鬼狼伝(62)  投稿者:vlad


 ゆっくりと、耕一が立ち上がり、中央線に向かって歩いてくるのを見ながら英二はそ
の表情を観察していた。
 一見、普通の表情だ。
 だが、違う。
 先程までこの青年は、闘っている最中とは思えぬような穏やかな表情をしていたのだ。
  それが消えた。
 張り詰めた表情をしている。
 怒っている、のではない。
 怒りの成分はほとんどその表情に感じられない。
 何かを怖がっているように見える。
 ゆっくりと、歩いてくる。
 まるで、中央線に達することを恐れるかのようにゆっくりとした足取りであった。
 中央線に達して、試合が再開されてしまうのを恐れるかのようにゆっくりとした足取
りであった。
 ゆっくりと、耕一は中央線にやってきた。
 レフリーが目線を左右に走らせて両者の様子をうかがう。
 英二が構え、少し遅れて耕一が構えた。
「はじめっ!」
 両者の間にあった目に見えぬものが消えた。
 英二が前に出た。
 耕一が前に出た。
 耕一の右足がしなるように走った。
 右のミドルキック。
 英二が素早く前に出て距離をつめる。
 その行動によって耕一の右足の膝が英二の脇腹に当たる。もちろん、その位置ではほ
とんど効力は無い。
 右のショートアッパーを一発当てる。
 左のショートフックを一発当てる。
 耕一の両手が上がって頭部をガードしたと見るや、腹部に右フック。肝臓のある位置
に行った。いわゆるレバーブローというやつだ。
「ぐうっ」
 呻きながら耕一が後ろに下がる。
 英二は一瞬の躊躇いもなくそれを追った。
 左足を踏み込んで右ストレートを放って行く。
 下がっていく耕一の顔面を見事に捉えた。
 耕一の足が僅かに浮く。
 その足へ、右のローキック。
 確かな手応えが英二の右足を伝わる。
 この感じ……しっかりと入った。
 英二の視界のやや上方にあった長身の耕一の顔が、下にと落ちていく。
「ダウン!」
 レフリーがそう叫んでカウントを始めると、場内が沸騰したかのような歓声が沸いた。
 一回戦、元プロレスラーの中條辰をKOしたことにより観客の間で耕一の実力は相当
のものという認識が既に広まっていた。
 その耕一が、ついにダウンしたのである。
 しかも、どちらかというと細身で、ミュージシャンの緒方英二によってだ。
 おそらく……立ち上がってくる、と英二は思っていた。
 チラリと場内に設置された電光掲示板に目をやる。
 第1ラウンドは既に四分を過ぎている。
 カウントセブンの時点で耕一は立ち上がってきた。
 肩が落ちている。
 表情に覇気が感じられない。
 英二は、軽く頷いた。
 思わず、そうしていた。
 やはり、柏木耕一というのはそういう闘いをできない男なのだ。
 先程彼はいった。
「そんな闘い、したくないですよ。ここでは……」
 と──。
 少しの間はその言葉に戦慄した英二だが、試合再開後のそれ以前とは見違えるように
精彩を欠くようになった耕一の闘いを見ればすぐにわかる。
 耕一は、危険技もなんでもありの闘いをすることができる。それは実戦派の伍津流を
学ぶ以上当然であるが、耕一はそれをできない。
 その牙の使い方を知っていながら使えない。
 使うにも、おそらく心の準備が必要であるのに違いない。
 だから「ここでは」という言葉を耕一は使った。
 今日、このエクストリーム大会の試合場でそれを使う心の準備を耕一はしてきていな
いのだろう。
 ならば、勝機はある。
 電光掲示板が四分二十秒に達した時、
「はじめっ!」
 レフリーが試合を再開した。
 残り四十秒……。
 行けるか……。
 先程の耕一の様子から判断して、なんとか行けるかもしれない。
 攻撃にキレが無いのだ。
 最前のダウンは、耕一の右ミドルキックを英二が一気に距離をつめてミートポイント
をずらしてダメージをほとんど無といっていいほどに減少させるとともに即座に攻撃を
送り込んでの結果である。
 実際に耕一をダウンさせたのは右ストレートと、右ローキックであるが、それ以前に
ミドルキックを見切って懐に入っていけたのが最も大きい。そもそも、それが無ければ
攻勢に転じることはできなかった。
 それというのも、耕一が先程放った右ミドルキックに、それまでのキレが感じられな
かったからだ。
 一瞬の間ほどの遅れ。
 そこに英二は付け込んだ。
 迷っている攻撃だった。
 耕一の強さに「迷わない」ことがある。
 迷わないから攻撃に無駄が無い。
 迷わないから防御に隙が無い。
 その耕一が迷っている。
 崩れた──!
 目の前にそそり立つ絶壁──それに一点の穴が穿たれたような解放感。
 それが英二を駆り立てる。
 その穴から垣間見えるものが何かははっきりとはわからない。
 だが、その向こうにあるのがなんであろうと──。
 勝利であろうと、栄光であろうと、そして、敗北であろうと──。
 ようやく穴が空いたのだ。
 行くしかない。
 右ストレートが耕一の顎をかすめる。
 もう少しだ。
 左フックが耕一の頬を叩く。
 今のはきれいに入った。
 左ローキックが耕一の右足を軋ませる。
 見ろ、さっきまで微動だにしなかった男がよろめいているじゃないか。
 ワンツーを立て続けに顔面に当てていく。
 左──右──入った。
 手によるガードが全然間に合っていない。
 渾身の右ストレート──これも入った。
 側頭部へ右のハイキック。
 これも行けるのではないか。
 今まで、耕一相手には怖くてハイキックは打てなかった。外した場合に生じた大きな
隙をつかれるのを嫌がったからだ。
 だが、このリズム。
 いいリズムだ。
 口笛の一つも吹きたくなるような小気味いいリズムで繰り出す攻撃が、悉く当たる。
 英二の胸中に熱いものが生まれる。
 とてもいい音を出す打楽器を楽譜など見ずに、アドリブで叩いて即興で作った曲が思
わぬ名曲になってしまったような感動にそれは似ていた。
 行ける。
 ここで右ハイだ。
 それを出すのが一番いい。
 直感が告げていた。
 ここで右ハイキックを打つことによってこの一連の「名曲」はよりよいものになるの
だ。
 行くべきだ。
 右足を高く上げて──。
「!!……」
 右膝を上げて、蹴りを耕一の頭目がけて打ち出さんとした時、英二の目が開かれてい
た。
 声を出さずに叫んでいた。
 英二の視線は、耕一のそれと真っ向から合っていた。
 獲物を狙う肉食獣のような目をした英二の視線と──薄い霧がかかったような耕一の
目が、真っ向から合っていた。
 英二は退いた。
 観客席の各所から溜め息が漏れる。英二の猛ラッシュに、これで決まるか!? と固
唾を飲んで息をすることすら忘れて見入っていた人間の気が一斉に抜けたのだ。
「なんで下がるんだよ!」
 僅かにだが、そんな声もした。
 そのような野次を飛ばすのも無理はない、第三者の目から見て、どう考えても英二が
退くべきところではなかった。特に耕一に反撃の素振りは見られなかったし、なんとい
っても、英二のラッシュはいいリズムに乗っていた。
 だが、退いた。
 耕一の目が、はっきりとした戦意を宿していたならば、英二は行っていたかもしれな
い。
 英二が恐れたのは、耕一の目にかかっていた薄い霧だ。
 その目が帯びた光を覆い隠していた薄い霧だ。
 その向こうにどんな輝きがあるのか?
 それがわからなかった。
 未知への恐怖が、英二を退かせていた。
 時が過ぎ行く。
 耕一と英二の間に五メートルほどの距離があり、電光掲示板は着実に時を刻んでいく。
 四分四十秒。
 二人の間を隔てる五メートルという距離は、一瞬でつめていけるものではない。
 まず間合いに入る行動をしてからでないと攻撃に移れない。
 一つの行動を起こしてからでないと相手と接触ができない。
 その位置のまま、二人とも動かない。

