鬼狼伝(56)  投稿者:vlad


 浩之が試合場を下りた時、横合いから手が現れた。
「やったな」
 その手を目で辿っていくと、そこにはにやりと笑った耕一の顔があった。浩之はその
手に自分の手を打ち合わせる。
「次も勝てよ」
「耕一さんこそ」
 そういって、浩之は試合場を後にした。一応、医務室に行って軽く手当を受けておく
つもりだ。次の試合までの時間はそう長くは無いが、やらないよりはマシであろう。
「浩之、けっこうひやっとしたよ」
 にこにこしながら雅史がいう。皮肉と取れないこともないがいっている人間が人間だ
けにそのようには全く聞こえない。
「心配かけたな」
 浩之は苦笑した。ようやく、笑みを浮かべる余裕が生じていた。
「都築選手はどうだった?」
「やな野郎だな」
 浩之は即答した。雅史は困ったような表情をした。
「やっぱり、なにかいわれたの?」
「ああ……思い出すのも嫌なんであんまいいたかねえけど、あかりのこととかな」
「うん」
 雅史は頷いた。浩之が思いきり不用意に突進してカウンターを貰ってしまった場面が
あったが、それはそういうことだったのだ。
 付き合いの長い雅史は浩之があそこまで憤激するのはあかりのことで何かいわれたの
ではないかとほぼ確信していたが。
「でもな」
「うん」
「なんていえばいいんだろうな……手抜きとか、そういうことは絶対にしない奴だった
よ」
「相手も必死だったんだね」
「……とにかくあの野郎、自分の持っているもん全部をぶつけて来たよ」
 浩之は軽い脳震盪を起こしていたものの、もはやそれからは立ち直り、外傷も無く、
ダメージの蓄積も無いので次の試合をするのになんら問題は無し、とのありがたいお言
葉を医師から貰った。
「そういえば……都築くんがそこに寝てるよ」
 何気ない医師の言葉に、浩之は「そこ」に視線を走らせた。
 衝立の向こう側に確かに人の気配がした。
 浩之は椅子から立った。
 自分が何をしようとしているのか、それすらはっきりとわからぬままに衝立の向こう
側へと足を踏み入れた。
「あっ」
 と、浩之の顔を見て声を上げたのはベッドの傍らに付き添っている若い男だった。浩
之よりも若い……まだ中学生なのではないだろうか。
「なんだ」
 そういいながらうっすらと目を開いた都築の表情に驚きは無かった。
「よう、藤田」
 笑ってはいない。
 怒ってもいない。
 恐れてもいない。
 試合中のように無表情で無感情なわけでもない。
 その時、都築克彦は不思議なほどに無垢な表情で浩之を見上げていた。
 覇気。
 勝ちたいという気持ち。
 それらの種類のものがその表情には一切無かった。
 試合中の都築は確かにそれを持っていた。パンチを喰らう度に浩之はそれを感じるこ
とができた。
 それが今は無い。
「藤田よ、おれは引退することにしたよ……ま、引退っていってもおれはアマチュアだ
し小物だからな……別にそれがどうってことも無いんだがな」
「格闘技……止めんのかよ」
「格闘技は続けるよ……やっぱり、好きだからな」
 いいながら、より一層それを確信していた。自分はやっぱり、格闘技が好きなのだ。
「ただ……もう上を目指すのを止めるよ」
 そこに横たわっているのは一個の抜け殻であった。
 この場合、都築が使った「上を目指す」という言葉は、今より強くなるというような
意味合いではない。
 どのような人間でも格闘技をやる以上そういう気持ちを持っている。今よりも強くな
りたいと思っている。
 その中でもプロになったり、道場を持ったりする人間は極わずかな一握りの存在であ
る。
 その一握りの存在が都築のいう「上」であった。
 格闘技をやる人間の多くは、はじめからそのような夢は持っていない。それぞれがそ
れぞれなりに自分の限界を見極めてその範囲内で強くなろうとする。
 一部に、夢を持つ人間がいる。
 そして、そのまた極一部が夢を実現する。
 さらに、そこから数えるほどの少数の人間たちがそれぞれの格闘技の世界で頂点に立
つ。
 都築克彦は、まさか自分が頂点に立てるとは思っていなかった。
 だが、その前の段階は可能なのではないかと思った。
 そして闘って闘って、自分の限界がぼんやりとだがわかった。
 はっきりとした輪郭を持ったラインではないが、自分の限界というものがわかった。
到底、自分は夢を実現できる人間ではない。
 結局、自分は、夢を持ちながら、それを実現できなかった種類の人間なのだ。
 それがようくわかった。
 色々とやった。
 手段を選ばないことだってあった。
 その結果は、エクストリーム一回戦敗退。
 これ以前にも何度か他の大会に出たが、そこでもせいぜいが準決勝まで行ける程度。
 浩之は、都築の言葉を使えば「上を目指している人間」である。
 先程までは……互いに拳と足刀を交換し合っていた時までは、都築も浩之と同じとこ
ろにいる人間だった。
 だが、もうそれが無い。
 そういった意味で、都築はもはや死者であった。
「おれはここまでだった」
「……」
「一応、おれなりに努力もして、おれなりにやれることは全部やったつもりだったがこ
こまでだった」
「……」
「お前は、おれより上に行くんだろうな」
「当たり前だ」
「お前は、そういう種類の人間だよ」
「……」
「こいつ……」
 と、都築は自分の枕元に佇立している青年を見やった。中学生ぐらいと思われるまだ
幼さの残った顔立ちをした青年は浩之から見ても、なかなかいい体をしていた。
「おれのジムの後輩だ。タッパ(身長)もあるし、才能もおれなんかより全然ある」
「とんでもないっス」
 その後輩は照れたように俯く。
「明日から、こいつにつこうと思ってな」
 後進を育成する道に、都築は進もうとしていた。
 こいつに夢を託そうとか、そういうことを考えていないといえば嘘になる。
 が、それよりも、別の気持ちが強かった。
 おれは駄目だった。
 だが、おれよりもずっと才能があるこいつがどこまで上がっていけるのか──。
 それが見てみたい。
 それの手伝いがしたい。
「こいつも、おれよりずっと上に行ける人間だ」
 都築は澄んだ声でいった。

