鬼狼伝(58)  投稿者:vlad


 英二の顔に風が吹き付ける。
 あろうことか、油断をするとは。
 しかも、この相手に対して。
 今のをかわせたのは奇蹟だ。、本来、一瞬でも気を抜いたら即座に叩き潰されるよう
な相手なのだ。
 柏木耕一……。
 後ろに下がって右ストレートをかわした英二を追撃はしてこない。パンチを打った場
所で停止している。
 英二の様子をうかがっている。
 まさか……。
 英二の中にある考えが芽生える。
 まさか、英二が試合開始をしたにも関わらず呆然としていたので当てるつもりのない
パンチを打ったのか?
 ……そんな馬鹿な。
 ……いや、あり得る。
 そもそも、気が抜けているような相手にいきなり容赦の無い一撃を喰らわせるという
非情……いや、当然な行為すらやらないような男だ。
 優しい。
 否、甘いのだ。
 そう思った途端に、英二の全身が軽くなる。
 指の先にまで、爪先にまで、固くない、柔らかい力が満ちる。
 行ける。
 年齢的にも体力的にも技術的にも、全ての面で耕一が自分を上回っているが、付け入
る隙はある。
 自分はこの青年を怖がっているが、この青年は自分を怖がっていない。
 そこに、一筋の活路を切り開くことができるのではないか。
 英二はすり足で前に出た。
 耕一も出てきた。
 牽制の左ジャブを放つが、耕一はそれに少しも気を取られた様子は無い。当てるつも
りの無い攻撃であり、当たっても大したことは無いということを熟知している。
 双方、間合いのギリギリのラインにいる。
 手足のリーチは僅かに耕一の方が勝っているが、それほどに大きな差でもない。
 また、ジャブを打つ。
 耕一は微動だにしない。
 英二の左手にはめられたオープンフィンガーグローブは耕一の面前で一瞬だけ停止し
てすぐに戻っていく。
 一歩……いや、二歩踏み込まねばパンチは当たらない。
 行くか……いや、ここは少し下がって様子を……。
 思考から決断、そして行動へ。
 その一瞬の間に耕一の右足がマットから離れていた。
 キック!?
 ハイか、ミドルか、ローか!?
 膝の上がり方、彼我の距離からして、ミドルであると英二は判断した。
 足の付け根の部分とほぼ同じ高さのミドルは、三種類のキックの中でも最も遠くまで
届く攻撃だ。今の距離ではハイ、ローは当たらないか、当たったとしても爪先がかする
ぐらいであろう。
 果たして、右のミドルキックが来た。
 英二はそれを左腕で抱え込もうとする。
 抱え込んで、軸足の左足を刈って倒す。定石といっていいほどにオーソドックスなテ
イクダウンの奪い方といえる。
 耕一の右足が英二の左脇腹へ吸い込まれるように到達する。
 瞬間、英二の左腕がその足を抱え込もうとするが、
「うっ」
 英二の口から呻き声が漏れていた。
 耕一のミドルキックの威力が予想を遙かに上回っていた。受けた脇腹に激痛が走る。
 なんとかそれを堪えて足を抱え込んだが、気付いた時には耕一の右拳が迫っていた。
 右足を抱えられたまま、上半身を前に倒して、それに乗せるように右ストレートを放
ってきていた。喰らったらタダでは済むまい。
 英二は顔を横に逸らしてかわした。
 耕一の右腕が、風を生んで頬をかすめていく。
