鬼狼伝(60)  投稿者:vlad


 試合再開後、英二の瞳に映る耕一は、穏やかな表情をしていた。
 柔らかい。
 だが、筋が通って張っている。
 そんな感じの表情だ。
 穏やかに、暖かさすら漂わせて、耕一の表情が近付いてくる。
 格闘家が相手の攻撃の先を読むのは既に以前より一つの技術として確立している。こ
れができるのとできぬのでは雲泥の差だ。
 手の位置、足の運びから次の攻撃を読むのは当然として、相手の目線からどこを狙っ
ているのかを読んだりする。
 今では、それを逆手に取ってチラリチラリと相手の足を見ながら、突然、それまで全
く見ていなかった顔にパンチを打ち込むようなフェイント技術もある。
 そして、相手の殺気や闘気を感じて先を読むことも可能である。
 これは非常に感覚的な領域に属するので技術と呼ぶほどにはその体系が確立されてい
ない。  
 サンドバックを幾ら叩いても身につかない能力だ。
 何度も実際に血肉を持った人間と闘わねば得ることのできない能力だ。それも、相手
が知った顔ではあまり効果は無い。その日初めて顔を合わせるようなほとんど未知の人
間とやり合ってこそだ。
 そいつの得意とする技は?
 そいつのスタミナはどの程度か?
 そいつのファイトスタイルは?
 その辺りのことは試合前の情報収集で知ることができるが、その情報を元に構築した
予想通りの動きを相手がすることは無いといっていい。
 結局、そのような知識は頭の片隅に置きつつ、その場その場で対処していくしかない。
 そういう闘いを幾度も繰り返すことによって、中には相手の次の攻撃を感じることに
よって読める人間が出てくる。
 一つの才能だ。
 英二も、その手の能力には恵まれているつもりだ。
 だから、感じようとしている。
 その英二に向かって耕一が前進してくる。
 闘気を全く感じさせない穏やかな表情のまま前進してくる。
 読もうとする。
 感じようとする。
 だが、感じられない。
 読めない。
 耕一の右手が少し動いた。
 その手で握手を求めてくるのではないか?
 そんな錯覚が英二を捕らえる。
 耕一の表情が穏やかなまま──。
「!!……」
 来た。
 確かに、耕一の方から闘気が来た。
 右ストレート……速い。
 その時、耕一の表情は引き締まっていた。
 英二は身をよじるようにしてなんとかかわす。
 先ほどから、この類の直前まで闘気を感じさせぬ攻撃に悩まされている。英二も、な
んとか感じ取ろうとし、手足の位置などでも読もうとするのだが、耕一は思わぬ姿勢か
ら思わぬ攻撃を送り込んでくることがある。
 耕一と浩之の闘いを英二は思い出していた。
 闘気をむき出しにして耕一に襲いかかる浩之。
 観ている英二にすら感じられる闘気。
 そんな浩之に耕一はいった。
「むき出しの闘気は忌むべし」
 なんでも、耕一が学んでいる伍津流の心得らしい。
 耕一は、インパクトの一瞬にだけ闘気が出る。だから、それで攻撃を読むのは難しい。
 穏やかな表情で、ゆったりと近付いてきて、瞬時に攻撃を叩き込む。
 耕一の攻撃を読むのは非常に困難だ。
 英二は、それで耕一の攻撃を読むのを諦めた。
 おれも、同じことをしてやろう、と思った。元々、英二もそういうのは得意な方だ。
 英二の表情は、穏やかなものに変わっていた。