 控え室の隅に陣取って浩之は椅子の上に胡座をかいて腕組みをしていた。
 医務室から控え室にやってきてそこでその体勢になってから少しも動かない。
 時折、まばたきをしているだけだ。
 雅史は彼を気遣って声をかけずにいる。
 浩之は下を見ている。
 視線の先に、自分の二つの拳があった。
 その拳が乗っているのは自分の脚だ。
 ここ数ヶ月、人を打ち、投げ、極め、制圧するために鍛えに鍛えて、既に凶器と化し
た自分の体だ。
 今日も、先程、そのために活動したばかりだ。
 その結果、都築克彦という男が浩之と同じ世界から去っていった。
 都築克彦という男が持っていた夢が消えた。
 それを、すまないと思う気持ちも──。
 それを、負けたのだから当然と突き放す気持ちも──。
 どちらの感情も浩之の中には無かった。
 ただ、夢を持っていた男がいて、それを倒した自分がいる。
 そして、自分にも夢がある。
 一人の男の夢に自分が引導を渡した。
 今までの野試合ではあまり感じなかった気持ちが浩之に芽生えていた。
 これか。
 こういうことか。
 他人の夢を潰すとはこういうことか。
 それが当然のこととして存在する世界だ。いや、格闘技に限らない、二人以上の人間
が一つの場所を目指して競争する世界では、日常茶飯事のように起きていることだ。
 それでも、いいのだ。
 他人の夢を潰してもいいのだ。
 向き合う二人の人間は対等だから、いいのだ。
 どっちも潰すつもりでいる。
 だからもちろん、どっちも潰されることもあることを覚悟している。
 結果、潰されたとしても相手を恨みようがない。
 恨むのならば自分だ。自分の努力の足りなさ、自分の精神の弱さ、自分の読みの悪さ、
それらを責めて責めて責め抜いて、明日への糧にするしかないではないか。
 そこで泣き言をいうような奴は覚悟が決まっていない中途半端な偽物だ。
「その点……あいつは本物だったな」
 ぼそり、と浩之は巡り回る思考の中で思わず口に出していた。
「浩之」
 それまで、彼をずっと見守っていた雅史がようやく声をかけた。
「ん、おう」
「二回戦の第一試合が始まるよ、見に行こうよ」
「ああ……」
 二回戦第一試合と聞いて浩之はすぐに立ち上がった。かつて手を合わせたことのある
月島拓也の試合だ。
 自分がこのまま勝ち上がっていけば優勝決定戦で当たるかもしれない相手だ。
「おし、行くぞ」

