鬼狼伝(59)  投稿者:vlad


 立て続けに三発来た。
 耕一の右ストレートが顔面へ。
 三発とも、ガードした英二の左腕に当たった。
 後退しながら英二は戦慄していた。
 三発貰っただけで、もはや左腕にはほとんど感覚が無い。
 防御にはなんとか使えても、攻撃が駄目だ。強いパンチは打てないし、グラウンドで
関節の取り合いになった時に、相手の手足を掴んで自分が望む方向に動かすだけの力が
込められない。
 柏木耕一。
 飛び抜けて何が上手いというわけではない。
 立ち技も寝技も、攻撃も防御も、これが凄い、というものはない。
 全体的に強い。
 平均的に強い。
 そしてその平均が並みの選手では太刀打ちできぬほどの位置にある。
 そのせいだろうか、耕一は相手に合わせて闘い方を変えるようなところがある。
 立ってやろうという相手には立ったままで応じ、寝技に引き込もうとする相手の場合
は自らグラウンドにやってくる。
 ほぼ完璧といっていいオールラウンドファイターだ。
 英二は、寝技よりは立ち技の方が得手である。
 だが、その立ち技において圧倒的に耕一に押されている。
 第1ラウンドがようやく三分を回ったばかりだというのに、英二の進む先に勝利が全
く見えない。
 粘ることは可能だ。だが、最終的に勝てる気が全くしない。
 どうすれば勝てる──。
 さっきからそれを必死で考えている。
 進むための歩き方、道筋をどう変えれば行く手に勝利が見えるのか、そればかりを考
えている。
 スマートな体からは想像できない重い攻撃を受け、手足に伝わる衝撃に耐えながら。
 鋭利な空気を切り裂くような攻撃をかわし、顔や腹に吹き付ける風を感じながら。
 模索していた。
 暗中で模索していた。
 ほとんど手探りの作業だ。
 これなら行ける、という手段は未だに濃霧の彼方である。
 だが、一つだけ、これでは駄目だ。というものならはっきりとした輪郭をもってわか
っている。
 正攻法。
 とにかく、正攻法で行ったら駄目だ。
 正面から打ち合ったら絶対に勝てない。
 強く、そう思う。
 ならば、それとは逆──。
 絶対に勝てないことの逆はどうだ。
 正攻法とは逆の攻撃。
 それならば通じるか。
 英二は試合開始直後の耕一の大振りのパンチからあることを感じていた。
 ゴングの音に気付かずに呆然としていた英二の意識を呼び戻すかのように当てるつも
りのない大振りのパンチを放ってきた耕一。
 甘い、と思う。
 そこに付け込めないか。
 耕一は、ありとあらゆる、それこそ目突きや金的攻撃をも想定したような闘いの練習
をしている人間である。だが、彼のやった幾つかの闘いを見てみると、その時々の闘い
の「ルール」には忠実である。そして、その上に甘い。
 英二を唯一人の観戦者にして伍津道場で行われた藤田浩之との試合では、あらかじめ
目突きと金的攻撃を禁じることを両者の合意で決定していた。
 耕一も浩之もそれを守った。
 耕一に至ってはそれだけではない。ダウンして一瞬意識を失った浩之が立ち上がって
くるのを待っているような場面が何度かあった。
 倒れた浩之に蹴りを入れるのも、馬乗りになって殴るのも、関節を極めに行くのも、
その時のルールには反していない。そこで追撃していればあの闘いはルールを守った上
でもっと手っ取り早く勝利を手にできたはずだ。
 それをしなかった。
 藤田浩之という男の気持ちに応えたのだろう。
 だが、あの時は浩之の方もルールを守り、闘いの途中からは耕一に尊敬に似た感情す
ら抱いているようであった。
 殴り合いながら、蹴り合いながら、確かにあの時、二人の間に着々と信頼関係が築か
れていった。
 だが、どうだ。
 ここで、その耕一が思いもよらない攻撃をしてくるような相手だったらどうなのだ?
 いきなり、ルールで禁じられている攻撃をされたら、この男は対応できるのか?
 どうなんだ。
 突然、そのようなことをされたら、この人の好い男は崩れるのではないか?
 そこに一気に付け入って倒すことは可能か?
 英二の頭の中で幾多の思考が絡み合い、渦巻き、形を変えていった。
 耕一は英二と距離と取っていたが、やがて自ら前に出てきた。
 右のストレートを軽く放ってくる。
 左足が前に出ていた。しっかりとマットを踏みしめて右ストレートに威力を与えてい
る。
 その足への攻撃を警戒している様子は無い。
 双方スタンディングでの足への攻撃は大雑把に分けて二つ。
 ローキックで相手の足を蹴る。
 乃至は、足にタックルで食らい付いて倒す。
 耕一は特にそのどちらも警戒している様子は無い。
 ローキックならば一発ぐらい貰っても大したことないと思っているのだろう。
 タックルに来られてもそれは直接的なダメージにはならない。ただ、そのまま倒され
た時にグラウンドで相手に有利なポジションと取られてしまうかもしれない、という程
度のことであり、おそらく、タックルを喰らってもそう簡単には倒されないという自信
と、倒されて有利なポジションを取られてもそれをひっくり返す自信があるのだろう。
 英二は、数発のパンチを打ちながら思う。
 この柏木耕一という男の強さの一因がここにある。
 絶大といっていいほどの自信だ。
 気負っていない、自然体の自信だ。
 リラックスした体に満ちた自信である。
 リラックスしているから、攻撃も防御も固くならない。
 自信があるから、攻撃も防御も迷わない。
 固くならないから、自信が持てる。
 迷わないから、リラックスしている。
 それに比べて自分はどうだ。
 固くなっている。
 迷っている。
 そんな攻撃が、この男にクリーンヒットするものか。
