してきたのはスタンドにおいてだ。
グラウンドでは無い。
 それというのも、グラウンドでは耕一の方がスタンドにおけるよりも英二より優って
いるからだ。常に耕一が主導権を握っていける。
 そして、エクストリーム・ルールにおいてはグラウンドでの一切の打撃が禁じられて
いる。
 打撃が無いというのがいい。
 打撃というのは、一発一発のダメージが蓄積していくし、何よりも「刺激」が強い。
 自分の中の「モノ」が目覚めるのを極度に恐れている今の耕一にとってはこっちの方
がいい。
 どうも、この緒方英二というのは色々な意味で危険な人間だ。速やかに勝負を決めて
しまおう。
 このアームロックを極めてしまえばいい。
 英二がポジションを変えてそれを防ごうとするが耕一がその一手先を読んで英二の意
図を潰していく。
 取らせまいと英二が手を激しく振る。
 ならば、足を取って膝十字に……。
 行こうとした耕一の頬が鳴っていた。
 ばちん、と来た。
 英二が上半身を起こして右拳で殴ってきたのだ。
 効いた。
 それあることを期していたならばともかく、耕一はグラウンドで打撃が来るなど夢に
も思っていなかった。
 どんなに鍛えた人間でも、力と気が抜けている状態で攻撃を貰えばそれが素人でも、
相当のダメージを負うというが、それを実感した。
 わざとか?
 英二の目を見る。
 わざとやったのか?
 英二の目のさらに奥を見ようとする。
 何かがそれを阻んだ。
 白いYシャツ……なんだ? 邪魔をするなよ。
「注意!」
 それがそんなことを叫んだ。自分にじゃなくて英二の方にだ。
 なんだレフリーか。
「大丈夫か? 立てるか」
 いつまでも起き上がらない耕一を見て、最前の英二のパンチが余程効いたと思ったの
か、レフリーが身を屈めて耕一のそれと同じ高さに自分の視点を持ってきて尋ねた。
「だいじょ……」
 大丈夫です。立てます。
 そう答えて立ち上がろうとして、耕一は途中で言葉を止めた。
 そう答えて立ち上がろうとして、耕一は途中で立ち上がるのを止めた。
 本当は立ち上がりたかった。
 立ち上がって闘いたかった。
 正直、今のパンチにはだいぶ腹が立っていたのだ。
 そっちがその気ならこっちだって……。
 芽生えたその想いを耕一は恐れた。
 いけない。
 やっぱり、自分はそこから先に行ってはいけないのだ。
 このまま、試合を放棄しようか。
 このまま、倒れていればいい。そうすればレフリーが試合続行不可能と見做して試合
を止めるだろう。
 ルールについてはある程度は頭に入れてあるが、今までの判定例まで覚えているわけ
ではないから、負けが確定しないだけの反則攻撃によってそれを受けた方が戦闘不能に
なってしまった場合にどういう裁定が下されるかはよくわからない。
 だが、負けるにしろ勝つにしろ、この試合が終わるのだけは確かだ。
 これで負けたら……。
 梓の奴が悔しがるかもしれないけど……。
 師匠が、あの程度でへばるなって怒るかもしれないけど……。
 しょうがない。
 元々、勝つために始めたものじゃないからな。
 他の人間と闘って勝つのが第一の目的ではなかったからな。相手によっては闘うこと
自体が楽しかったが……。
 例えば、浩之とやった時なんてよかったな。
 ……ああ、浩之。
 この次に試合するんだ。
 えっと、浩之か……。
 おれがここで負けたら浩之が残念がるだろうなあ。
 あいつ、口に出してはそんなこといわないけど、きっとおれと雪辱戦がやりたいんだ
ろうなあ。
 あいつ、けっこう単純みたいだからな。
 何考えてんだかわかんないようなとこもあるけど、根は単純なんだよ、あいつは。
 強い奴と闘って勝ちたい。
 たぶん、あいつが闘う理由なんて、突き詰めていけばコレだろ。
 いいねえ。
 おれもそんぐらい単純明快に人をぶん殴れればいいんだけどな。
 そうも行かないのさ。
 色々あってな。
「おい、立てないのか? おい!」
 レフリーが目の前で手を振ってる。
 このまんま倒れてりゃいいだろ。すぐに担架で運ばれる。
 あ……おれが担架で運ばれるのなんか見たら梓たちが心配するかもしれないな。
 初音ちゃんなんか泣いちゃうかもな。
 ……まずいぞ、それはまずいぞ。
 おれは絶対あの子は泣かしたりしないことに決めてんだ。
 このまんまぴくりとしないのもなんだな、ちょっと顔でも上げて生きてることをアピ
ールしておくか。
 ひょいっ、と顔を上げた。
 浩之がいた。
 ……くそ……。
 ……畜生……。
 ……見るんじゃなかった。
 もう、この試合は捨てることにしてたのに、見ちゃったよ。
 浩之――。
 なんて顔してんだよ、お前はぁ!
 マットに上半身乗り出して、マットをバンバン叩いて。
 ほら、お前の友達の佐藤くんが止めてるぞ、お前、上半身ばかりじゃなくて腰から下
の方まで乗り上げようってのか? ほらほら、係員まで止めに来たぞ。
 ああ……もう……。
 おれにどうしろってんだよ……。
「立てぇ、耕一さん! 立てっていってんだよ! コラ!」
 一応、敬語を使えよ。
 わかってるよ、おれがどうすればいいのかなんて……。
「おい、担架だ。やばいかもしれない」
 レフリーのおっさんがそういっておれに背を向けた瞬間。
 ぱーん。
 と、おれの両手がマットを叩いた。
 そして……。
「やばくないです」
 おれは立っていた。

                                     続く

     どうも、vladです。
     年末年始ということで二週間ほど休みを取ることにしてましたが、
     その間に書けたのは二話分ということで結局いつもとペースは変わ
     らねえでやんの。
     まあ、一昨年の一二月から書き始めたコレも結局三年がかりになっ
     てしまいましたが、本年中に完結させますんで、もうちょいお付き
     合い願います。

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