鬼狼伝(51)  投稿者:vlad


 来栖川綾香が松葉杖を使いながらあかりの横にやってきたのは丁度、一回戦最後の試
合が始まる寸前であった。
「浩之の試合に間に合ったわね」
 綾香が背後の芹香を顧みていい、あかりの隣の席に腰を下ろす。
「あ、どうも。綾香さん、足の具合はどうだったの?」
 あかりが問うのへ、
「大丈夫……じゃないけど、それほど大事じゃないわ」
 快活に笑って答える。
 その間にも、周りの席に座っている人間が綾香にサインを求めてくる。
 綾香はそれを手早く片付けた後、試合場を見た。
 浩之が試合場の片隅で柔軟運動を行っている。
「あの……浩之ちゃん、大丈夫なのかな?」
 あかりが心配そうに尋ねた。あかりにしてみれば、浩之が試合をするのを見るのは初
めてであり、隣に来栖川綾香がいるのだからそのようなことを聞いてみたくなるのも当
然であった。
「うーん、実をいうと、浩之が闘っているところって見たことないのよ、体つきからし
て随分鍛えたみたいだけど……どうだか……」
 綾香は彼女にしては珍しく歯切れが悪くいって、前の席に座っている人間に声をかけ
た。
「聞いてたでしょ? 好恵はどう思う?」
 そういわれて、仕方なし、といった風情で振り返ったのは坂下好恵だ。
「あら、坂下さんじゃないの」
 志保が驚いていった。彼女もあかりも前の席に好恵が座っていることに気付いていな
かった。
 自称情報通で、実際に情報を玉石問わずにかき集めている志保などは当然として、一
緒のクラスになったことがないのに、あかりでも好恵の名前は知っている。顔だって、
見ればわかる。
「なーんだ。前にいたんなら声かけてくれればいいのに」
 志保がけたたましい甲高い声でいった。
「落ち着いて試合を見たかったのよ」
 好恵はいった。
 彼女とて、色んな意味で有名人な志保と、浩之の恋人であるというあかりは知ってい
た。
 別に直接面識があるわけではないので声をかけずにいたのだが、その選択は間違って
いなかったと思っていたところである。
 試合中、この日のために色々と情報を収集したらしく、にわか格闘技通となった志保
が非常にうるさいのである。
 あれはなんという技だの、あれじゃまだ極まってないだのと、喉が枯れるのではない
かと心配したくなるほどによく喋る。
「で、どうなの? 好恵」
 と、綾香が促した。
「藤田は……正直いって強いよ」
 好恵は、浩之が闘っているのを実際に見たことがある。寝技無し、拳による頭部の攻
撃無しといういわゆるフルコンタクト制の空手ルールであったが、去年まで男子空手部
の主将をつとめていた桐生崎という男と闘うのを見たことがある。(第21話参照)
 桐生崎は攻撃的な闘いをする男で、その上、そのルールでの闘いの経験が浩之よりも
豊富である。が、それと打ち合って浩之は倒されなかった。
 容易に動じない度胸もある。
 体はまだ完全に出来上がっているとはいい難いが、格闘技を始めてからの期間を考え
ると極めて理想的な質と量の肉がついている。
「藤田っていうのは、何かスポーツをやっていたことがあるの?」
 今度は、逆に好恵があかりに聞いた。
「浩之ちゃんは……中学二年生の時までサッカーやってたかな」
「へえ」
 綾香が感心したような声を上げた。それは初耳であるが、サッカー選手というのは前
半後半各四十分を動き続けるだけに下手な格闘家よりもスタミナがある場合が多い。
 浩之は飛び抜けて何が上手いというわけではないがどのポジションもそつなくこなす
選手で試合中はフィールド内をあっちへこっちへと走り回っていた。
 味方ゴールの前まで下がって守備につくかと思えば敵ゴールの前まで上がっていって
攻撃に参加することもある。
 試合が終わるといつもその場に倒れて荒く呼吸をしていた。
 だが、中学二年の半ばの辺りで浩之はサッカー部を退部した。
 小学生の頃から浩之と一緒にサッカーをやっていた雅史はもちろん二年の終わりまで
