鬼狼伝(53)  投稿者:vlad


 何かが聞こえる。
 遠くの方から聞こえるそれは段々と近付いてきた。
 近付いてきて、それが自分のすぐ側から聞こえてくることがようやくわかった。
 目を薄く開けてみる。
 男が一人、自分を見下ろしていた。
 なんだ? このおっさんは。
「シックス!」
 ……ちょっと待て……もしかしてこのおっさんレフリーか。
「セブン!」
 ……待て待て待て、今なんていった。
「エイト!」
 ……待て待て待て! 待てって! ちょっと待て!
「ナイン!」
「ぬっ!」
 立ち上が……おっと。
 体がよろける。駄目だ。ここで倒れたら負けちまう。
「できるか?」
「できます」
「これ何本だ」
 レフリーが指を立ててそれをおれの目の前に翳す。
 頭がぼやーっとしててよくわかんねえ。
「四本」
 勘だ。
「じゃ、これは」
「六本」
 当たれ。
「……」
「……」
「よし、なんとか大丈夫なようだな」
 おう、大丈夫だったか。
「構えて……はじめ!」
 おし、行くぜ。

 立ち上がった浩之に対し、都築は接近してきて一気にラッシュをかけてきた。もはや
先程のカウンターで勝負が決まったと見ているといっていい。
 もう一度倒せばもう立てまい。
 浩之は今、やっと立っている状態に近い。
「浩之、このラウンドは逃げて!」
 雅史の声が聞こえる。浩之はそれに半ば無意識の内に「おう」と小さい声で答えてい
た。雅史にいわれずとも、このラウンドは逃げに徹せねばならぬことは承知している。
 先程のカウンター。真正面から顎に貰った。
 そのため、脳が揺さぶられ脳震盪が起きている。
 辛いが……脳震盪というのは時間が経てばなんとかそれなりに回復するものだ。
 だから、浩之が今欲しているのは脳を休ませる時間であった。
 だが、それを完全に理解している都築は攻撃の手を緩めようとはしない。この第1ラ
ウンドで決めなければ、ラウンド間のインターバルで浩之が大幅に回復してくるであろ
うことは明白だからだ。
 しかし、決して近付き過ぎもせずに主に頭部を狙ってパンチを放ってくる。
 あまり接近して、浩之に掴まれ、引きずり倒されて勝負の場をグラウンドに持って行
かれることを恐れているのだ。
 グラウンドでの打撃が禁じられているエクストリームでは、その状態で守りに入られ
ると非常に攻めにくい。
 しかも、既に先程の攻防において浩之が自分よりもグラウンドの技術が優れているこ
とを都築は嫌というほど知らされている。
 より上手い人間がグラウンドで守りに徹すれば攻め手はほぼ攻めあぐねてしまう可能
性が高い。そして膠着状態が続けば続くほど浩之は休みを取ることができる。
 そのような状況を作られることだけは避けたかった。
 浩之は、ぼやけてまだ覚めきっていない重い頭を上下左右に振って都築のパンチをか
わしながらも、今ここで後ろ向きに倒れてしまえればどんなに楽かと思った。
 バーリ・トゥードルールで行われるプロの試合などでは、時々、片方の選手が相手と
接触しないで自ら後方に倒れ込み、背中をマットにつけてしまう状況が見られる。
 浩之も余程そうしたかったのだが、エクストリームルールでは相手と接触せずに自分
から倒れるとすぐにレフリーから「立て」の指示が来る。
 いっそのこと、故意に軽いパンチをわざと頭部に喰らって倒れてしまおうかとも考え
た。そうすればカウントナインまで休むことができる。
 が、その浩之の企みを読み取ったわけでもないだろうが、第1ラウンドの残り時間を
一分切った途端に都築が猛然と力の籠もったパンチを送り込んできた。
 この一分に全てを賭す気か、凄まじいラッシュである。
 喰らってダウンするフリなどしようとすればいいのを貰ってしまい、フリがフリにな
らずに本当にKOされてしまいそうだ。
「つぅ!」
 浩之が思わず呻き声を上げながら後退する。
 額に右のストレートを喰ってしまったのだ。
 脳が激しく揺れる。
 畜生……。
 ここで負けるのか!?
 まだ一回戦だぜ。
 まだだぜ。
 耕一さんのいるところまではまだまだなんだぜ。
 負けるのか!?
 こんなとこで!?
 畜生……。
 そもそも、あいつの一言に思わず激怒しちまったのが悪いんだ。……っていっても、
ちょっとあれだけは我慢できなかったんだが……。
 くそ、無表情で攻めて来やがる。
 おれだけが怒って苛立って、馬鹿みてえじゃねえか。
 こいつ……怒らせてやりてえな。
 この無表情の面が歪むところが見てえなあ。
 なんかいってやろうかな……。
 馬鹿。
 屑野郎。
 死ね。
 ……駄目だ駄目だ。ただ単にボキャブラリーの貧困さをさらすだけだ。
 くそ、この野郎。
 さっき……いいやがったな……。
 あかり相手じゃ立たないんじゃないか? って……。
 野郎、思い出せば出すほど腹が立ってきたぞ。
 しっかり立つってんだよ! ……二回目からはな。
 この野郎、立たねえようにしてやろうか。
 くっ! ハイキックを打ってきやがった。いよいよ勝負に出てきたか。
 もう一発来るか!
 しっかり両腕を上げて頭をガードして……。
 ……ん?
 大股開きで……ガラ空きじゃねえか。

