鬼狼伝(57)  投稿者:vlad


 Aブロックの二回戦第二試合。
 一分二十四秒。
 アームロックから移行した腕ひしぎ逆十字固めで三戸雄志郎(さんのへ ゆうしろう)
が勝利した。
「すぱっ、と決まったな」
 と、いった浩之の横で雅史が頷く。
 それほどに格闘技に精通している雅史ではないが、今の試合は三戸が対戦相手を終始
押し続け、一度もピンチになることなく、無理もせず、きっちりとタップを奪って見せ
たことはわかる。
「Aブロックは、あっさりした試合が多いね」
「まあな」
 確かに雅史のいう通りで、元プロレスラー中條辰がKOされた耕一の試合や、劣勢に
追い込まれた都築克彦が意外な粘りを見せた浩之の試合など、Bブロックにあったよう
な激しい試合がAブロックには無い。
 試合時間も短く、あっさりと決まる。
 選手同士の実力差がある程度開いてしまっているような対戦が多かったためだ。
「だけど……あの三戸ってのなかなかやるぜ、月島さんがどう闘うかな」
 そういってから、浩之は背後を振り返った。そこに立っていた英二の意見を聞こうと
思ったのだ。
「あれ?」
 だが、そこに英二はいなかった。
「英二さん、どこ行った?」
「次が試合だから控え室に帰ったんじゃないのかな」
「ん……ああ、そうか」
 二回戦Bブロック第一試合。
 緒方英二VS柏木耕一戦は二十分の休憩時間を挟んで行われる。

