鬼狼伝(55)  投稿者:vlad


 来た!
 浩之が踏み込んで右ストレートを打ってきた。
 カウンターを合わせてやれ。
 自分が唯一つ誇ることのできる武器を思い切り叩き付けてやれ。
 瞬間、凄まじい違和感が都築を襲っていた。

 おかしいぞ。なんであいつの拳がもうこんなところにあるんだ。

 今までの試合で幾度も攻防をしながら都築は浩之のパンチスピードというのを見切っ
たつもりでいた。
 大体、この程度の速さだろうと想定していた。
 それを越えてきた。 
  ……!
 速い!
 間に合わ……。

 右ストレートが一閃し二人の男を繋ぐ。
 寸瞬だけ繋ぎ合わせる。
 一瞬だけの邂逅。
 そして、片方の男が倒れた。

 右腕を高く上げた。
 雅史をチラリと見て笑いかける。
 そして、あかりを探して視線を観客席に走らせる。
 頭の黄色いリボンを目印に探していると、西側の席にあかりはいた。前から四列目だ
から目鼻立ちまでくっきりとわかる。
 目と口を大きく開いている。
 心配そうな顔だ。
 一度、思い切りダウンさせられてしまったので少々心配をかけてしまったようだ。一
回戦はもっと安心して見られる試合をしてやろうと思っていたのだが……。
 まあ、なんにせよ終わった。
 あかりに手を振ってやるか。
「藤田」
 ん? レフリーのおっさんか、何の用だ。ああ、おれの腕を上げて勝ち名乗りか、ち
ょっと待ってくれ、あかりに手を振って……。
「藤田、かまえて」
 かまえて……って……まさか、野郎。
「立ってやがる……」
 浩之は、呟いた。
 その視線の先に都築克彦が立っていた。

 衝撃が頭を突き抜けた時に自分の気持ちは終わっていたはずだった。
 そもそも、あともう一発いいのを貰ったら終わりにしようと思っていた。そうしたら
思い切り後ろに倒れて、そのまま大の字になって、カウントテンを聞いて、相手の勝ち
名乗りを聞いて、寝てしまおうと思っていた。
 それで終わり。
 終わるはずだった。
 倒れた瞬間はそう思っていたのだ。
 倒れて三秒ぐらい休んで、一応、起き上がろうとしてみた。なんとか、起き上がれな
いことも無さそうだった。
 このまま寝ていよう。
 その想いが頭に浮かんだ。
 そう決めていたじゃないか、それにどうせ起き上がったって勝てるとは限らない。
 そろそろ幕の引き時なんじゃないのか。
 その想いが浮かんだ。
 だけど……。
 想いが浮かぶ。
 さっきの藤田のパンチスピードは自分の予想を超えていた。   
  だけど……。
 今まで自分が目の当たりにしたパンチの中で一番速いというわけじゃない。あれより
ももっと速いパンチを自分は喰らったことがある。
 あの時もカウンターを打とうとして、でも、間に合わなかった。
 でも、あの時は惜しかったんだ。もう少しだった。
 それを合わせて考えると……自分のカウンターは藤田のパンチスピードに絶対に対応
できないわけじゃない。
 上手くやれば十分に合わせられるスピードだった。先程は、こちらで勝手に相手の限
界を見切ったつもりになっていたから喰らってしまった。
 もう一発あのぐらいのパンチを打たれたら、カウンターを合わせることは不可能じゃ
ない。
 ……やってみようか。
 もう少し……もう少しだけやってみようか。
 浮かぶ。
 様々な想いが浮かんでは消えていき、気付いた時には都築は立ち上がっていた。