「また下になった」
 英二が呟いた。
 試合が開始されてから二分あまりの間に、これで三回目だ。
「よし、まだ終わってねえな」
 そういいながら小走りにやってきたのは浩之と、そして雅史だ。
「どんな感じです?」
 英二の姿を見付けて声をかけてくる。
「月島くんが押さえ込まれてるよ」
「え……」
 と、視線を試合場に転じると、今正に、拓也が相手選手に押さえ込まれていた。柔道
でいう横四方固めに近いかたち、いわゆるサイドポジションともいう体勢になっている。
 腕を極めようとしてくるのをかわして、なんとか体勢を入れ換えていく。
「動きが鈍いな……おれとやった時みたいなキレが無いぞ」
「一回戦で精英塾の深水征とやった時のようなキレもね」
 拓也が相手にしている選手は、英二が見るところ、明らかに浩之や深水よりは一つ二
つ実力が下のようだ。
「あの程度の相手ならグラウンドになっちまえば三十秒で行けるだろうに……」
 不思議そうな浩之の声に英二も同感であった。
「三分過ぎたか……」
 電光掲示板に映し出された時計がそれを告げていた。
「おっ!」
 浩之と英二はほぼ同時に声を上げていた。
「動きがよくなった」
 これも、二人同時にいっていた。

 三分間待った。
 もしかしたら……という思いをずっと三分間持ち続け、待ち続けたが、やはり駄目だ
ったようだ。
 相手の選手、一回戦を勝ち上がってきただけに悪くないものを持っているが、惜しい
ことにまだ若く、場数を踏んでいないようだ。
 正式な試合の経験はほとんど無いながらも、幾度も、凄まじい緊張感を強いられる闘
いを経験済みの拓也にとっては、精神的にそれほど怖い相手ではなかった。
 純粋に技術面だけを見ても、グラウンドに引きずり込んでしまえば確実に自分が有利
だ。
 それでも、三分間待った。
 待つ内に、相手の緊張が取れてくるのではないか?
 待つ内に、相手が思わぬ力を発揮してくるのではないか?
 待つ内に、相手が自分を喜ばせてくれるのではないか?
 そう思って待った。
 だが、諦めた。
 三分が過ぎた。
 丁度、互いにもつれ合うようにして有利なポジションを取ろうとして体は密着してい
た。
 ぽつり、と。
「君じゃ駄目だ」
 呟いた。
 それが合図だった。

「おっ……おっ……おっ……おおっ!」
「ふむ……ふむ……ふむ……へえ」
 浩之と英二がそれだけをいう間に、拓也が腕ひしぎ逆十字固めを極めタップを奪って
いた。
 試合時間は三分十秒。
 しかし、実際の試合時間がせいぜい三十秒程度に過ぎぬことを浩之も英二も、そして、
二階席にいた耕一も、そして、この試合が始まる直前、顔に眼帯をした御堂静香ととも
に会場に帰ってきた柳川も看破していた。

                                     続く

     どうも、vladです。
     五十六回目に到達いたしました。
     ここ2,3話、気負いすぎです。
     力みすぎです。
     肩に力が入り過ぎです。
     自分でわかっちゃいるんです(苦笑)