鬼狼伝(54)  投稿者:vlad


 都築克彦は白い世界にいた。
 上下左右の感覚がまるで無く、真っ白い世界に放り出されている。
 だが、段々と自分がどうなっているのかがわかってきた。
 ゆっくりと、だが確実に落ちている。
 どこかへ落ちていく。
 落ちちゃいけない。
 無我夢中で上ろうとする。
 無我夢中で這い上がる。
 這い上がって、這い上がって、這い上がった先に。
「都築! できるか!?」
 男が何かを自分に問い掛けていた。
 都築は半ば無意識の内に、頷いていた。
 男の肩の向こうに、もう一人の男がいる。
 鋭利な眼光を炯々と輝かせて自分を見ていた。
 そうか。自分は──。
「できます」
 あの男と闘っていたんだ。
 その眼光を自分の眼で受け止めた時、ゴングの音が鳴っていた。

 天の助けといっていいインターバルだ。正直、あの後すぐに試合を再開したらろくに
動けぬまま攻撃を貰って再び倒れ、そのまま起き上がることはできなかっただろう。
 頭を軽く振りながら休息する。
 体を休ませながらも、頭は働いていた。
 今のラウンドの何が悪かったのか。
 あのカウンターは良かった。いいタイミングで入った。
 カウンターは得意とするところだ。と、いうより、都築にとってそれが唯一の得意技
といっていい。
 165……身長はそれほど高い方ではない。高校生の頃から総合格闘技を始めて何度
も試合経験があるが、自分よりも背の低い相手はあまりいなかった。
 そんな都築の持ち味はスピードだった。
 素早い動きで相手を翻弄する。
 通っているジムでは一番速く、自分とスパーリングをするとわけがわからないと皆が
いっていた。
 二年前に小さな大会に出場した。このエクストリームよりも遙かに小さな大会だ。ど
こかのプロの総合格闘技団体がアマチュアトーナメントを開催したのだ。優勝者には、
プロデビューが約束されていた。
 都築はそれに出場した。
 もしかしたら、プロになれるかも……という考えを持っていた。
 だが、甘かった。
 通っていたジムがそれほどレベルの高いところだとは思っていなかったが、それでも
そこのジムではトップクラスの自分だ。そこそこいいところまで行くと思っていた。
 一回戦、自分よりも10センチ以上背の高い選手と当たった。
 持ち前のスピードで掻き回して……。
 もちろん、そう思っていた。
 それは、ゴングが鳴った直後だった。
 相手が近付いてきた。
 そして、ふっと消えた。
 右!
 察知した時には顎が揺れていた。
 素早い。
 自分より遙かに素早い。
 自分はそんなに長身でなくても、その分スピードがある。そう思っていた。
 だが、そいつは自分より長身で自分よりもスピードがあった。
 レベルが……違う。
 勝てない。
 思った時には意識が無くなっていた。
 その試合の後、スピードをつける訓練をしながらも限界を感じていた。
 自分は格闘技が好きだ。
 でも、自分にはそれほど才能が無いのではないか?
 才能は持って生まれた先天的なものと、幼児期に培われた後天的なものと、大雑把に
分けてその二種類がある。
 自分には前者は無い。
 そして、後者も無い。
 格闘技を始めたのが遅すぎた。それまで何かスポーツでもやっていればなんとかなっ
たのだろうが、中学生の頃までほとんど体を動かすようなことはしなかった。
 高校生の頃、急に始めてしまった。
 急にのめり込んでいき、いつしか夢を抱くようになっていた。
 プロになれるんじゃないか?
 そういうことを思いながら練習し、上達し、ますます夢を掴めるような気になって、
遂にその夢への門を叩いてしまった。
 そこには自分など問題にしないほどの人間たちがひしめき合っていて、自分はすぐに
そこから弾き出された。
 これなら負けないと思っていた武器も通用しなかった。
 それよりも鋭利な武器を持ちつつ、自分が持っていない武器を持っているような連中
が互いにしのぎを削る世界がそこにあった。
 何か新しい武器が欲しかった。
 そして都築が見出したのがカウンターだった。
 非力な自分のパンチでもカウンターで決まれば数倍の威力を帯びる。
 何度も特訓した。
 スーパーセーフと呼ばれる、一部の空手流派の試合で使用される頭部を守る防具をつ
けて同じジムの練習生に殴りかかってもらって練習した。
 都築の方は基本的に寸止めだが、相手の方には思い切り打ち抜くようにしてもらった。
 例えスーパーセーフをつけているとはいえ、何度も喰らえば脳震盪を起こして頭がグ
ラグラと激しく震動する。
 それで気分が悪くなって吐いたこともあった。
 それから何度か試合をして、勝ったり負けたりしていたが、ある時、カウンターが顎
に入った。
 一発だった。
 それまで劣勢だった試合をひっくり返す一撃。
 自分は、凄い武器を手に入れた。
 その時の手応えがいつまでも腕に残った。
 しばらくすると、相手が対策を練ってきた。カウンターを封じる一番手っ取り早い方
法は「待つ」ことである。
 前に出て行かない。そうすれば当然、カウンターなど決めようが無い。
 結局、膠着状態が続く試合が多くなり、あいつの試合はつまらんといわれるようにな
った。だが、とにかく勝利を貪欲に求めていた都築にとってはその周りの声などはさし