「っっっ!!」
 都築が前に倒れ込み、
「ストーップ! ストーップ!」
 レフリーが二人の選手の間に割ってはいる。

「故意じゃないっす。ちょっと頭がぼーっとしてて夢中で蹴り上げたら当たっちまった
んですよ」
 浩之は頭を押さえながらいってのけた。
 レフリーはなんとかその理屈に納得したようで「注意」を与えただけで試合続行を決
定した。

「え……え……今の、どうなったの? 浩之ちゃんがダウンを取ったんじゃないの?」
 あかりは困惑した表情で右の志保、左の綾香、前の好恵を目まぐるしく見回した。
 あかりの目から見て、どうも浩之の相手選手がダウンしたようなのだが、レフリーが
浩之になんらかの注意を与えていたようであった。
「金的を蹴ったから注意貰ったのよ」
 と、綾香が答える。
「それって……反則……ですよね?」
「思いっきりね……でも故意じゃないと判断されたんで注意止まりだったのよ、故意だ
と思われたら反則負けを宣告されてるわよ」
「えっと……注意というのは……」
 と、再び問い返したあかりに答えたのは志保だ。彼女はしっかりとエクストリームル
ールを勉強してきている。
「特に悪質な反則に与えられる罰則ね、これやった上にもう一回反則やったらどんな軽
いものでも負けになるわよ、ま、レフリーの人にもよるんだけどさ」
「え……そうなの……」
「付け加えるなら……」
 と、綾香が後を引き取る。
「注意なんて貰ったら、あっちが同じ注意を貰わない限りは、判定ではほぼ勝てないわ
よ。これから何回もダウン奪ったり、よほど一方的に試合を進めれば別だけど……」
 アマチュアの大会であるエクストリームは反則に対する罰則は厳しいものとなってい
る。中でも目つき、噛み付き、金的への攻撃へ対するそれは特に厳しい。
「と、それよりも……好恵」
 そういった綾香の唇の端が吊り上がる。不適な笑みがそこに浮いていた。
「なんだ?」
「あれ……どう思った?」
「どうって?」
「浩之……やったんじゃないのかな? どうも私にはそう思えるんだけど」
「……あんたもそう思ってたのか」
 好恵が厳しい表情でいった。
「なんとなく……勘みたいなものだけどね……」
「私も……それに近い。なんとなくな……」
「え? え? え?」
「ちょっとちょっと」
 二人の会話を聞いて戸惑うばかりのあかりを押し退けるように志保が口を挟んで行く。
「それってまさか、ヒロの奴がわざと……」
 さすがに、少し声を低くしていった。
「たぶん……そうだと思うわ」
「私もそう思う」
「……むう……ヒロの奴……」
 志保が歯軋りする。
「最低ね」
 断言した。
「志保ぉ……」
 あかりが泣きそうな顔を向けるがおかまいなしだ。
「わざとキンタマ蹴るなんて、あんた、最低よ、そんなの」
 いっていることがいっていることなのでさらに声を小さくしていった。
「で、でも!」
 あかりは何があっても浩之の弁護をするつもりらしい。
「何か理由があったのかも!」
「理由ぅ?」
「そうだよ、何か、あそこでキンタ……を蹴らなければいけない理由があったのかも!」
「……あかり、もちょっと声小さくね」
「あ……」
 自分の声の音量とその内容をようやく冷静に顧みて、あかりは真っ赤になって俯いた。

 三分ほどの試合中断の後、試合は再開された。
 試合の際に選手たちはファウルカップと呼ばれる金的を防護する防具をつけているが、
それでもやはり蹴られると痛い。あくまでもダメージを和らげるだけである。
 たっぷり三分ほど前のめりになって苦しむ姿を観衆の目前にさらした都築の顔に赤い
色が差していた。
 怒ったな……。
 それを確信して浩之は一人ほくそ笑む。
「はじめ!」
 の、声とともに来た。
 歪んだ表情をしていた。
 そうそう、そういう顔が見たかったんだ。
 パンチを、キックを、打ち込んでくる。
 浩之はそれをさばき、かわしながら反撃の機会を待つ。三分間、都築が股間の激痛に
耐えていた間に浩之の脳震盪はほぼ回復していた。
 今までの攻防ではっきりとわかった。都築はそれほど大した格闘家ではない。
 カウンターだけが飛び抜けて上手いが、総合力では浩之の敵ではない。
 大振りの右フックを上手くスウェーでかわすことができた。
 右のローキックを右足へ。
 それが反撃の糸口。
 都築がよろけた。

 今まで、ずっと我慢してきた。
 おれも……。

 浩之の顔が歪む。

 おれももう怒りを解放していいよな?
 おれももうこういう顔をしていいよな?

「おらっ!」
 右ストレートが都築の顔面を打ち抜く。
 左ストレートが都築の顔面を打ち抜く。
 両手が頭を抱え込んで引き落とし──顔面に膝。
 カクン、と突然足の芯を外されたかのように、都築の両膝が曲がり、それがマットに
ついていた。

                                     続く

     どうも、vladです。
     53回目であります。
     今回またエクストリームルールについてやや触れている部分があり
     ますが全て自分が勝手に作り上げたルールです。
     その点、御了承下さい。