 今のをかわせたのは偶然に近い。
 そして、かわせたからには、耕一が向こうから近付いてきてくれたこの状況は好都合
だ。
 耕一の頭の後ろに右腕を回して抱え込み、軸足を後ろから刈るのではなく、正面から
膝の下の辺りを押す。
 押して足を刈って倒すのではなく、引いて足を押して倒す。
 だが、そうやって引き込んで倒すと、そのままでは自分が下になってしまうので、倒
しざま、体を入れ替える。そして、入れ替えると同時に、相手の足を抱え込んだこの状
況ならばアキレス腱固めを極めに行く。
 サンボや柔術に見られる型だ。
 どのような形であれ、いかに相手を一回転させようとも、相手を背中から落とさねば
ポイントにならない柔道には無い型である。
 投げを主体にした柔道に比べて、投げという行為を、相手を倒すための「途中経過」
と見なしているサンボや柔術には投げと、相手を倒した後の関節技が一体となった型が
多いのである。
 サンボが柔道に大きな影響を受けた。といわれると同時に、むしろ柔術の影響の方が
強いのではないか、ともいわれる所以である。
 そして、英二が目論んでいるのはサンボにより近い動きである。そもそも、アキレス
腱固めというのはサンボの技だ。
 その手始めとして、耕一の頭を右腕で抱え込みに行く。
「!……」
 英二の右腕が作った輪の中をすり抜けるように、耕一の頭が沈んでいた。
 まずい、外した!
 どのような動作であろうと、それが相手に外されてしまえば、多かれ少なかれ、その
余波として隙ができる。
 耕一は頭を沈め、そのまま上半身を後ろに倒すのではなく、腰を下方に落とすように
倒れていった。
 右足を抱えた英二の左腕に力がこもる。
 ならばこちらも後ろに倒れ、倒れると同時に右足を耕一の右足の上に乗せて倒れた時
にそのまま足を押さえ、さらに左足をも絡めていって押さえつけ、耕一が体を起こせな
いようにする。
 これをしないと相手に体を起こされてしまい、極まらなくなる。
 アキレス腱固めは、自らの手首を下から相手のアキレス腱に接触させ、脇を上から足
首に接触させ、胸を後方に反らしてテコの原理でアキレス腱を断ち切ろうという技であ
るから、相手が立ち上がり、足の裏がマット乃至は地面についてしまうと極めようがな
い。
 しかもその場合、極められないだけならまだしも、相手に上になられてしまい、不利
になる。
 英二が右足を浮かせようとした瞬間。
 耕一の両手が英二の左足を掴んでいた。
 左手で足首を前から掴み、そして右手で膝の裏を押して倒そうとしてくる。
 向こうの仕掛けの方が早かった。
 だが、後ろから押されている左膝をされるがままに曲げて、それをそのまま耕一の顔
に落として行けそうだ。
 相手に膝を曲げられて落とす、という形であれば打撃技とは認められないはず。
 よし、思い切り……。
 落とした。
 耕一の左肘がそれを受け止めた。
 読まれていたか!
 耕一の左足が英二の左足の付け根の辺りに激しく接触してきた。それと同時に膝の裏
に当てられていた右手が下方に走って足首を捕らえる。
 英二の体が一瞬だけ踏ん張り、一瞬後には後方に倒れていた。
 その際に耕一の右腕が英二の左足を抱え込む。
 双方倒れて背中をマットにつけた時には、