 試合場の下で耕一のセコンドについている伍津双英は彼の弟子の闘いを静かに見守っ
ていた。
 なにも口は出さない。
 あの青年は突然やってきた。
 伍津は戦後間もない頃に、やくざの用心棒などをやっていた男だが、幼少の頃より学
んでいた空手がその戦闘スタイルのベースになっており、ある男に敗北を喫して後、用
心棒をやめた。
 既にそれ以前から彼は喧嘩──闘うこと自体に快感を覚えていて、近い内にその稼業
から足を洗おうと思っていた。その喧嘩も「商売抜き」のものであった。
 危険な用心棒稼業をやりながら生き抜くために行った鍛錬が、純粋に空手をやってい
た頃の気持ちを呼び起こしてしまった。
 それに引っ張られて心身を搾るように行った鍛錬によって得た肉体と技が、同じよう
に鍛えられた肉体と技との競い合いを求めていた。
 彼は飲み屋や賭場の用心棒にしては強くなりすぎた。
 素手で双英に勝てる人間はいなかったし、ナイフや段平を持ち出してきてもなんとか
撃退した。
 銃だけはまずかったがそんな時はさっさと逃げた。
 だが、結局、その仕事の過程で満足できるような闘いはできなかった。
 素手。
 一対一。
 ルールは……緩い方がいい。怨恨が無ければ目をえぐることと噛み付くこと、その程
度を禁じておけばいい。
 そんな闘いをやってみたい。
 そう思って時々、彼を雇っていた組織には内緒で旅の武道家などと立ち合うことがあ
った。
 そしてある日、負けた。
 絶対にそいつを倒してやることを誓った。
 誓った翌日にそいつは遠方に発っていて、何も考えぬままそいつを追った。
 結果的に、それが足を洗うきっかけになった。
 伍津はそのまま日本中を回って各地の武道家と立ち合い、その技術を学ぶと同時に、
自らの経験を元に一つの格闘術を作り上げることに情熱を賭けた。
 とにかく──。
 素手。
 一対一。
 できる限り緩いルール。
 それを想定して考え、錬磨し、作った。
 五人ほど弟子を取った。
 やがてその弟子たちに日本各地で道場を開かせた。
 その時、伍津流、と名乗った。
 その際、双英は伍津流を無理に教えることを強制しなかった。完全にそれだけを、と
なると入門者が現れないことはわかっていた。
 それが二十年前のことだ。
 そして……十年前。
 道場の一つから、選手をある大会に出場させると連絡が来た。てっきりどこかの空手
流派のオープントーナメントかと思っていたが、そうではなく、打撃も寝技もあるルー
ルでの試合だという。
 それで、その伍津流の選手が優勝した。
 双英が、その打撃も寝技もある試合形式が「総合格闘」などと呼ばれているらしい、
ということを知った時、ある格闘技雑誌から取材が来た。
 インタビューにやってきた記者から最近、一部で人気が出始めている「総合格闘」と
やらの詳しい話を聞いて双英はいった。
「なんだ……それなら三十年以上前からうちがやっている」
 と。
 伍津流の選手が様々な総合格闘の大会で活躍し、各道場に入門者が増える中、双英は
弟子たちに全てまかせ、かつて五人の弟子とともに汗を流した道場で一人、体を動かし
て、時折、雑誌の取材を受けていた。
 そんな一人の道場に、その青年はやってきた。
 やがて青年は六番目の直弟子になり、週末になると道場にやってくるようになった。
「実戦的なのがいいと思ったんで」
 何故? 伍津流なのかという問いに青年は答えた。
 この青年が何を目的にして格闘技を学んでいるのかを、双英は朧気に知っていたが、
正直いってそれはどうでもよかった。
 問題なのは、その青年──柏木耕一が素晴らしい素質を持っているということだった。
 教えることをすぐに吸収する。
 そして、あの若さで「むき出しの闘気は忌むべし」という心得を実践してしまうこと
には双英は驚嘆したといっていい。
 双英はかなり早めにそのことに気付いていた。
 緊張感のみなぎる真剣勝負では、やはり自然と人間の感覚が研ぎ澄まされて闘気或い
は殺気を感じ取る能力が増すように双英は思った。
 その感覚を意識して鍛えている内に、それならば、こちらのそれを隠すことが有効な
のではないか、と思い付いた。
 だが、まだ若い双英にとって、闘気を抑えることは困難であり、彼がそれに本気で取
り組み始めたのは三十も半ばになってからだった。
 耕一はそれだけではなく、身体能力もずば抜けている。
 無理な姿勢からの攻撃も難なくこなす。
 今も、双英の視線の先で、耕一の蹴りが放たれていた。