て気にはならなかった。せっかく上がり始めていた勝率が振るわなくなってきたことだ
けを気に病んでいた。
 ある時、焦れに焦れて口で挑発してみた。
「怖いのか?」
 とか、そういう類の言葉で挑発すると、相手選手はすぐに突っ込んできた。
 狙い澄ましたカウンターを顎にヒットさせて倒した。
 後でわかったことだが、相手の陣営では都築のことを「大した選手ではないがカウン
ターだけが異常に上手い」と認識してとにかくカウンターを喰らわぬように前に出ない
ことを徹底していたという。
 実力的にはその選手は都築などより遙かにレベルが高かった。しかし、とにかくカウ
ンターを警戒して慎重に試合を進めていたところへ、格下と思っている相手から「怖い
のか?」といわれれば思わず激昂してしまうのも無理はない。
 それから、それを多用し始めた。
 いつしかそのことが有名になり、あまり誇れないあだ名も頂戴したりしたが、今更そ
んなことに構ってはいられない。
 とにかく、勝つことだ。
 何をしてでも勝つことだ。
 その勝ち方がせこいといわれても、もうそれしかないのだからしょうがない。
 今日の試合も上手くいったはずだった。
 相手の藤田という選手は明らかに自分を上回る実力を有していたが何度も挑発されて
遂に怒り狂って突進してきた。
 そこへカウンターを合わせて、終わるはずだったが終わらなかった。
 あそこまで見事なタイミングでカウンターが入ったのに起き上がってきた相手は久し
ぶりだった。
 だが、しばらくは脳震盪の余波が根強く残り、満足な動きはできないはずだ。
 それを見越して一気にラッシュをかけた。
 一方的に攻撃している内に段々と自分で興奮してくるのがよくわかった。考えてみれ
ば、ずっと今までカウンター狙いの待ちの戦法ばかりを取ってきたのだ。それが失敗し
た時は一気に倒されたし、成功すればそれで試合は終わった。
 自分が一方的に攻め続ける状況など久しぶりだった。
 倒しに行った。
 無我夢中で拳と足刀を送り込んだ。
 このラウンドで決めねばインターバルの間に脳震盪のダメージを大幅に回復されてし
まう。
 そう考えてラッシュを始めたはずだったのに、いつしかそんなことが頭の中からふっ
飛んでいた。
 倒せるのではないか?
 このエクストリームの大舞台で行けるんじゃないのか?
 待って勝つんじゃない、前に出て思い切り相手を殴って蹴って倒す。
 それができるんじゃないのか?
 もう相手はフラフラでやっと立っている状態だ。
 行けるぞ。
 一気に決めようと思い切り大振りにハイキックを放った。
 その瞬間、股に凄まじい痛撃が来た。
 偶然であると主張し、それをレフリーも容れたようだが、都築にはわかった。あれは
故意だ。
 生半可な相手ではなかった。
 挑発に全身で乗ってきて本気でこっちを潰しに来た。
 怖い男だ。
 また、夢を見てしまったようだ。
 待ってカウンター。相手が出てこなければ挑発する。
 そんな自分が前に出て、相手をKOさせることができる……そんな夢を見てしまった。
 それができないから今の自分になったのに、また昔みたいに夢を見てしまった。
 そろそろ、自分も自分の限界に見切りをつける時期だろう。
 この試合を、その区切りにしていいんじゃないか、と思えてきた。
 インターバルの間も自分を睨み据えている相手を見ながらそう思った。
 第1ラウンドの間は全くそのようなことを考えてはいなかったが、もしかしたら、こ
の藤田浩之という男との闘いは、自分の生涯で一番いい闘いなんではないだろうか。
 無性にそう思えた。
 自分は、相手選手の恋人を貶めてまで勝とうとした。
 相手は、それに憤激して本気で自分を潰そうとした。
 夢中で闘った。
 自分の限界を這いずり上がるように越えて、自分はなんとかまだ負けずにいる。
 レフリーが、第2ラウンドの開始を告げに来た。
 黙って立ち上がり中央線へ向かって歩いていく。
 どうしようか?
 疑問が頭をかすめる。
 第2ラウンドからは戦法を変えようか?
 その思考が一瞬で生まれ、一瞬で消える。
 今更付け焼き刃の新戦法で何になるのか。
 自分が今まで最も鍛えた武器で行くしかないではないか。
 どんなに蔑まれようと、自分にはもうこれしかない。
 それを信じて──それにすがって──。
 行くしかないではないか。

「おい!」

 叫んだ。
 第1ラウンドの時のような小声ではない。観客席の観客にまで聞こえるような大声で
叫んでいた。
「全然効いてねえぞ、てめえの攻撃なんざ!」
「なにぃ……」
 浩之の顔にすうっと暗い影が差した。
「腰が入ってねえんだ! 腰が!」
 浩之はものもいわずに打ち込んできた。
 右ストレート。

 来た!
 都築は歓喜と興奮の狭間で胸の鼓動が一瞬で高鳴ったのを感じていた。
 まさか二度同じ手は喰わないだろうと思ったのだが、思い切り来た。
 カウンターを……。
 浩之の右腕が今までで一番速く突進してきた。


                                     続く

     どうも、vladです。
     54回目となりました。
     差し当たって特にいうことなしです。


  
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