 汗が背中を湿らせているのを、英二は感じていた。
 軽いウォーミングアップをしただけとは思えぬ量の汗が背中に浮いている。
 なんだ、これは?
 一瞬、全身を寒気が縦断したような感覚が襲う。
 寒い。
 冷や汗か、これは?
 怖いのか?
 おれは怖がっているのか?
 肯定。
 そうだ、怖がっているのだ。 
 おれはこれから始まる試合を怖がっている。
 こんな感じは始めてのことだ。
 似たような感覚は、学生時代にやっていたボクシングの試合で感じたことがある。
 最後の試合であった。対戦相手は打たれても打たれても闘うことを止めずに英二の前
にやってきた。
 まるで、殴られるためにやってきた。
 一発殴るごとに怖くなった。
 その時の怖さとはまた違う。
 その怖さは純粋にその対戦相手のタフさ、闘争本能の凄まじさに対して抱いたものだ。
 英二にとって本当に怖いのはそういうことじゃない。
 あの試合の後、打たれに打たれてボロボロになった男がいったのだ。
「……まだ……やれます」
 それを聞いた時、英二の中で何かが切れた。
 ぷつん、と音を立ててそれは切れていた。
 もうやりたくない……。
 そう思ってしまった。
 この相手と、じゃない、もうボクシング自体をやりたくなくなってしまった。
 その時、既に音楽の仕事をすることを決めていた。英二には進む予定の道があった。
 迷わず、その道を行った。
 ある意味で、あの時のあの試合で何かが切れたことが英二のボクシングに対する未練
を断ち切ったともいえる。
 その自分が今、こんなところにいる。
 エクストリーム大会の選手控え室にいて、自分の試合の時間が来るのを待っている。
 なぜ、こういう場所に戻ってきたのか……。
 心が──もうやりたくないはずだった闘う心が、もう一度やりたいといったからだ。
 自分の中の何かを切った男が、チャンピオンに打たれながら前に進む姿を見て──。
 藤田浩之という男が、叩き潰され、立ち上がるのを見て──。
 動いたのだ。
 柏木耕一が、月島拓也が闘う姿を見て──。
 闘う心が動いたのだ。
 英二はそれに従った。
 もう、迷いは無いはずだ。
 なのに、なぜ怖い。
 これから闘う柏木耕一が怖いのか?
 強い男だ。中條辰を轟沈させた攻撃を果たして自分が受け切れるのか。
 でも、殴られたり、蹴られたりすることはもう覚悟の上のはずだ。
 なんだ?
 一体、自分は何を怖がっているんだ?
 正体不明の怖さの正体を必死に探す。
 柏木耕一……彼自体を怖いとは思わない。むしろ、怖いとかそういう感情とは逆のも
のを人に抱かせる資質に恵まれた青年だと思う。
 柏木耕一の強さ……自分はそれが怖いのか?
 いや……彼の強さ自体ではなく、それがもたらすもの……。それが怖いのではないか。
 柏木耕一は、自分の闘う心を砕いてしまうのではないか……。
 かつて、死んだと思っていたその心。
 死なずに、自分の奥深くに眠っていたその心。
 段々と蘇ってきたその心。
 それを柏木耕一は「殺して」しまうのではないか?
 英二の肩に手が置かれていた。
「……君か」
 英二の前に藤井冬弥が立っていた。
「すいません、試合前に……」
「なんだい」
「理奈ちゃんが……表に……」
 ぼそりと小声で呟く。
 英二は黙って立ち上がった。冬弥の後についていくと廊下の行き止まりの場所に理奈
が立っていた。
「調子、どうなの?」
「まあまあさ」
 話している二人から少し離れたところに冬弥と由綺と弥生が立っている。見張りをし
ているのだろう。ただでさえ、英二がエクストリームに出場することで芸能マスコミの
注目が集まり、今日会場には普段は格闘技など扱わぬ雑誌の記者が姿を見せている。
 そのような状況で、試合を前にした英二と当日会場には行かないと発言していた理奈
が二人で話しているようなところが見つかったらすぐさま記者が集まってきてゆっくり
と話すどころではない。
「一回戦、見たわ……兄さんって思ってたより強いわね」
「ああ……だけど、次の相手は手強いからな」
「えっと……柏木耕一だっけ? あの元プロレスラーっていう人とやった試合すごかっ
たわよねえ」
「ああ……勝てないかもな……」
「……兄さん?」
 理奈の表情と声が、英二の口から「勝てない」という言葉を聞いた瞬間、一変してい
た。
「なによ、自信無いの?」
 それまで、どことなく突き放したような理奈の態度であったが、それが変わった。
「兄さん、調子悪いんじゃないの?」
 心配そうに、兄の顔を覗き込む。
「調子……悪そうか?」
「いつもの自分以外の人間を全部ナメきったようなふてぶてしさが無いわよ」
「……そんなに態度でかいかなあ? おれ」
「小さいわけないでしょう」
「まあ……なあ……」
 少しだが、自覚はしている。
「とにかく、なにか心配事があるならいってみなさいよ」
「いや……」
 心配事……怖いこと。
 闘う心が死んでしまうかもしれない怖さ。
 そんなこと、妹にいえるか。
「何も無い」
「嘘つかないでよ」
 理奈は即座に断定した。
「いってみなさいよ」
「無いって、本当に」
 英二が笑いながらいう。人を小馬鹿にしたような……と誤解されることが多い笑みだ。
「この期に及んでまた嘘をつくの?」
「また……って、おれ、そんなに嘘ついたことあるっけ?」
「あるわよ、長い間一緒にいるとわかるんだからね、今まで兄さんが嘘ついても黙って
たけど」
「……」
 何度か理奈に大嘘をついたことがあるが、それも全部お見通しだったのだろうか。
 あれと……あれと……いや、あれはバレてないだろう。あれがバレてたら何発か殴ら
れているはずで……。
「ちょっと、兄さん」
「ん、ああ、なんだ」
「いってみなさいよ」
「……無いって、本当だ。絶対に勝つよ」
 やっぱり……妹にそんなこといえるか。
「……」
 理奈はムッとして押し黙ってしまった。どうやら怒らせてしまったようだ。こうなる
と非常によろしくないことを英二は知っている。理奈の言葉ではないが長い間一緒にい
るとわかる。
「もういいわよ!」
 理奈はそういうと、さっと英二から視線を外して背を向けた。
「あ……」
 身を翻した理奈の前方に、二人の人間を伴った弥生の姿があった。理奈はその片方の
人間に軽く会釈するとそのまま何もいわずに去っていった。
「お二人のお知り合いですので、私の判断でお通ししてしまいましたが、お取り込み中
でしたか」
「あ、いや、弥生さん、気にしなくていいよ」
 英二が横に手を振って苦笑する。
「静香さん、目は大丈夫ですか?」
 そして、右目に眼帯をした御堂静香に声をかける。
「はい、ちょっと目の上が腫れてるだけで、眼球自体はなんともないですから」
「それはよかった」
「試合頑張って下さい、それだけいおうと思って」
「ああ、ありがとう」
「あの……私、理奈ちゃんとちょっと話して来ます」
「……ああ、お願いします」
 英二は少しだけ悩んでからいった。どうせあのまま放っておいてもしばらくすれば機
嫌は直るだろうが、静香から何かいってもらった方がよいだろう。
 弥生も一礼してその後に続き、そこには英二と、そして柳川だけが残っていた。
「君は行かないのか」
 英二がいった。
「おれが行ってもなんにもならない」
「……だろうね」
 ふっ、と沈黙が満ちる。
 英二は居心地の悪さを感じて、この、静香の法的根拠の無い保護者の前から消えよう
とした。
「おい……」
 背中に、低い声が当たった。
「もう少し、妹に気を遣った方がいいな」
「……聞いていたのか」
「けっこう、大きな声で話していたからな、特に妹の方が」
「……気は、遣ったつもりだが」
「そうか?」
「……」
「何か不安があるのなら話してみてもいいかもしれんな」
「驚いたな」
「何をだ?」
「君は、他人のそういうことには首を突っ込む人間には見えなかったんだが……」
「基本的にはそうさ」
 柳川の顔に自嘲的な苦笑が浮いた。
 この男のいう通りだ。自分は、そういう他人事には無関心、無干渉を押し通してきた
人間であるはずだ。
「妹に心配はかけられないさ」
「一応、妹のことを大事にしたいとは思っているんだな」
「それはそうさ」
「互いに補い合うことも必要なのではないのか」
 自分の口からそのような言葉が出ていたことに、柳川自身が一番驚いていた。自分が
そういうことをいう人間だとは思っていなかった。
 だが……今日、ついさっき、気付いたのだ。
 自分が保護者のように思っていた人間が、実は自分に対してある種類の力を与えてく
れていることに──。
 思えば、あの時だってそうだった。
 あるきっかけで出会って以来、自分を慕ってきた青年に対して、自分は明らかに守る
べき対象という考えを持っていた。だが、自分はその代わりに貰っていた。
 青年から──貴之から──色々なものを貰っていた。
 柳川が思うに、この男はずっと妹を自分が一方的に保護するだけの存在だと思ってい
たから、そのことに気付いていないのだ。この男だって、妹に何かを貰って生きてきた
はずなのだ。
 だが、それを告げるのは行き過ぎだと思う。いらぬお世話というやつだ。
「少し、喋りすぎたな」
 それだけいって、柳川は去った。

