鬼狼伝(52)  投稿者:vlad


 第1ラウンド開始から三十秒後。
 後方に飛ぶように下がった浩之はこめかみから頬へ、汗の雫が伝っていくのを感じて
いた。
 危なかった。
 前に出ようとしたところへ、いいタイミングでカウンターを合わせられそうになった。
 後一歩踏み込んでいればもろに貰っていただろう。
 対戦相手の都築克彦はクリーンヒットのチャンスを逃したにも関わらず、悔しさを面
上に一切表さずに立っている。
 感情が出ない。
 試合の前に廊下で会った時に一度だけこの男が微笑むのを見たが、その笑みも薄っぺ
らい、見せかけのものであったように思われてならない。
 とにかく、闘いに感情を持ち込まぬ男だ。
 突きにも、蹴りにも、感情が無い。
 無機質な攻撃を送り込んでくる男だった。
 そして、狙っているのはカウンターだ。
 自分からは進んで来ない。
 やりにくい相手だ。
 どちらかというと、自ら果敢に攻め込んでいくタイプの浩之にとって一番嫌なタイプ
といっていい。
 じっと待っている。
 仕方なく浩之が軽い攻撃を放っていくと、ことごとくかわされる。
 すぐに膠着状態になった。
 くそ、つまんねえ試合になったな。
 浩之は苛立つ気持ちをなんとか押さえながらも思わざるを得ない。が、いうまでもな
くこの手の相手には苛立ち、怒りなどは禁物である。
 しょうがねえ、軽く左ジャブを二発ぐらい……。
 浩之は打った。
 一発目は届かず。
 二発目は空を切る。
 こちらの踏み込みが浅いと見て、カウンターを狙いもせずにパンチをかわしている。
 こいつ……まともに打ち合ってくれればそう怖い相手じゃねえな……。
 そうは思うが、一分の隙も無いほどに待ちの戦法を取られているので浩之もそうそう
迂闊に前には出れない。
「やる気あんのか!?」
 後ろからそんな声が聞こえた。
 もう第1ラウンド開始から三分経っている。
 その間、浩之が開始三十秒後にカウンターを決められそうになって以来、ほとんど二
人に動きが無い。
 いい加減に客の中に焦れてきた者がいるのだ。
 あっちにいえよ、馬鹿野郎。
 浩之の心中に苦々しいものが沸いた。
 だが、ここで突っ込んではいけない。ここは根比べだ。
 ちょっと、別の手口で仕掛けてみるか……。
 浩之は両手をダラリと下げて顔面をノーガードにして、スタスタと無造作に前に出た。
「……」
 さすがに都築の肩の辺りがピクリと震える。
 だが、それだけだ。
 浩之の口から舌打ちの音が漏れる。
 ここまで「譲歩」してやっているのにふざけた野郎だ。
「おい、ビビってねえで来い」
 思わず口が出る。手足が出せない以上、出すのはもはやこれしかない。
「お前こそ来いよ、そんなに怖いか?」
 怖いわけねえだろうが! ビビってんのは明らかにおめえだろうが! 会場にいる人
間にアンケート取ってみろ! 大体、おめえがそんなだから野次られるんだろうが!
おれはやる気満々だっての!
「……」
 浩之は勝手に踏み出ようとする足を抑えた。
 危ない危ない。
 あらかじめ耕一に都築が試合中相手を挑発するのをよくやると聞いていなければ前に
出て息の根を止めに行っていたところだ。
 そしてもちろん、それを待ち構えていた都築のカウンターを貰っていただろう。
 くそ……挑発なんかしやがって……。
 と、浩之は自分のことは棚に上げて思った。実際、棚に上げていいと強く思っている。
 イライラしてるぞ……やばいぞ……こういう時になんかいわれたらカーッと来ちまう
んだ……落ち着け……落ち着け……。
 浩之は深呼吸をしながらも、眼光を煌々と光らせ、視線は射るがごとく都築に向けら
れていた。
 タックルで潰しに行くか……。
 顔をやや下に向けて思い切り突っ込む。
 体勢を低くして腰に食らい付いて来られれば、パンチで迎撃することは可能ではある
が大したダメージは与えられない。
 そういう接近戦でものをいう肘はエクストリーム・ルールでは禁止されている。
 そうなると警戒すべきは膝蹴りであるが、低空飛行のタックルに膝による迎撃はあま
り効果は無い。
 今大会では、先程の一般女子の部の二回戦において来栖川綾香がタックルに来る相手
の顔面に膝を合わせて相手をKOしているが、これはあの時の相手と綾香のように大き
な実力差があってこそのKOであって低く突っ込んでくる相手の顔面に膝蹴りをクリー
ンヒットさせるのは本来は困難である。
 浩之はフェイントでパンチを数発送り込む。
 あまり浅くてはフェイントの効果が見込めぬのでだいぶ踏み込んだ。
 意外にも都築が近付いてきた。
 体勢を低くして、腰に食らい付いてくる。
 胴へのタックルをあちらが先に仕掛けてきた。
「この!」
 カウンターだけじゃない、隙あらばタックルも狙っていたのだ。
 だが、浩之とて対策は練ってある。すぐさま足を引き、上半身を相手の背中に覆い被
せていって潰そうとする。
 首を右腕で抱え込んでフロントスリーパーホールドに持っていこうとするが都築もそ
れを察して左手で右手首を掴んでくる。