続けるように勧めたのだが、浩之はやる気が無くなったといって結局、辞めてしまった。
 雅史が浩之の退部にショックを受けているのを見かねて、あかりからも浩之に退部を
思い止まるよういったことがある。
「雅史は大丈夫だよ、もう……おれより上手いしな」
 浩之が、あの男にしては珍しく穏やかな微笑を浮かべながらそういった時、あかりは
あることを確信した。
 前々からそうではないかと思っていたことを確信した。
 浩之は、雅史が入るというからサッカー部に入ったのだ。
 雅史のことが心配だったのだろう。小学生の時、体育の授業で男子がサッカーをやっ
ているのを何度か見たことがあるが、雅史は決して上手くはなかった。
 浩之がそれをサポートしているような印象をあかりでさえ受けた。
 公園で夕方まで浩之が雅史にサッカーを教えていることもあった。
 あかりはそれを少し離れて見ていたが、やはり雅史よりも浩之の方が上手かったよう
に思う。
 中学二年半ばの浩之のサッカー部退部についても思い当たる節はあった。
 それより少し前に浩之が雅史のことをほとんど手放しで誉めていたのをあかりは聞い
ていた。
「あいつ、大器晩成型っていうかよ、長いことコツコツやってた努力が一気に成果にな
るようなタイプなんだな。中学生になってからすげえ上手くなってきたよ。そろそろお
れなんかじゃボールを奪えなくなるな」
 嬉しそうにそういっていた。
 浩之は、雅史の技量が自分のそれを抜いたと確信した時、退部を決意したのだ。
 それがいつかは正確にはわからないが浩之はけっこう前からそんなにサッカーをやり
たくはなくなっていたのだろう。むしろ、さっさと止めたがっていたのかもしれない。
 それからは雅史に付き合ってやっていたに違いない。
 雅史はやがて公式試合のレギュラーに抜擢されて初の公式試合で初得点を上げた。
 浩之は完全に観客としてあかりと志保とその試合を見に行ったのだが、試合が終わっ
た後、
「よくやったよ、あいつ」
 と、いっていた。
 その横顔が、なんだか「あいつ、これからもおれがいなくてもやっていけるよ」とい
っているようにあかりには思えた。
 間もなく浩之はだれた。
 サッカーを止めた当初こそ、習慣的に軽いランニングをしないでもなかったのだが、
三年生に上がる頃には完全無欠にだれた。
 元々、その気のある男だったのだが、サッカーを止めてから拍車がかかった。
 やる気しねえ……。
 というオーラを全身から振りまきながら、暇になった放課後を志保とのゲーセン勝負
などに費やしながら着実にだれていた。
 だれながら、突如、何かに打ち込むこともあったが長続きしなかった。
「おれは飽きっぽいからなあ」
 自嘲しながらも、それを改めようとはしなかった。
「器用貧乏なんだよ、おれは」
 独り言のように、浩之がそういったことがある。
 確か、高校に上がったばかりの頃、学校からの帰り道に雅史が浩之をサッカー部に誘
ったのを浩之が断り、雅史と別れた後、浩之とあかりの間で、なんとなくサッカーの話
になった時だ。
「大体なんでもできる自信はあるよ、ただ、一定のレベルまでしか行けねえし、長続き
しねえけどな」
 ぼんやりとした顔でそんなことをいっていた。
「浩之ちゃん、何か一つのことに打ち込むつもり無いんだ……」
 そういったあかりに、
「無えなあ」
 だるそうに答えた。
 その浩之が二年生になってすぐに何やら放課後、急いでどこかに行くようになった。
 ある日、帰りが志保と同じになった時に彼女からその真相を聞くことができた。
 志保は首を傾げながらいった。
「さっき、校門のところでヒロの奴と会ったんだけどさ……」
 浩之の名前をいいながら、心底不思議そうな顔をする。
 付き合いが長い上に、志保はただでさえ表情に感情がよく出る。あかりは、すぐにそ
れを看破した。
「浩之ちゃん……何かおかしいところあったの?」
