鬼狼伝(61)  投稿者:vlad


 耕一の右ミドルキックが英二の脇腹を襲ってくる。
 蹴り足を抱え込もうにも戻しが早く、防御をすれば、防壁に使用した左腕に効く。
 後ろに下がって完全にかわすしかない。
 耕一は、時折このミドルキックを放ってくる。
 それ以外では手による攻撃と、それからローキックを繰り出す。
 さすがにハイは打ってこない。仕掛けた後に隙が生じてしまうからだ。しかし、こち
らに隙があれば狙っているに違いない。
 そして、強力なキック以上に厄介なのが両手による攻撃である。
 第1ラウンド前半では、オープンフィンガーグローブを握って、通常のパンチ攻撃だ
けを送り込んできていたが、相当のボクシング技術を持つ英二にはそれのみでは通じぬ
と悟ったのか、掌を開いての掌底攻撃を交えるようになってきた。
 指の付け根には、やや突起した骨があり、拳を握るとそれが顕わになる。
 空手の正拳突きは、人差し指と中指のそれを相手に当てていくものだ。
 グローブをはめて行うボクシングなどでも、基本的にそれは変わらない。
 よって、拳を握ってのパンチには、ある程度軌道の制限が架せられてしまう。
 掌底とは、掌の下方、手首に近い親指の付け根近辺の肉の厚い箇所のことである。
 当然、拳とは攻撃の軌道が違ってくる。
 耕一は、この二種類の攻撃を同時に使い始めたのである。
 時には器用に右を拳、左を掌底にしてそれをワンツーで放ってくる。
 手を開いて両手を伸ばしてくるので、掴みかかってグラウンドへ引き込もうとしてい
るのかと思うと左右の掌での攻撃が来る。
 肘を曲げて位置を変えながら、手首のスナップで主に顎を狙ってくる。
 そんなに強くない攻撃でも顎に貰うのはまずい。脳が揺さぶられて脳震盪を起こして
しまうからだ。
 英二は英二なりに伍津流のことは調べた。
 拳による突きと同時に掌底を使う流派であることは知っていた。
 これは伍津双英の方針であるところの、素手、そしてできるだけ実戦的に、という二
つの条件を加味した結果であるらしい。
 例えば、空の手、すなわち素手を重んじる空手の一部流派では、拳を徹底的に鍛える。
 巻き藁を突く。
 それである程度鍛えられれば、今度はもっと固いものを突く。
 皮が破れても突く。
 多少の流血は気にしない。
 それを繰り返していく内に、その部分の皮膚が硬化する。
 それで殴る。
 流派によっては、拳ができぬ内は一人前ではないとするところもある。
 なぜ拳を鍛えるのか。
 固い拳でなら、より多くのダメージを相手に与えられる。そして自分の拳へのダメー
ジは少ない。
 双英は、素手で闘う以上、拳を鍛えるのも当然としつつも、打った側の手への反作用
のダメージが少なくて済む掌底に注目した。
 だから、耕一が突如やりだしたこの拳と掌底の複合攻撃は決して付け焼き刃ではない。
 彼が学ぶ流派が、元からその二つの複合を技術体系に取り入れた流派なのだ。
「むっ」
 英二はそれをかわす。
 握り拳による攻撃はボクシングのそれであるからその軌道をほぼ完全に読めるのだが、
掌底がやってくる道筋を読むのには苦労した。
 そして、その合間にローキック、ミドルキックが来るのである。
 まずい。
 段々とこちらの手数が少なくなってきている。
 一発出す間に三発出されている。
 パンチスピードでは英二と耕一のそれはほぼ匹敵している。
 だが、耕一の方が攻撃が重いのだ。
 英二のパンチを耕一は体勢をほとんど崩さずに受ける。
 一方、英二が耕一のパンチを受けると、時に体勢が崩れる。
 ガードした腕が弾かれる。
 ガードに使った腕に痺れが走る。
 そしてミドルキック。
 受けると足が浮くことすらあった。
 クリーンヒットを貰わないように今までなんとか凌いできたが、それも結局は敗北を
先に延ばしているだけだ。
 勝利を呼び込む行動とは、悲しいがいえない。
 勝利を呼び込む。
 それにはどうするか。
 ……もう一度、仕掛けるか。
 先程の関節蹴りのように、レフリーが反則と判断するかしないかのギリギリのライン
に賭けた危険な攻撃を行くか。
 それに、この人の好い青年が対応できるかどうか。
 そこに賭けるか。
 混濁する思考を断ち割るように、耕一の右ミドルキックが英二の左腕を打つ。
 それだけで左腕の筋が切れるのではないかという衝撃。
 だが、段々とそのスピードに目が馴れてきていた。
 確かに強烈だ。
 そして、耕一もそれを知っているのだろう、それ一撃でノックアウトしようというほ
どの勢いが感じられる。
 でも、さすがに多用し過ぎだ。
 耕一はリズムに乗って攻撃してくる。
 そのリズムが段々と英二には読めてきていた。
 百発百中とは行かないが、大体の攻撃パターンはわかり始めている。
 だが、それでも正攻法で耕一を一気に沈める自信は無い。
 一気に沈めねば、相手が相手だ。すぐに自分が一定のリズムにはまってしまったこと
に気づき、それを変えてくるだろう。
 そう考えるとチャンスは少ない。
 一回きりか……。
 パンチと掌底が続く。
 そろそろ……。
「シッ!」
 やっぱり、右のミドルキックが来た。
 それを左腕で受ける。肘を曲げて受けるのではなく、ダラリと下方に下げて上腕部で
受ける。
 いいタイミングで読めた。
 これなら、左腕で抱え込める。
 足首を抱え込んでアキレス腱固めに──。
 相手が耕一でなければ、そうするのもいいだろう。
 英二は、左腕で足首をロックせずに、踵を抱えた。
 そして、膝を落としながら右下の方向に捻る。
「くっ!」
 耕一の口から、そんな声が漏れていた。