 行けると思った。
 こっちも闘気を限界まで隠して、穏やかな表情で、打ち合いにいった。
 一気に決めようとしたのか、耕一が放ってきた大振りの右フックをかわした。
 耕一が勢い余って回転して背中を向ける。
 後頭部にパンチを当てられる。耕一がパンチを喰らいながらも振り返ったらすぐに腰
へタックルに行く。
 振り返った直後に密着していけば、下方は視界の外だ。
 行ける。
 その時──。
 ざわっ、と来た。
 闘気が、耕一の方から来た。
「うっ!」
 本能的に身を仰け反らせた。
 腹部に何かが突き刺さった。耕一の左足であることを理解した時には後方によろめい
ていた。
 こちらに背中を向けたまま蹴ってきたのか。
 あの体勢、あの姿勢から蹴ってきたのか。
 まさか、その前の大振りの右フックは”囮”か?
 後ろによろめいた英二を耕一が追撃してくる。
 右のミドルキックが英二の左脇腹に炸裂する。
 ごふっ、と空気が口から漏れる。
 だが、まだ行ける。
 両手でその右足を抱えて引きずり倒す。
 倒して、すぐにアンクルホールドを極めに行く。
 耕一が左足で右手を押し退けようとする。片手ではアンクルホールドは極まらない。
 アキレス腱固めに移行──。
 だが、それを察知したのか耕一は右足を激しく動かして極めさせまいとする。
 耕一の右足の先が足の裏を外側に向けて脇腹と脇の下の間辺りに接触した時、英二の
左腕が反射的に動いていた。
 踵を、腕で抱え込む。
 そして、そのまま踵を内側に捻る。
 ヒールホールド。
 踵をテコの原理で捻ることによってその先の膝関節を捻って破壊する関節技である。
「くっ!」
 絶妙の極まり具合だったのだが、英二はそれを解いた。ついつい極めにいってしまっ
たが、エクストリーム・ルールではヒールホールドは禁止されている。
 全く「遊び」の無い膝関節を横方向に捻るこの技は非常に危険である。
 モタモタしている内に、耕一に上になられてしまった。
 のし掛かって来ようとする耕一と自分の上半身の間に、自分の両足を入れて距離を取
る。
 不用意に前にのめってくれば、両足で片足を絡め取って倒して膝十字固めに持ってい
ける。
 だが、耕一はすぐには出てこずに、自分を押し退けようという英二の両足を抱え込も
うとしていた。
 英二は素早く激しく、そして計算の内に両足を動かしながら距離を取り、やがて立ち
上がった。
 立ち上がる時にタックルで食らい付いてくるかと思ったが、それはなかった。
 耕一は悠然と立っている。
 英二が立ち上がった時には、悠然と構えていた。
 余裕だな。
 英二は苦笑したい思いを抱きながら構える。
 ふと、さっき、ヒールホールドで思い切り捻ってやればよかった、などと思う。
 反則負けになったかもしれないが、一矢報いることができたのではないか。
 ……。
 頭を振る。
 打ち消す。
 自分は馬鹿なことを考えている。
 一矢報いて負ける。
 そんなことを考えている。
 一体、なんのためにここへ帰ってきたんだ。
 ボクシングのリング──エクストリームの試合場。
 形状は違うが本質は同じだ。
 どちらも「闘う場所」だ。
 一度去って、また未練がましく帰ってきたこの場所で、自分はなんと弱気で消極的で
馬鹿なことを考えているのか。
 一矢報いて反則負け。
 結局、自分は傷付きたくないのか。
 結局、それまでか。
 結局、自分はここに戻ってくるべきではなかったのか。
 そんなような気が、ふと心中をかすめる。
 自分には、音楽があるじゃないか。
 そんな声が自分を──闘う自分を弱らせようとする。
 駄目だ。
 他にあれがあるじゃないか。
 自分にはこれだけじゃないじゃないか。
 そんな思いは、この場所では不要のものだ。
 この場所で必要とされているのは、そんな心じゃない。
 闘う心。
 まだ、死んでいないはずだ。
 まだ……まだ……。

                                     続く
 
     どうも、vladです。
     やっとこ、60回目にこぎつけることができました。
     あれですね、もう60回もやってると、ここでいうことはあんまり
     無いですね(笑)