鬼狼伝(63)  投稿者:vlad


 ゴングの音と同時に、初音は肩を下ろしていた。
「よかったぁ……」
 互角か優勢に試合を進めていた耕一がラウンド終盤になって押され出してから心配そ
うに試合を見守っていた初音はうっすらと汗をかいていた。
「な、大丈夫だったろ」
 やや興奮気味に梓がいう。彼女は、初音が「お兄ちゃん、大丈夫かな?」といったの
に「絶対大丈夫」と頻りに答えていた。
「でも、最後の方は危なかったなあ」
「……梓姉さん」
「ん、なんだよ? 楓」
 梓は自分と初音に挟まれて試合中ずっと黙って座っていた楓を見た。
「あの……相手の人……」
「ああ、緒方英二がどうかしたのか?」
 思っていたよりもずっとやるなあ、というのが梓が英二に対して抱いている感想であ
った。そもそも、梓は……というより、極々一部の人間以外は緒方英二のエクストリー
ム参加をあまりまともには受け止めていなかったのので彼女と同じ感想を持っている人
間はこの会場に大勢いるはずだ。
「思ってたよりやるけど……耕一の方が強いよ、うん」
「うんうん、そうだよね」
 二人で頷いている梓と初音を横にして楓は黙っている。
 それが何もいう必要を認めないゆえの沈黙ではなく、いいたいことをいうかどうか躊
躇っているゆえのそれであることを梓は看破した。伊達に十年以上も姉をやっていない。
「どうしたんだよ?」
「……あの人に棄権するように……」
「え!?」
「いえないよね……そんなこと」
「そりゃあ、もう試合は始まってるし第一失礼だろ」
「うん、私もそう思う」
 そういって、また楓は沈黙へと浸った。梓も初音も釈然としない思いを持ったが、楓
は心配そうな顔をしながら、試合場で休息している耕一を見たきり、何もいわなくなっ
た。

 耕一さん……行かないで下さい。

「ん……」
 試合場の隅に座り込んで軽い柔軟体操をして体をほぐしていた耕一は、どこかから囁
くような、か細い声を聞いた気がして顔を上げた。
 なんだ……今の声。
 幻聴だろう……とは思うのだが、妙に聞き覚えのある声だったような気がする。
 千鶴さんか?
 梓か?
 楓ちゃんか?
 初音ちゃんか?
 四人の内の誰かのように思える。

 耕一さん……行かないで下さいね。と、千鶴さんがいったような気がする。
 耕一……行くなよ。と、梓がいったような気がする。
 耕一さん……行かないで下さい。と、楓ちゃんがいったような気がする。
 お兄ちゃん……行かないで。と、初音ちゃんがいったような気がする。

 そんな気がしただけだ。
 だが、どこに行くなというのだろうか。
 自問しつつ、耕一にはそれがなんとなくわかっていた。
 たぶん、あそこだ。
 あそこといっても、明確な「場所」ではない。
 ある線の向こう側だ。
 そっちに行ったら帰ってこれない。
 そういう線だ。
 危うく、自分は踏み越えそうになっていたのかもしれない。
 ルールの無い、相手に敬意を全く持たない、そういう闘い。
 歯止めの無い闘い。
 獣と獣の闘争に近いような闘い。
 そういう闘いをやろうとしていた。
 そういう闘いをしても自分が「線」を越えないという保証は無い。越えても帰って来
られるという保証も無い。
 それなのに無意識の内に踏み込もうとしていたのではないか。
 それをみんなが引き止めてくれた。
 耕一はそう思った。
 そして、そう思おうとした。
 思うことによってプラスになるならば、思うべきだ。
 立ち上がるのと、レフリーがこちらに向かってくるのとほぼ同時であった。
 そろそろ第2ラウンドが開始されるということを告げるレフリーに軽く頷いて、耕一
は中央線へと歩き出した。

