鬼狼伝(50)  投稿者:vlad


「か、勝った……」
 レフリーに片手を上げられた耕一が試合場を下りていく時、梓はようやくそれを実感
していた。
「なんだ! 耕一の奴、強いじゃないか!」
 梓は興奮して、右手を握り拳にして、左の掌を叩いている。隣にいるのが妹ではなく
従兄弟か何かだったら興奮のあまりボコボコ叩いているところだ。
「……」
 楓は、何もいわずに耕一を見ていた。彼女たちが座っている二回席の最前列からは、
耕一は小さくしか見えない。
 その小さな耕一を楓はじっと見つめていた。
「初音、すごかったな」
 梓がそういって初音に声をかけると、初音は目をつぶっていた。
「……終わったの?」
 いいつつ、恐る恐る目を開く。
「ずっと目を閉じてたのか?」
「うん、あの……お兄ちゃんの頭が逆さに落ちてから……」
 中條のスープレックス気味のバックドロップを耕一が喰らった時のことをいっている
のだろう。
「なんだ。それじゃ最後のあの蹴り見てなかったのか、凄かったんだぞ」
「つ、次はちゃんと見るから!」
 ぐっと握り拳を作る。
「まあまあ、別に無理して見ないでも……」
「見る!」
「……はいはい」

 Bブロック、第三試合。
 相手の打撃技に全く付き合わずにいきなりタックルで倒し、終始有利にグラウンドの
攻防を展開した後、場外に出てしまいブレイク。
 試合再開後、今度は一転、素早いパンチで相手を翻弄。掴みかかってきた相手の腹に
膝蹴りを叩き込み、上から頭部へ拳を打ち下ろしてダウンを奪った。そのまま相手は立
てずに試合終了。力の差を見せつけた。
 二分十三秒、加納久が勝利した。
 加納は、高校生まで柔道をやっていた。その後に総合格闘に転じた選手である。
 とある空手道場のオープントーナメントで優勝した実績があり、注目を集めている。
 一回戦の相手を軽く一蹴して控え室に戻ろうとするところを、雑誌記者たちに囲まれ
た。彼らの関心は、先の試合で元プロレスラーの中條辰を破った柏木耕一との「因縁対
決」である。
「正直なとこね、強いと思いますよ」
 さっきの試合を見て、柏木耕一についてどう思うか? という質問に加納は明快に答
えた。
「まあ、おれは一分じゃやられませんけどね」
 さらにそう続けると、微かに笑いが起こった。ここにいる記者ならば、柏木耕一が、
『格闘道場』誌上において「加納は一分で潰せる」と発言したのを知っている。
 実際は師の伍津双英がいったことなのだが、耕一自身がそういったということになっ
てしまっているのが現状である。
「だってね、中條選手を倒したんですよ」
 加納は試合後の疲れも見せずに口を動かし続ける。この辺のマスコミへのサービスは
熱心で、記者ウケはいい男だ。
「控え室で間近で見ましたけどね、中條選手ってすげえ体してますよ。元プロレスラー
といっても二回試合に出ただけで実力は大したことないとか、総合格闘の技術はまだ未
熟だとかいってる人もいますけどね、あの打たれ強さとパワーは驚異ですよ。その中條
選手を打撃でKOしたんですからね、強いと思いますよ」
「興味はわきましたか?」
 記者の一人が尋ねる。一分で潰せる発言に対して加納が「あの選手に特に興味は無い」
と応じたことを踏まえての質問であった。
「わきましたよ、是非、やってみたいですね」
 それからも、加納は矢継ぎ早に繰り出される記者の質問に答えていた。
「……」
「浩之……」
 雅史が、心配そうな顔で浩之に声をかける。この男は、しょっちゅうこんな顔をして
いる。危なっかしい親友を持つと苦労が絶えない。
「……是非、やってみたいのはこっちだってんだよ」
「まあまあ」
 加納のインタビューを遠くから聞いていた浩之はかなり機嫌が悪くなっていた。
「耕一さんと試合する前におれに勝たなきゃいけねえってのがわかってねえらしいな」
 苛立たしげに壁を蹴る。
 わかってないというか……今んとこ眼中に無いんじゃないかな?