「立ちヒール!?」
 思わず叫んだ浩之は、緊張の張り詰めた目で英二を見た。
 丁度、浩之の位置から英二の顔を正面から見ることができた。
 英二の目が細く開かれていた。
 その僅かな隙間から、鋭い眼光が覗いていた。

 スタンディングでのヒールホールド。
 グラウンドで仕掛ける場合と違って、一瞬で捻る。
 だが、このヒールホールドという、膝関節を横に捻り切る技は、一瞬でも十分といっ
ていい効果を生む。
 耕一は、反射的に英二のヒールホールドに合わせて体を左に捻っていた。
 それによってダメージは軽減されるが、うつ伏せに倒れてしまうことになる。
 英二が踵に引っかけた左腕を返して、左手で耕一の右足首を掴んでいる。
 レフリーは反則を取っていない!
 そのまま自分も倒れて、ヒールホールドで痛めておいた右膝に膝十字固めで追い打ち
をかける。
 自ら倒れていこうとした瞬間。
 ぐん、と英二の左手にかかる重みが増した。
 耕一の左足が浮いていた。
 英二の唇が微笑を象る。
 右足を捕まえられたこの状況、残された左足でマットを蹴って跳躍し、そのまま左を
蹴り足にして攻撃してくるであろうことは読みの内だ。
 そして、今の耕一の体勢では狙える箇所は限られる。
 とにかく、上半身を狙うのはほぼ不可能と見ていい。
 空中で下を向いているこの体勢では英二の下半身しか見ることはできない。その下半
身の位置から上半身の位置を予想することは不可能ではないが、至難の業だ。
 耕一の左足が、突き出されてくる。
 向かう先には英二の下腹部がある。
 金的よりも上、水月よりも下──筋肉の薄い部分を狙ってきた。
 英二の右腕が余裕をもってそれをガードする。
 蹴りを放つと同時に、耕一の両手がマットについて落ちる体を支えていた。
 だが、無駄なことだ。
 英二の右手が耕一の右足を掴む。
 このまま両手で右足を引っ張れば、マットについた耕一の手も支えきれまい。
 そして、足を引く時に、上半身を倒していって体重をかけると同時に、こちらの両足
を前に出して耕一の右足を挟み込んでロックしてしまえば膝十字が極まる。
「!!……」
 声無き気合が自然と英二の口から迸る。
 耕一の両手がマットから離れる。その際に耕一の体が僅かに上昇していた。
 英二の腰はマットに接触していた。
 両足で、耕一の右足を──。
「っ!……」
 耕一と目が合った。
 両手がマットから離れて上半身が宙に浮いた瞬間、上半身を前方に丸めていたのだ。
両手でマットを押して腰を上昇させ、その時にできたマットと腰の隙間に上半身を潜り
込ませたのだ。
 英二の右足が耕一の右足に巻き付く──。
 左足もそれをしようとするが、耕一の両手によって阻まれていた。
 耕一は、首をべったりとマットにつけている。
「ぬっ!」
 英二の左足が耕一の両手に捕まった。
 耕一の左足が強くマットを蹴る。と、同時に、捕まっている右足の膝を曲げようとす
る。
 右足首を捕らえた両手が上に引っ張り上げられる。
 僅かにだが、英二の上半身が浮く。
 化け物か!?
 浮いた瞬間、思った。
 思った瞬間、ひっくり返されていた。
 うつ伏せにされた。
 だが、右足はまだ捕まえたままだ。
 この状況からの逆転は不可能じゃない。
 足首を捻りに行く。
 おそらく、耕一も自らの手中にある英二の左足首を捻りに来るはず。