 伍津双英のところへ通い始めてから少し経った頃の夜ことだ。
 稽古から帰ったら梓から留守電が入っていた。なんでも陸上の大会で準優勝して銀メ
ダルを貰ったらしい。
「一応、教えておいて上げるよ。別にわざわざそっちから電話してくれなくてもいいか
らね、本当に」
 などと、あからさまに電話が欲しそうな声が残されていたので、電話したのである。
 その時に、話の流れで梓の口から、
「耕一もグータラしてないで何か運動でもしろよ」
 という言葉が出たので、耕一はそこで伍津流と呼ばれる流派の格闘技を学んでいるこ
とを明かしたのである。
 なんですぐに教えないんだよ、となじる梓に、隠すつもりは無かったと弁解しながら
も、耕一はちょっと早くバレたなあ、と思っていた。まだその時は基礎の基礎のそのま
た基礎といった辺りの段階であり、自信を持てるような状態ではなかった。
 やはり、格闘技を始めたからには従姉妹たちにそれを明かす時には「今じゃかなりや
るんだぜ」とかいいたかったわけである。
 この男は、無意識の内に、四人の従姉妹たちに自分の弱いところを見せるのを避ける
ようになっている。いいかっこをしたい、とかいう次元よりも一段高い部分の意識がそ
れを命じているのだ。
「なんでまたいきなり格闘技なんだよ」
 と、尋ねる梓に耕一は答えた。
「まあ、運動不足だしなあ」
 と。
 だが、実際にはより大きな理由が存在する。
 耕一の中には、耕一とは別の「もの」が棲んでいる。
 今の耕一は、完全にそれを「制御」している……はずである。
 そのことを知る数少ない人間の一人である千鶴もそれを保証してくれている。だが、
耕一はそれを確信できていない。
 もう大丈夫だろう、とは思っている。しかし、100%の自信が持てるかというと首
を縦に振ることができない。
 何かの拍子に「ヤツ」が出てくるのではないか。
 その不安は常にあった。
 その不安を抱いたまま、ごく普通の学生生活を送る内にトラブルに巻き込まれた。発
端はなんてことはない、友人連と飲みに行った先で酒に酔った友人と、これまた酔いに
酔った他の客が喧嘩になりそうになったのだ。
 それを止めたところ、いきなりぶん殴られた。なにしろ相手も酔っていたし、耕一が
友人に加勢して喧嘩を売ってきたと思ったのだろう。
 耕一は決して好戦的な人間ではないが、さすがにいきなり殴られればいい気はしない
しおとなしくもしていない。先方の酔態からして話が通じるとは思えぬこともあってつ
いつい殴り返してしまった。
 軽く、殴った。
 しかし、なまじ軽かったのがまずかったのか反撃を喰らってしまった。
 耕一はまた殴り返した。今度は、本気で腕を振った。
 その時、当然のことながら耕一の中にはその相手に対する敵意が芽生えていた。殺し
てやる、とは思わなかったが、痛い目に合わせてやる、という程度の気持ちは確かにあ
った。
 相手の男の顔目がけて振った拳は、耕一にも酒が入っていたせいで目標を逸れた。そ
れが良かった。素面になってから思えば、あれが顔面に入っていたら大変なことになる
ところであった。
 耕一が「敵意」を込めて振った拳は外れた。
 だが、振り抜いた瞬間に耕一の心底のさらに深奥の部分を駆け抜けたのはなんともい
えぬ……歓喜に近い気持ちであった。
 耕一は、自分を恐れた。
 歓喜を恐れた。
 その歓喜を抱いたのが自分であればよい。
 自分をぶん殴った人間を殴り返そうとしたのである。正直、怒ってもいた。その怒り
を晴らす時に一抹の歓喜を伴うのはまだいい。
 だが、問題はその歓喜を感じたのが、自分ではなく、自分の奥底に眠っているものな
のではないのか、ということであった。
 それからは、それを恐れて荒事は極力避けるようになった。
 不安は絶えずあった。
 不安は耕一に思考を強いた。
 その不安をぬぐい去るための方策を様々に思考した。
 とにかく、カッとしてはまずい、と思った。頭に血を上らせた拍子に「ヤツ」が出て
こないとは限らない。
 まず耕一が至った結論は前述したように、そのような危険性のある場面をとことん避
けることであった。
 はじめの内こそそれでもある程度の安心が得られたのだが、思考を繰り返す内に段々
と不安が襲ってきた。
 避けて避けて、避け通そうとしてもどうしても避けられない時と場所というのが来る
のではないか。
 一度、そう思ってしまったら、もうその不安はどうやっても消えなかった。
 自分一人で生きていくならばいい。
 だが、耕一は一人で生きていくつもりはない。
 四人もいる。
 守りたい人間がだ。
 時には自分が守られ、支えられることもあるだろうが、全員女性だ。やはり耕一とて
男の子であるから基本的に、女は男が守るべきだなどという考えを自然と持っている。
 自分一人を自己防衛するだけならばいい。
 危なくなりそうな場面は逃げてしまえばいいのだ。自信を持てるほどには逃げ足は速
いつもりだ。
 だが、自分以外の何かを守ろうとした時、一人の時よりも確実に身動きは効かなくな
る。
 いつか、荒事に巻き込まれる時が来るかもしれない。
 例えば、四人の従姉妹の内の誰でもいい、何者かに危害を加えられたとして、その何
者かが自分の目の前にいたら、平静でいられる自信は皆無である。
 間違いなく激怒する。断言できる。
 相手が機関銃でも持っていない限り、飛び掛かっていくだろう。これも間違いない。