 四分五十秒。 
「理……」
 隣に座っている理奈に声をかけようとして、冬弥は思い止まった。
 食い入るように、兄の試合を見つめていた。
 試合前に、英二との間に何かあったのであろうということは冬弥にはすぐに知れた。
二人きりで何を話したのかと尋ねた冬弥に理奈は素っ気なく答えた。
「何も……いいのよ、あの人は一人で大丈夫なんだから」
 と。
 そもそも試合前、理奈に頼まれて英二を呼び出しに行ったのは冬弥である。
 あの時は、
「そんなこと無いと思うけど、万が一緊張してたりしたら励まして上げなきゃ、一応、
兄妹だし」
 などといっていたのだが……。

 四分五十五秒。
 観戦している人間の大半はもうこのラウンドに動きは無いと見て息を抜いている。
 それもそのはずで、二人の間には依然としてワンアクションでは交戦状態に入れない
だけの距離が空いている。
 既にトイレのために席を立った人間もちらほらと見られる。

 四分五十七秒。
 耕一の右足が前に出た。
 次いで左足。
 大きな歩幅で前に出た。

 四分五十八秒。
 英二が退いた。
 耕一が一歩前に出た次の瞬間、五歩退いた。

 四分五十九秒。
 耕一が身を翻した。
 英二が耕一の背中を見ながら、構えを解いた。

 五分〇〇秒。
 ゴングが鳴った。

 浩之は、隣にいた雅史がついた大きな溜め息の音を聞いていた。
「ふう……」
 それに僅かに遅れて、浩之の口からも漏れていた。
 雅史が声をかけてくる。
「ねえ、浩之」
「ああ」
「第1ラウンドの後半……英二さんが押していたんだよね」
「……ああ」
 そう答えながら、浩之の胸中に一抹の躊躇いがある。
「そうだよね」
 雅史は浩之の答えを聞いて頷いた。おそらく、浩之の意見を聞くことによってそれを
確信することができたのだろう。
 だが、そう答えた浩之からしてそれを確信はしていないのだ。
 ラウンド終盤、英二が押していた。
 それは疑いが無い。実際に、ほとんど一方的に攻撃し、それが確実にヒットしていた
のだ。
 だが、最後の最後。
 動きの無くなった最後の二十秒に限っていえば、押していたのは耕一の方ではないの
か。
 わからない。
 わからないが、明らかにラウンドの途中から耕一の雰囲気が変わったのだけはわかる。
いつからとはっきりとは断定できないが、浩之の見るところ、おそらく英二が耕一の蹴
り足をキャッチしてスタンディング・ヒールホールドらしき技を仕掛けた後だと思う。
「……わからねえな」

                                     続く

     どうも、vladです。
     六十二回目です。
     うん、今回も特に無し。