 左のジャブを右腕でガードした。
「くっ……」
 それを受けた時に生じた振動すらきついと思える。
 都築は下がっていく。
 あまり近付いて組み合いになってグラウンド勝負に引きずり込まれるのを恐れている
のだ。
 第1ラウンドに一度だけグラウンドでの攻防になったが、浩之は都築を圧倒していた。
しつこく粘る都築を手っ取り早くしとめるために今度は浩之の方からグラウンドへ舞台
を移してくることは十分に考えられた。
 なんとか今のところそれは避けられている。
 だが、浩之が繰り出してくる攻撃に都築はなんとかクリーンヒットをまぬがれている
状態であった。
 防御するのに精一杯でとてもカウンターを打つ余裕などは持ちようがない。
 甘かった。
 自分の体はもう既に限界近くまで酷使されて疲れ切っているのだ。それを計算に入れ
ていなかった。
 腕が重いのが辛い。
 やっぱり、あのまま寝ていればよかった……。
 軽いジャブを当てられながら思った。
 また自分の悪いクセが出てしまった。
 今まで何度も、止める機会はあった。
 格闘技は続けるが、もうプロになろうとか大会で優勝しようとか、分不相応の夢は持
たないようにしよう。
 そう思ったことは今まで何度もあった。
 でも、あと一試合……次が最後と未練がましく、もう掴めない夢をまだ掴めると信じ
てここまで来てしまった。
 そして今はどうだ。
 あと一発……あと一発カウンターを決められたらもう悔いは無いと思っている。
 ついにここまで追い込まれたか。
 あと一試合があと一発に……そこまで追い込まれたのか、自分は。
 だが、その一発すらももはや遠いところにあった。
 殴られ、蹴られ、ふらふらになりながら逃げ回っているだけだ。
 そして、それが精一杯なのだから我ながら情けなくなってくる。
 浩之の右の前蹴りが都築の腹部を狙って突進してきた。
 都築はできるだけ下がったが逃げ切ることができなかった。
 突き飛ばされるように都築の体が後方に泳ぐ。
「場外!」
 レフリーの声ではじめて自分がライン外に出てしまっていることに気付いた。
 腹部に鈍い痛みがある。
 だが、なんとか水月への直撃は避けられた。今のを水月に喰らったら……いや、急所
のどこにどのような攻撃を喰らっても自分はもう駄目だ。
 中央線に戻ろうとする時、男の声が聞こえた。
「もう駄目だよ、止めさせればいいのに……」
 騒然とした声の群れの中からそれだけが妙にはっきりと聞こえた。
 それに答えるように起こった女の声もはっきりと聞こえた。
「あの人、あんなになっちゃって可哀相」
 ……。
 チッ。
 と、先に中央線まで戻っていた浩之がやってきた都築を見て舌打ちをする。
「何を笑ってやがんだ。気色悪ぃ」
「ふふ……」
 そうか。
 そうか、やっぱり自分は笑っているのか。
「そんなので小馬鹿にして挑発しようたってもう引っかからねえぞ」
「ふふ……」
「……ふん」
 鼻を鳴らして浩之がかまえる。
 都築もそれに応じるようにかまえて、試合が再開された。
 浩之は挑発にはもう乗らないといいながらも余程都築の笑みが癪に触ったのか強烈な
攻撃を叩き込んできた。
「ふふ……」
 必死にそれをガードしながら都築は笑っていた。
 心の底から笑っていた。
 浩之をではない。挑発のためでもない。
 心の底から自分自身を笑っていた。
 これがおれの結果か。
 死に物狂いになってカウンターを練習して、口で相手を挑発して、せこいとか臆病と
か卑怯とかいわれながらここまでやってきた。
 そしてこの大舞台になんとか上がっている。
 そして殴られ──。
 蹴られ──。
 挙げ句の果てには観客に哀れまれて──。
 これが──。
 これが凡人が夢を掴もうとした結果か。
「ぐう……」
 浩之の左のショートフックが顎をかすめる。
 大した威力ではないが、喰らった箇所が箇所だけに脳味噌を直接叩かれたような衝撃
が都築を襲う。
 ここで終わりか。
 自分の夢の終着点はここか。
 浩之の追撃から逃れようと後方に退こうとして足が滑った。もう足も満足に動かなく
なっているのだ。
 背中でマットを叩いた。
「スリップ!」
 辛うじてダウンは取られなかったようだ。
 しかし、それでも今の自分には立ち上がるというそれだけの行為が非常に困難だ。
 なんとか……立った。
「都築!」
 自分の名が呼ばれたような気がした。
「都築!」
 また聞こえた。
 試合は再開されて、浩之の攻撃が始まった。
「都築!」
 まただ。
 おそらく、ジムの連中だろう。
 今日、都築のジムの連中は皆この会場に来ていて自分を応援してくれている。
 今までも時折声援を上げてはいたのだろうが、最後の最後のこの状況になって一段と
それが大きくなったのだろう。
 ありがたい……。
 あと一発……。
 もう夢は諦めた。だが、その自分が最後になんとしても掴みたい最後の一発。
 それを掴むための何よりの原動力だ。
「都築!」
 その声が連なって聞こえる。
 随分、大声を張り上げているな。
 大きなうねりのような声。
 ……十人や二十人程度が出す声じゃないぞ。
 練習生が二十人いないようなうちのジムの連中にこんな大声援が出せるのか。
「都築!」
 これは……。
 百人……二百……三百……いや……桁が一つ多い。千人ぐらいの人間が出す声だ。
 この会場には一万人前後が入っている。
 それの一割程度が自分に声援を送っているのか。
 哀れんだあまりの声援か。
 いや……そんなことはどうでもいい。とにかく、おれの名前を叫んでいる人々がいる。
 もう夢は諦めた。
 でも、今──。
 夢の欠片ぐらいはこの手に──。
 都築は右手を強く握り締めた。
 浩之が踏み込んでくる。
 右のストレートが来る。都築はそれに賭けた。
 先程のそれのスピードを越えていないのなら決められる。
 今なら合わせられるような気がした。
「!……」
 浩之の右ストレートが伸び切らぬ内に都築の頭部はその延長線上から消えていた。
 都築が、右でカウンターを放つ。
「っ!……」
 驚いたか、藤田。
 こっちは、こればっかりやってきたんだよ。
「っっっ!!……」
 喰らえ。
 体の中に残っている体力も筋力も気力も総動員だ。
 こいつを喰らえ!
 