 ちらり、と英二が耕一を見た。
 耕一は、左手を横に伸ばしていた。
 何をする気か?
 耕一の左手がやがてマットに着く。
 手首の下辺りを腕と垂直に白いラインが通っていた。
「場外! 両者、中央線へ!」
 上の方からレフリーの声が降ってきた。
 英二の全身から力が抜ける。
 こんなにライン近くまで来ているとは思わなかった。耕一は、それに気付いていたの
だ。しかもあのゆっくりとした手の伸ばし方、余裕が感じられる。
 英二の表情に苦味が走る。
 と、その時、耕一がいった。
「さっきの……ヒールホールドでしたね」
 と……。
「……」
 英二は無言。
「やる気なんですか?」
「……」
 無言。
「いいじゃないですか」
 ぽつり、と漏れていた。
 弱々しい声だった。
「ルールがあるんだから、それを守って闘えばいいじゃないですか」
 弱い声だ。
 英二の眼光が鋭利さを増す。
 賭けが、成功したか──。
 やはり、この青年は「そういう闘い」に対応できないのか。
 技術的には対応できるだろう。
 だが、精神的に対応できないのではないか。
 その疑問から打った賭けだったが、それが成功したか。
 ならば、耕一に勝つことは不可能ではない。
「英二さん……」
 立ち上がった英二に対して、耕一はマットに座り込んだままだった。 
「ルールの中でお互いの技と力を競い合えばいいじゃないですか」
「……」
 立っている英二が、座っている耕一を見下ろしている。
 耕一の顔は、下を向いている。
 心なしか、両肩が落ちているように見えた。
 中央線へと戻っていたレフリーが何をしているのか? といった表情で試合場の隅っ
こで何やら小声で話している耕一と、それを見下ろす英二を見ている。
「おれは……そんな闘いしたくないです」
「……」
 英二は、何もいわなかった。
 何もいわぬまま、英二は身を翻した。
 中央線へと歩いていこうとする。
 背後で、声がした。
「そんな闘い、したくないですよ。ここでは……」
「……」
 引っかかる。
 耕一の言葉が含む何かが引っかかった。
 ここでは……?
 振り返る。
 耕一は顔を上げていた。
 悲しそうな顔。
 寂しそうな顔。
 思い詰めた顔。
 表情全体をどのように表現することもできる。
 だが、その目は──。
 怖い目。
 それ以外の形容のしようが無かった。
「……」
 英二は、胸中に生まれた一抹の不安を無理に押し潰しながら、ゆっくりと中央線へと
歩んでいった。
「おい、君、怪我をしたのか?」
 そういいながら、レフリーが英二と擦れ違って耕一の方に向かっていく。
「棄権するか?」
「いえ、できます」
 耕一は右膝を気遣うように立ち上がった。
「やりたく……ないのに」
 呟いていた。その声は誰の耳にも届いていない。
「人を相手に、そんな闘いはやりたくないのに……」
 既に中央線に戻っていた英二の背中が見えた。
 それを見ながら歩いていく。

 どくん──。

 耕一の心臓が高鳴った。
 一回だけ、大きく強く。

 どくん──。

 と……。

                                                               続く

     どうも、vladです。
     今回も特に無し。