 その時に、自分を、そして自分の中のものを制御できるかどうか……確固たる自信が
持てない。
 一度持った不安は消えない。
 その不安に追い立てられるように過ごした。
 そんな時に読んだのが格闘技の本だった。それも技術的なものではなくてどちらかと
いうと、精神的な面に目を向けていたので、武道の本だといった方がよいかもしれない。
 その中に、伍津双英のインタビューがあったのだ。双英は五人の弟子に道場を持たせ
て隠居してからは時折、出版社のインタビューを受けたりしていた。彼の弟子の道場の
人間──つまり彼にとっては孫弟子になる──が大会でいい成績を収める度にけっこう
インタビューの申し込みが来るのだ。
 耕一が目にしたのはその中の一つであった。
 そこで双英がいっているのが「馴れ」についてであった。
 実戦……つまり喧嘩では、力や技術と同等、時にはそれ以上に度胸というものが大事
であり、それについては馴れがものをいう、と双英は語っていた。
 どれだけスパーリングで強くても、一度も喧嘩をしたことのない人間がいきなり喧嘩
になると思わぬ不覚を取ることがある。双英がそこで実際に見た例を挙げていた。彼が
用心棒をしていた酒場で起こった喧嘩である。
 一人は双英もよく知っていた男で、一日一度は喧嘩をしていた喧嘩嗜好者といっても
いいような男であった。もう片方は知らない男だったが、いきり立って立ち上がった時
にした構えで、ボクシングの経験者であることを、双英は瞬時にして看破した。
 双英が、やるなら表でやれ、という前に、そのボクサーの右ストレートが走った。
 双英の目から見て、明らかに逆上して、あがっていた。おそらく、喧嘩ははじめてに
違いない。
 それをバックステップでかわされたことに舌打ちを洩らしつつ、男はすぐに距離をつ
めてもう一度右ストレートを打った。
 顔を狙った一撃だったが、そのにやけた笑顔──それが喧嘩の一因ではあった──は
下方に沈んだ。
 凄まじい音がして、男が絶叫した。
 勢い余って、後ろの壁を叩いてしまったのだ。
 本来、ボクサーというのは、そういう時にパンチを停止させる「止め」の技術も持っ
ているものだがその男はあまりにあがり過ぎていた。
 嫌な音だった。なまじ、パンチ力があるために、壁を殴った際に拳に返ってくるダメ
ージも多い。おそらく、拳頭部の骨にヒビぐらいは入っただろう。
 右拳の痛みに呻く暇すらほとんど与えられなかった。股間に蹴りが来て、前のめりに
なったところへ、ガラス製の重い灰皿で後頭部を叩かれた。
 そこで双英が止めに入ったのだが、ようは馴れぬ喧嘩にあがってしまって、リング上
とは勝手が違うということを瞬時に認識して気持ちを切り替えることができなかったの
が、その男の敗因だと双英はいっていた。
 それを読んで耕一の頭にはじめて格闘技という選択肢が現れた。
 それから、様々なことがあり、双英の直弟子になった。
 むき出しの闘気は忌むべし、という双英がいう心得は耕一にとってすんなりと受け入
れられるものであった。
 自分でそういっておきながら双英は驚いていた。大体、今までの例でいうと、格闘技
をする若い人間というのは、どうしてもその辺りは上手くいかない。ついつい、出てし
まうのだ。
 だが、双英は若い内はそれも仕方ないと思っていた。彼からして、若い頃にはそうだ
ったのだ。
 耕一は、段々と荒事を目にしても動じず、自分がその渦中に巻き込まれても高ぶるこ
とが無くなった。すごく落ち着いてきた、と学友にいわれたこともあった。
 道場でのスパーリング以外の闘いをしたのは今まで数えるほどだが、いずれの場合も
心の底の方で気持ちは落ち着いていた。
 最近では、同じ大学の空手部の男と、喧嘩まがいの闘いをやった。
 それから道場破りに来たという佐原という男と一触即発の雰囲気になったことがある。
あの時は闘わずに追っ払った。
 そして、藤田浩之との闘い……だが、これは一応ルールがあったし、双方それを守り、
お互いがお互いに敬意をもって行われた闘いであると耕一は確信している。
 一回戦の中條辰との闘いは、完全にエクストリームルールに則った試合であり、耕一
がこのような不安を抱く余地は無かった。
 だが──。
 緒方英二。
 この男はそれとは「異質」の闘いを仕掛けてきた。
 その「真意」を耕一ははかりかねている。
 英二が仕掛けたと思われる性質の闘いは、明らかにここですべきものではない。それ
をすべき場所ではないのだ。
 英二とて、それは承知の上だろう。
 だが、耕一はそういう闘いをするつもりはない。
 その耕一に対してそのような行為に及ぶ意味を英二がわかっているのかどうか。
「覚悟の……上なのか……」
 だとしても、その覚悟というのがどの程度のものなのか。
 果たして、英二はわかっているのか。自分がなんでそういう闘いをしたくないのか。
 いっそのこと、それに乗ってやろうかとも思う。
 運を天に任せて、行ってしまえば楽だ。なにも、必ず最悪の事態になるとは限らない
のだ。
 だが……。
 声が聞こえる。

 耕一さん……行かないで下さい。

 だから、行かない。
 夥しい決意を胸に顔を上げた耕一に、レフリーが第2ラウンド開始を伝えに来た。

                                     続く

     どうも、vladっす。
     63回目ですな。
     まあ、えっちらおっちらやってきますわ。