「ダウン! ワン! ……ツー!……」
 レフリーのその声を都築克彦ははっきりとはしない意識の中で聞いていた。膝を曲げ、
腰を落とし、腿の上に腕を乗せ、頭を垂れてマットを見ていた。
 甲高い歓声がどよめきに変わっていく。
 カウントファイブの辺りで、浩之が自分の頭を軽く小突きながら起き上がろうとして
いた。
 そうだ。
 ここで、あの程度で倒れるような奴じゃない。
 調べたところ、あの藤田浩之というのは格闘技を始めてまだ一年も経っていないらし
い。その前に何かスポーツをやっていたとしても、やはり驚異的なことだ。
 もっと経験を積めばもっと強くなるだろう。
 自分が上がってきた階段などは一段抜かして駆け上がっていくような種類の人間だ。
 だから……藤田よ。
 お前は、おれみたいな小物は悠然と踏み潰して行くぐらいじゃないといけない。
 けっこう辛そうだな、藤田よ。
 おれもおれなりに一矢報いたってことか。
 立ち上がって……ファイティングポーズを取ったな。ギラギラしたいい目をしてやが
るな。すぐにでもおれをぶち殺してしまいたいって目だぜ。
 でも、悪ぃな。
 おれは、もう駄目なんだ。
 もう、寝るよ。
 それで、これで最後なんだ。
 だから、もうお前の相手はしてやれない。
 お前はまだ殴り足りないんだろうけど、まあ、勘弁してくれ。
 それじゃあ……。
 おれは……もう、寝るよ。
 ここから去るよ……。

「おい」
 立ち上がりファイティングポーズを取って前方を見据えた浩之はレフリーにいった。
 自分の肩を越えて後方に走る浩之の視線を追ってレフリーが振り返る。
「おい、担架を!」
 離れた位置から見ても、もう完全に気を失っているのがわかったのだろう、担架を持
ってくるように指示を出してからレフリーは浩之に背を向けて小走りに走り出した。
 大の字に寝転がった都築の元へと。
 ゴングが激しく乱打されていた。

 八分五十秒(第2ラウンド) TKO 勝者 藤田浩之
   
                                     続く

     どうもvladです。
     55回目までこぎつけました。
     最近ストック無くなってきてちときついんですが、楽しいですわ、
     これ書いてると。