 固くならずに、柔らかく──。
 迷わずに、決めたことを真っ直ぐに──。
 行くか。
 行こう。
 狙いは、次に耕一が右ストレートを打った時だ。
 上半身を右下の方向に振ってパンチをかわして、そのまま体の左側面を向けて、左足
で……。
 ぱん、と耕一の軽い左ジャブが英二の右腕に当たる。
 ぱん、ともう一発。
 来るか?
 次辺りに来るか?
 来るような感じだぞ。
 左のジャブを二発小刻みに打った後に右ストレート。
 耕一は今までにもそのパンチコンビネーションを見せていた。
 左足がマットを踏む。
 やや後方に引かれた右肩が次に来る攻撃の正体を英二に教えた。
 今だ!
 英二の上半身が右回しに、下方に向けて回転する。耕一の右ストレートが唸りを上げ
て後頭部から僅かに離れた空間を貫く。
 かわした。
 しかも、紙一重といっていいギリギリのところでかわすことができた。
 耕一の左足は踏ん張っている。
 右ストレートを打つための重心移動により、右足よりも、左足の方により多くの体重
がかかっているだろう。
 今だ!
 英二の左足が浮き上がった。
 そして、耕一の左足に蹴りを打ち込んでいく。
 横から振り回すように膝の横、若しくは、膝の裏を叩いていくのではない。
 曲げた膝を伸ばす屈伸運動によって足の裏、特に踵の辺りで蹴り抜くように蹴る。
 それを、耕一の膝へ──。
 不動のマットと体重の半ばに挟まれた状態の膝へ──。
 曲がらない方向に曲げるために──。
 蹴った。
「ぬあっ!」
 耕一が声を上げる。
 関節蹴り。
 重心を支えた状態の足の膝へ、正面か、それに近い角度から蹴りを打ち込む。
 危険技である。
 膝関節を破壊する。
 場合によっては、その先、死ぬまでずっと膝が満足に動かなくなることすらある。
 エクストリーム・ルールでは、ヒールホールドなどとともに禁止技になっている。
 だが、角度が微妙だ。レフリーが反則を取るかどうか?
 それは賭けだった。
 それに、反則を取られるにしても、レフリーがそれを認識して試合を中断させる指示
を出すまでに僅かだが時間がある。
 その間に……一気に──。
 その時、耕一の左膝に与えたダメージはそれほどではないだろう。
 靱帯も切れていないはずだ。
 英二が思い切り蹴っていないからだ。
 ここでこの青年の足を使いものにならないようにするのは本意ではないし、それに、
なんといっても今の蹴りにさらに威力を与えるにはモーションを大きくせねばならなか
った。
 それをすることで、耕一に時間を与えてしまうのを嫌った。
 耕一が左足を動かしてかわしてしまうことも考えられたし、ストレートを打った右腕
を戻すとともに曲げて、それで自分の頭を抱え込んで来ることも考えた。それをされれ
ばバランスが崩されて狙いが正確さを欠く恐れがあった。
 その辺りの利点と欠点のバランスを英二なりにはかった結果が、今の蹴りであった。
 これ以上遅れてはかわされる、耕一に次の行動を許してしまう。
 その限界のスピードで、そして威力のある蹴り。
 それを放ったつもりだ。
 そして、それは耕一の膝に大ダメージを与えるには至らなかった。
 だが、主目的はほぼ果たした。
 耕一の顔が驚いていた。
 痛みのせいではないだろう。
 確かに膝に激痛は走っただろうが、おそらくそれのせいではない。
 知っている人間である英二が、試合前に握手を交わした英二が、今まで普通に闘って
きた英二が、突然あのような反則技をやってきたことに驚いているのだ。
 英二さん、何をするんですか?
 そう、問い掛けたそうな顔をしていた。
 人の好さそうな顔だ。
 そうやってぽかんとしていると本当に好青年という感じだ。
 青年。
 もうしばらく、もう一秒だけでいいからそういう顔をしていてくれよ。
 関節蹴りに使った左足をマットに下ろす。
 ただ下ろすだけではなくて、踏み込む。
 それで、至近距離から右ストレートで顔面を打ち抜く。
 左足でマットを踏みしめ、腰を回転させ、その回転に右腕を乗せて──。
 打った。
 顔面のど真ん中、鼻っ柱に行った。
 予想よりも遙かに強い抵抗が右腕を伝わる。相当に首も鍛えてあるようだ。
 だが、打ち抜く。
 そして、続けざま左のストレート。
 だが、耕一は素早くそれをかいくぐって密着してきた。腰に両手を回してクラッチす
る。
 攻めきれなかった!
「待て!」
 レフリーがそういって二人の間に割って入ったのはその時だった。
「今の蹴り、膝にまずい角度から入っただろう。次やったら注意を与えるぞ」
 先ほどの関節蹴りを見咎めたようだが、どうやら、故意だとは思っていないらしい。
「はい、すいません」
 英二は軽く頭を下げた。
「君は大丈夫か?」
「はい、大丈夫ですよ」
 レフリーの問いに耕一が涼しい顔で答える。だが、実際は少なからずダメージを受け
ているはずだ。
「悪かったな、柏木くん」
 英二が、いった。
「いや、大丈夫ですから」
 にこりと笑った耕一も、先ほどのあれを偶然の産物だと思っているらしい。
 英二は、少しほっとして、レフリーに促されるままに中央線に戻った。
 その背中を見ながら耕一は、
「まさかな……」
 小さく、呟いていた。

                                     続く
                     
          どうも、vladっす。
     59回目となりました。
     ま、色々ありましたが、なんとか休載せずに済みました。


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