 浩之は右手を内側に返して瞬間的に都築の手首を捻った。
 そして右手を絡めて逆に手首を取りに行く。
 都築の方も最初に掴んだ場所に固執せずに僅かに拘束を弛め、肌の上を滑らせるよう
に掴む箇所を移動させる。
 お互いに手首を掴み合う格好になった。
 浩之は左手で肘の屈伸運動だけを利用して小刻みにショートフックを打っていったが
都築の右腕がしっかりと頭部をガードしている。
 一発、二発、三発と打ったところで、浩之は狙いを変えた。
 今度は脇腹を叩いていく。
 小刻みにダメージを蓄積させる。
 相手がこれを嫌がって動けばそれに対応してこちらも動き一気に関節を極めにいくつ
もりだ。
 さあ、動け。
 浩之はほとんど念じるように思った。
「おい……」
 掠れた声がした。
 浩之の表情に苦味が走る。
 この期に及んで口を動かすのか、こいつは。
「さっき一緒にいた子、恋人だろ……」
「……」
 答える義務などないので浩之は黙って脇腹にショートフックを送り込む。
「お前……」
「……」
 耐えろ。
 耐えろよ、何をいわれても耐えろよ。
 正直、あかり絡みで挑発されるのが一番怖い。
 どこまで自分が耐えられるかわからない。
「幼女趣味か?」
「……」
 そりゃあ……確かにあいつはガキっぽい。中学生に見えないこともない。でも、幼女
趣味とは何事だ。けっこう出てるとこは出てるし、太股なんてむっちりしててなかなか
良いのだ。
 ドスッ、とちょっときつめのフックをお見舞いした。
「お前……」
「……」
 耐えるんだぞ。
 わかってるな。
 カーッとしたら負けだぞ、耐えに耐えに耐えて、もう逆転されっこねえって状態にま
で持ち込んでから爆発すりゃいいんだ。この野郎、そん時になって泣くなよ。
「あんなのとやってんのか?」
「……」
 やってるよ!
 あんなのとはなんだ! あんなのとは!
 そりゃあ……確かにあいつはガキっぽい。中学生に見えないこともない。でも、あん
なのとは何事だ。あいつはなんでもいうこと聞くんだぞ。
 ドスンッ、とかなりきつめにフックを打ち込んでやった。
 うぐ、とか呻きやがったぞ。
 おら、おら、いつまでもこうしてるならいつまでも脇腹殴り続けるぜ。おっと、脇に
右腕を持ってくるなら顔を殴ってやる。
 ふん、すっかりおとなしくなったな。
 あんなもんで──まあ、正直かなりむかついたが──おれを挑発しようってのが甘い
んだよ。
 てめえ、さては散々いっておいてあかりみたいなのがタイプなんだろ。
 妬いてやがんな、てめえ。
 あかりはいいぞお。飯作りに来いっていえば来るし、朝起こしに来いっていえば来る
し、朝起こしに来るなっていっても来るし、弁当は作ってくるし、なんでもいうこと聞
くし、からかうと面白いし、部屋掃除しろといったらテキパキとやってくれるし、エロ
本見付けても何もいわずに元の場所に戻しておいてくれるし。
 まあ……なんだ。
 とにかく、いい女だってことだ。
 羨ましいか、おい?
 おっ、小癪にもおれの脇腹を打ってきたな。
 でもな、こっちが上になってんだ。全然威力が違うんだよ。
 羨ましいか、おい?
 羨ましいだろう。
 おれだって他の男があかりを彼女にしてたらそう思うもんな。お前も遠慮なく羨まし
がることを許可するぞ。
 おおい、なんかいってみろよ。
 おれはビクともしねえぞ。
 なんだか随分とおとなしくなったじゃねえか。
 一生懸命下から抜けようとしてるな、そうはいかねえぞ。
 ほら、潰れた。おめえ、カウンターが得意なようだが寝技はどうなんだ?
 腕を極めてやろう。
 死に物狂いで抵抗してやがる。さっきよりも顔に余裕が無いぞ、こいつ寝技はそんな
に得手じゃないな。
 一気に極めてやるか。
 ……くそ、ジタバタしやがるな……って、ラインがすぐそこまで来てんのか。あいつ
のタックルを受けた直後の押し合いでかなり移動していたようだな。
 ああ、こりゃ駄目か……あいつが足を一杯に伸ばせば出ちまいそうだ。
「場外! 両者中央に戻って!」
 レフリーがそういっておれの肩を叩いた。
 しょうがねえなあ、まあでも、こいつが寝技が苦手だってのがわかったぞ。あのレベ
ルなら月島拓也用に特訓したおれならば十分に勝てる。
 今度こそこっちからタックルを仕掛けていくか。
 あっちはもう、寝技じゃおれには勝てないということがわかったから自分からはやっ
てこないだろう。
 よし、試合再開だ。いきなり行ってやるか……いや、まずは軽く打撃で牽制だ。前蹴
りを打つように足を踏み出して、そのままタックルに行ってもいいな。
 左のジャブ二発の後に右のストレート。
 野郎は相変わらずカウンターを狙ってるな。
「おい……」
 なんだ? 立ち上がったら少しは元気になったか。
「お前……」
 なんだよ、なんでもいってみろ、ビクともしねえぞ。
「あの女相手じゃ立たないんじゃないのか?」
「……」
 ……。
 それに触れるか、てめえ!!
「てめえ! ぶっ殺……」
 勢いよく飛び出した浩之の顎に凄まじい衝撃が接触し、次の瞬間打ち抜いていた。
 背中がマットを叩いた。