 みちっ。

 微かな音が鳴っていた。
 アキレス腱固め。
「くっ!」
「む!」
 英二も耕一も表情を歪めて、すぐに横に回転する。
 一転、二転、三転。
「場外!」
 レフリーの声が降ってくる。
 二人は、互いに互いの足を解放して立ち上がった。
 英二は左足を──。
 耕一は右足を──。
 それぞれ、何度かマットを踏んで具合を見る。
 二人がアキレス腱固めの掛け合いという状況を嫌ったために近くまで来ていた場外ラ
インへ転がっていくという行動が一致したのである。
 いわば、暗黙の了解の内に行われた仕切り直しであった。
 試合再開後、耕一が前に出た。
 パンチを主体に、時折ローキックを交えて攻める。
 すぐさま英二は防戦一方となった。
「つあっ!」
 何度目かのローを貰った右足が弾けるように浮き上がる。
 前に進み、手を伸ばし、耕一が組み付いて来ようとする。
 英二の上半身が前屈して耕一の左脇をすり抜ける。
 明らかにボクシングの動きだ。
 横につけた。
 右フックを思い切り顔面に──。
 振った。
 ばちん。
 と、鳴った。
 グローブと頬が当たって鳴っていた。
 頬に当てた。
 いや、頬で受けられた。
 英二の胸中に苦渋が滲む。
 顔にある急所の幾つか……。
 顎。
 人中。
 目。
 その内の顎を、英二は狙った。
 閉じられた目をその上から打ってもダメージは与えられるが、なんといっても目標物
が小さい。
 人中も同様で、この上唇と鼻の間にある急所を打つにはグローブをはめていては駄目
だ。素手で、唇を殴るつもりで、中指の付け根の拳頭と呼ばれる部分を当てて行くのが
いい。
 そうなると、やはり顎だ。
 顎を思い切り打てば、首を支点にして頭部が揺れ、脳が揺れ、脳震盪を引き起こすこ
とができる。
 それを狙った顎への一撃。
 それが頬で受けられた。
 完全によけるのは不可能と見るや、頬で受けたのだ。
 顔を横に回転させるだけでは横から顎に当たる。
 顎を引いて堪えるにしても、少しずれれば口に直撃を受けることになる。前述した理
由により、人中にダメージを受けることは無いだろうが、前歯を折られてしまうかもし
れない。
 顎を上げれば喉に直撃。
 結局、耕一は顔を斜め下にずらすことによって頬で受けた。
 そしてすぐに横に回った英二を追って体を横に回す。
 瞬間、英二の右ストレートが疾走する。
 顔面に命中した。
 きれいに一直線に入った。
 どっ、と会場が沸く。
 英二が続けて左のストレートを打った。
 耕一のガードが下がっている。
 これも当たる。
 英二は確信していた。
 その左が伸びていく。
 当たる。
 あと少し。
 当た──。
 当たる寸前で、英二の左拳は停止していた。いや、停止するだけでなく、耕一の顔か
ら離れて行く。
「ぐっ!」
 腹部で何かが炸裂したような衝撃が生じて、英二の思考はぷっつりと断ち切られた。
 体が、一瞬だけ浮いていたことだけはなんとか理解できた。
「おおう……」
 なんとか、息を吐き出す。
 水月だ。鳩尾になんらかの攻撃を貰ってしまった。
 おそらく、いや、間違いない。左右どちらかは知らないが前蹴りだ。
 あの、伸ばしきった左腕でのストレートが届かなかったことから考えて、手による攻
撃というのはあり得ない。腕よりもリーチのある足による攻撃、腹部を真っ正面から突
いてきたことから前蹴りに違いない。
 相手の顔にばかり視線が行きすぎていたので気付かなかった。
 だが、それだけではない、英二の左ストレートに匹敵するほどの素早さだったという
ことだ。
 英二ほどにボクシングをやった人間のパンチスピードと同等の前蹴りを放つのはそう
そう簡単なことではない。
 例え、それが威力よりもスピードを重視した軽い蹴りであったとしてもだ。
 今の前蹴りは、それによって英二に大ダメージを与えようというものではなく、英二
の左ストレートを回避するための攻撃だろう。
 それゆえ軽い、が、さすがに水月に貰ってはそれなりのダメージだ。
 後ろに倒れてしまったためにダウンを取られた。
「大丈夫、やれますよ」
 そうレフリーにいいながら、英二はカウントセブンで立ち上がった。
 耕一が、闘っている最中の人間とは思えぬ穏やかな表情でそれを見ている。

 参ったな……。
 ある程度は覚悟していたものの、まさかここまでとは……。
 まさか、ここまで基礎的な部分で差があるとは……。
 恐ろしい男だ。
 観戦している人間には、英二がほぼ互角に闘っているように見えるだろうが、実際は
そんなに楽観できるような状況じゃない。
 英二は何度かひやりとしたが、おそらく耕一は一度もそのような感覚を味わっていな
いはずだ。
 正攻法で行ったら……勝てない。
 英二の目が細くなっていた。

                                     続く

     どうも、vladです。
     58回目になりました。
     取り敢えず60回を目標に頑張ります。
     うん……そのぐらいにしとこう。