 とは思ったが、到底口に出せるものではない。
「くそ、苛つくぜ」
 と、今度はゴミ箱を蹴っている浩之の苛立ちの本当の原因を雅史はよくわかっていた。
 これからすぐ、いよいよ浩之の試合が始まるのだ。
 これだけ大勢の人間に見られて試合をするのは浩之にとって初めてのことである。緊
張が生まれ、それが苛立ちに変わっているのだ。
 さて、どうしたものか……とセコンドとして、或いは親友として、雅史が思案を巡ら
していると、浩之の気分を落ち着かせるのに格好の人物を発見した。
「浩之、あかりちゃんだよ」
「あん?」
 雅史が指し示す方向を見てみれば、あかりと、それから志保らしき人間が係員と何や
ら話しているところだった。
「何やってんだ、あいつら?」
 その辺りは、丁度、選手と関係者以外立入禁止となっている部分と一般客が出入して
いい部分との境界の近辺である。
「全く、しょうがねえな」
 あかりに会うのは試合が全部終わってからでいい、といっていた浩之だが、この苛立
たしい気分の時に彼女の存在は正直なところ非常にありがたい。
「何やってんだ。おい」
 と、あかりに声をかけた時には浩之の声からも表情からも、先程までの無用なほどの
角が取れている。
「あ、浩之ちゃん」
 あかりの顔がぱっと明るくなる。
「君、藤田浩之か?」
 あかりと話していた係員の男が浩之に尋ねた。
「そうです」
「あー、いいとこに来てくれた。さっきからこの子が、君に会いたいっていってね」
「はあ」
「ちょっとこっちも困ってたとこなんだ。ここから先に入れるわけにはいかないから」
「ああ、はいはい、どうもすんません」
 浩之は係員に謝ってからあかりの方を向き、
「こら、駄々こねるんじゃねえって」
「……ごめん、浩之ちゃん」
「まあまあ、あかりも悪気があったわけじゃないしさ」
 志保がケラケラ笑いながらいった。
「お前、止めろよ」
「なにいってんのよ、浩之ちゃん浩之ちゃんっていい出したらあかりは聞かないんだか
ら、止められるわけないでしょ」
 そういって、また笑う。
 絶対、止めようという努力をしなかったのは明らかである。
「ええい、とにかく、なんの用だ。あかり」
「え!?」
「なんの用だよ」
「そ、そういわれると特に用は無いんだけど……」
「なにぃ?」
「ひ、浩之ちゃんの顔が見たくって……」
「……ったく……」
 そういわれては何もいえない。
「で、お前ら、どこら辺の席座ってんだ? あんまり後ろじゃおれの試合がよく見えな
いだろ」
 確か、大会の三日前になって「チケットが買えた」といっていた。そんな直前では、
既にいい席は無くなっていて、どうせ二階席の後ろの方の席だろうと浩之は思っていた。
「えっと……確か前から四列目だったかな?」
「へえ、二階の四列目か、けっこういい席じゃないか」
「違うよ、下の四列目」
「へ? 下の?」
 浩之が驚いたのも無理はない。一階の四列目といったらけっこうどころではない、か
なりいい席だ。
 おそらく、あかりと志保が買いに行った直前にキャンセルがあったのだろうと浩之は
思った。
「でも、そんな席、高かっただろ」
 一万は確実にする席だ。
「特別に三千円で売ってもらったよ」
「……おい待て、特別ってなんだ?」
「本当はタダでくれるっていわれたんだけど、それじゃ悪いから」
「お前、どこでチケット買ったんだ!?」
「来栖川先輩の妹の綾香さん、隣に来栖川先輩と執事の人もいるよ」
「あ、綾香かあ……」
 浩之は大きく溜め息をついた。ようやく納得がいった。
「余ってるっていうから」
「余ってるわけねえだろ、そんな席が……」
 呟いてから浩之はこの場にいない綾香に向かって舌打ちした。
「いらねえ気を遣いやがって……」
 だが、そういいながらも浩之の表情には微笑が浮いている。
「あの、あの、浩之ちゃん、何かいけないことしたかな?」
「ああ、お前がいかに全国の格闘技ファンに恨まれることをしたのかは後で説明してや
るから、とにかくそのいい席からおれの試合見とけ」
 あかりの後ろで志保が笑っている。こいつはなにもかもわかった上で綾香の好意に甘
えたのだろう。
「おい……」
 低い声が浩之の背中に当たったのはその時だった。
「ん?」
 聞き覚えの無い声に振り返ると、どこかで見た覚えのある男が立っていた。
 スポーツウェアを着ている。出場選手であろうか。
 誰だったっけか?