「あー、もう、何やってんのよ、あの馬鹿!」
 叫んだのは志保だ。
「カウンターが思い切り入ったわ……まずいわね」
 冷静にいったのは綾香だ。
「どうしたんだ……あんなカウンター狙いが見え見えの相手に不用意に……」
 浩之の実力を高く評価している好恵は釈然としない表情だ。
「あーあ、全く、一回戦ぐらいは勝ち抜けるかと思ってたのに」
「うーん、浩之、もうちょっとやると思ってたんだけどな」
「あいつの実力はあんなもんじゃないとは思うが……初の大舞台でさすがのあいつも緊
張してたんだろうな」
 三者三様の意見が飛び交う中、あかりは両手を胸の前で合わせて、じっと試合場で大
の字になっている浩之を見ていた。
「全く、わざわざあかりが応援に来たっていうのに、ねえ」
「で、でもでも、浩之ちゃん、どうしてもあそこで行かなきゃいけない理由があったの
かも!」
「……理由?」
「うん、何か、きっと理由があったんだよ!」
「……はいはい、そういうことにしときますか」
 志保は苦笑しながら、思わずあかりの頭に手を乗せて撫でていた。

「先輩!」
 試合場に身を乗り出した葵のやや後方で雅史が天を仰いでいる。
「もう……浩之ったら、耕一さんがせっかくアドバイスしてくれたのに……」
 雅史の位置から、都築が何やら口を動かしているのは見えていた。途中までなんとか
耐えていたようなのだが、試合再開直後の一言がどうしても浩之の逆鱗に触れずにはい
られなかったらしい。
「うーん」
 耕一は、雅史の横で腕組みして唸っている。
「よっぽど腹の立つことをいわれたんだろうなあ……」

                                     続く

     どうもvladです。
     52回目となりました。
     んー、今回は特にいうこと無し。