「あいつさ、最近、放課後コソコソどこかに出かけるじゃない」
「うん」
「そのことを聞いたらさ、なんでもあいつ、格闘技のクラブを見学してるらしいわよ」
「……格闘技って、あの格闘技?」
「そう、殴って蹴っての格闘技、ヒロってそういうの興味あったのねえ」
「うん……普通の人よりは興味ありそうだったよ」
 中学生の時に雅史にプロレス技をかけていたのはお遊びとしても、時々深夜のボクシ
ング中継をわざわざビデオに録ったりしているようだし、ボクシング漫画を「読め」と
貸してくれたこともある。
「浩之ちゃん、格闘技始めるつもりなのかな……」
「そんなことはどうでもいいのよ!」
 志保は声荒くいった。
「あいつ、あたしにお前も何か一つのことに打ち込んでみたらどうだ。とかいってたの
よ!」
「何か……一つのことに……?」
「そうよ、あまりに似合わないこというんで偽物かと思ったわよ」
「浩之ちゃんが……そんなこといったんだ……」
 その後、あかりは浩之と結ばれた。
 だが、あかりが思っていたほどそれによって浩之との時間が増えたわけではなかった。
 浩之は松原葵という一年生と一緒にエクストリーム同好会での練習に忙しかったのだ。
「葵ちゃんってさ、すげえ一生懸命なんだ。葵ちゃんを見てるとさ、なんだかこっちも
やる気になってくるんだよなあ」
 そういって、浩之は、あかりにとって最高の笑顔で笑った。
 だが、それから、浩之が空手部の人間と喧嘩して停学になって、葵が同好会設立を断
念し、浩之が怖い顔で笑わなくなって……。
 浩之が久しぶりに家に夕食を作りに来てくれっていって……。
 夕食を作りに行って……。
 好きだ。といわれて……。
 嫌いになんかならない。といわれて……。
 浩之の腕に顔を押し付けて泣いて……。
 葵が同好会設立を断念して、てっきりもう止めたと思っていた格闘技を浩之がまだ続
けているのを知った。
 まだ続けていたのだ。
 まだ打ち込んでいたのだ。
 格闘技に……。
 一つのことに。
 あの浩之がそこまで打ち込んでいるのなら自分はそれを見守ろうと思った。
 格闘技である。
 危険が無いわけではない。そのことはあかりも知っている。
 でも、浩之がやろうとしている。
 だったら、自分はそれを見守るしかない。
「あかり、見ててくれ」
 浩之がそういったから、自分は見ている。
 浩之の一挙手一投足を見ている。
「浩之ちゃん……勝つよね」
 誰にいうともなく聞いていた。
「やってみなきゃわからないわ」
 綾香がいった。実際、浩之の実力が未知数の彼女はそういうしかない。
「同感だ。……でも、藤田は強いよ」
 好恵がいった。格闘家の目をしていた。
「なんとかなんでしょ、あいつ、いざという時は要領いいから」
 志保がいった。いいながらあかりの肩を軽く叩く。
「うん……大丈夫だよね」
 あかりは深く頷いた。
 試合場の浩之を見ていた。
 いい顔をしていた。
 頑張って……。
 怪我をしないで欲しいとか、そんなことはいわない。
 とにかく、納得するまでやって欲しい。
 浩之ちゃんが納得するなら私も納得するから……。

「浩之、耕一さんのいったこと忘れないで!」
 雅史の声が聞こえる。
 振り返ってわかったと頷く。
 雅史の隣で葵が必死な目でこっちを見ている。
 自分の試合の時よりも緊張しているようだ。
「せ、先輩!」
 両手を握り拳にしてそれだけいった。
「ああ」
 浩之は葵に親指を立てて見せる。
「……」
 無言で耕一が腕組みをしている。
 行くぞ。
 浩之は中央線に向かって歩き出した。
 行くぞ。
 あかりが見ている。

                                     続く

     どうもvladです。
     51回目と相成りました。
     

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