 と、それが思い出せないでいると、男がまた声をかけてきた。
「藤田浩之だな」
「そうだけど」
「そっちの黄色いリボンの子……お前の彼女か?」
「は?」
 いきなり、初対面の男にそのようなことを聞かれて浩之は一瞬戸惑ったが、やがて胸
を張っていった。
「そうだ……それがどうした?」
「いや、どうもしない」
 男は、浩之に注いでいた視線をふっとあかりに移すと、微かに笑って、去っていった。
「なんだ。あの野郎……」
 浩之が憮然として表情で呟く。あまりいい感じの男ではなかった。
「おい」
 その男と擦れ違いながら耕一がやってきた。
「あ、耕一さん、さっきの試合、すごかったっすね」
「ああ、どうも。浩之も次だろ」
「ええ」
「で、都築選手と何話してたんだ?」
「……都築って誰です?」
「お前、知らないで話してたのか」
 耕一が呆れた顔でいう。
 浩之は思いだした。
 パンフレットで見た、自分の一回戦の対戦相手をだ。
「今の、都築克彦(つづき かつひこ)でしたか!?」
「そうだよ」
 耕一はまだ呆れ顔だ。
「あ、そうかそうかそうか! あいつ、これから闘う都築克彦じゃねえか」
 確か、二年前ほどから総合格闘をやっている選手だ。前身は空手である。
「浩之、そろそろ時間だよ」
 腕時計を見ながら、雅史がいう。
「おう、そうか、よし、あの野郎、ぶっ潰してくるぜ」
「頑張ってね、浩之ちゃん」
「ああ」
「あんたがどれだけのものか見てて上げるわ」
「おう、よく見とけ」
 浩之があかりと志保に手を振りながら控え室へと向かう。
「浩之、Bブロックの決勝戦、お前とやりたいな」
 耕一がいった。
「おれも、そう思ってました」
 浩之が答えた。なんだかそういわれたことが無性に嬉しかった。
「そうだ。そのためにはここで負けてもらっちゃ困るからうちの先生が調べておいたこ
とを教えといてやろう」
「ん? なんすか?」
「都築克彦だよ、あいつは口を使うらしい」
「口? まさか不利になると噛み付いてくるんじゃないでしょうね」
 不安そうにいった。
 その浩之とて、いざとなったら相手に噛み付きかねない男なのだが、今日は浩之はそ
ういう闘いをするつもりでここに来ていない。
「いや、声だよ、声」
「耳元で叫んでその隙に……」
「じゃなくて、まあ……悪口だな」
「悪口……」
「ああ、近付いた時とかに悪口いって相手を挑発するのをよくやるらしいんだ」
「それで、相手から冷静さを奪おうっていうんですか」
「そう、それでカーッと来て突っ込むとカウンターが待っている」
「なんか……せこい奴ですねえ」
「まあな……」
 耕一が苦笑する。
「まあ、そんなせこい野郎はボコボコにしてやりますよ」
 浩之が力強く宣言した。その時、丁度浩之を呼びに来た係員と控え室のドアの前で鉢
合わせした。
「藤田選手、時間です」
「はい」
 浩之は、係員の後に続いて、試合場へと向かって行った。

                                     続く

     どうも、vladです。
     50回目を終えました。
     それなりに達成感などを味わっておるところです(笑)