 中央線に立つと、目の前にいた男が握手を求めてきた。
 差し出された手を無言で握る。
 相手は落ち着いている。
 自分も落ち着かねばならない、と思うものの英二の中で釈然としないものがくすぶっ
ていた。いうまでもない、先ほどの柳川の言葉だ。
 自分は理奈に心配をかけたくなかった。
 だから何もいわなかった。
 自分は理奈に打ち明けるべきだったのだろうか。闘う心が殺されてしまかもしれない
怖さのことを。
 話していれば、少しは気が楽になっていたのかもしれない。
 ずっと、保護の対象だと思っていたが、理奈だってもう大人だ。保護されてばかりで
はないし、理奈自身があの時、少しでも兄の役に立ちたかったのではないのか。
 やっぱり……理奈に話しておけばよかったか……。
 わっ。と歓声が上がる。
 英二の意識が試合場──闘う場──へと呼び戻された。
「!!……」
 始まっていた!
 レフリーの「はじめ」の声に気付かなかったのだ。
 なんたる不覚か!
 耕一は既に至近にあった。

 ぶん。

 唸りを上げてやってきた右のストレートを後ろに下がってかわした時、耕一の腕が起
こした風が英二の顔に吹き付けた。

                                     続く  
     どうも、vladです。
     57回目であります。
     今回、えらい難産。
     英二と耕一の闘いなんてイメージ浮かばん。
     まあ、マッチメイクしたのはおれなんですが(苦笑)
 
 
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