鬼狼伝(49)  投稿者:vlad


 中條辰は、掌を軽く広げて、腕を前に出していた。
 試合開始当初のように、頭部のみをガッチリとガードする姿勢ではなく、相手と接近
すれば即座に組み付いていけるような手の位置であった。
 耕一のローキックが数発、立て続けに足を襲う。
 右、右、左、右。
 その合間に腹に向けて前蹴りも放ってくる。
 一発一発が重い。
 打たれながら、中條はその攻撃のリズムを読んでいた。
 右のローキック。
 中條はそれに狙いを定めた。
 右のロー。
 右のローを打ってこい。
 ばちぃっ、と左のローキックが激しく中條の右足を打つ。
 このパターン。
 次辺りに来る。
 果たして──。
「シッ!」
 短く鋭い呼気を吐きながら、耕一の右足が低空飛行で襲いかかってきた。
 瞬間、前に出た中條の左腕が旋回する。
 肘を曲げて、拳が顔の前に来る位置に持っていっていた左腕の肘から先が右回しに旋
回し、左へ向けて低い裏拳を放っていた。
 その裏拳が耕一の右足の腿の辺りに当たる。
 耕一の右足がその衝撃で右に向かって泳ぎ、バランスをとるためにやむを得ず、上半
身も右を向く。
 中條の裏拳が耕一の右ローのミートポイントから遠い腿の部分に当たったので、逆に
弾き飛ばされずに耕一の右足を押し退けることができたのである。
 中條が持つ単純な腕力の強さも、もちろん、それに寄与している。
 耕一の体が右を向いた一瞬を中條は逃さなかった。
 即座に前進し、頭を耕一の左脇に向けてぶつけていく感じで組み付いていく。
 そして、体をピッタリと耕一の背中につけて、両腕を腰に回してクラッチする。
「くっ!」
 咄嗟に、耕一は腰を落として左脇に密着している頭部を左腕で抱え込んだ。
 観客席から低い、唸りのような声が沸き上がった。
 耕一が中條にヘッドロックをかけているこの状況。
 中條が頭を抱え込まれながら耕一のバックに回って腰に手を回しているこの状況。
 この状況が、中條が耕一にバックドロップを仕掛けんとして作り上げた状況であるこ
とを観客の多くが悟ったのだ。
 先程、もどきとはいえバックドロップに極めた似た形の投げを喰らった元プロレスラ
ー中條辰が、意地でも耕一をバックドロップで投げてやろうとしているのを皆、悟った
のだ。
「中條ォォォ!!」
 客席から幾つか生じたその叫び声は、きっと中條がプロレスラー時代だった頃からの
ファンのものだろう。

 いいね、いいねえ。
 客が沸いてきたじゃねえか。
 こりゃ、なんとしてもこいつをぶん投げねえとな。
 だけど……こいつ、頑張りやがるな。
 この体勢まで持ってくれば、後はパワーだけで投げられると思ったんだが。

 頭に、衝撃が来た。

 ぐっ!
 きついのくれるねえ……。

 耕一が左腕で抱え込んだ中條の頭部に、右のパンチを当てていた。テンプルを立て続
けに殴った。
 一発……二発。
 五発……十発。
 殴られ続けている。
 殴られ続けながら体勢は崩さない。
 しかし、もはや耕一の腰に巻き付いた中條の両腕の力は徐々に弱くなっている。
 ここは思い切り強く……。
 耕一が右腕を大きく振り上げた。
「!!……」
 腰に強力な圧迫を感じて耕一は目を見開いた。
 今の位置では中條の顔は見えない。
 だが、おそらくは笑っているのではないだろうか。
「ぬうん!」
 中條の声とともに、耕一の両足はマットを離れていた。

 持ち上げちまえばこっちのもんだ。
 へそで投げるつもりで後方に投げる。
 でも、ただ倒れ込むんじゃないぞ。
 背を曲げて、胸を反らして、ブリッジをするように落とす。
 そう、投げるというより落とす。
 プロレスの試合ではそんなに使わない投げ方だ。頭の落ちる角度が急過ぎて首がやば
いからな。
 相手に大怪我させちゃやばいからあんまり試合じゃ使わないが、こういう危ない投げ
方だってできるんだぜ。
 これはプロレスの試合じゃねえから遠慮なく行くぞ。
 高原さんに教えられた通りに──。
 落とした。

 持ち上げられた時点で、耕一は足掻くのを止めていた。
 これほどのパワーだ。下手に動くより受け身をしっかり取った方がいいと判断したの
だ。
 マットに落ちる瞬間、両手でマットを叩き、顎を胸に押し付けるほどに引いて後頭部
がマットに当たるのを避ける。
 何度かテレビで見たプロレスの試合でバックドロップがどういった形の技かはわかっ
ている。おそらくはこれで大丈夫なはずだ。
 頭がマットに向かって落ちる角度が思っていたよりも急角度であるということに耕一
が気付いた時には頭が直角に近い角度でマットに向かっていた。

 落ちた。
 落とした。
 わっ、と会場全体が沸騰するような歓声に満ちる。
 
 効いた。
 後頭部を両腕で抱え込んで、耕一は頭への痛みに耐えていた。
 ほぼ直角に近い角度で落ちたために、顎を引いたことがさしたる効果を及ぼさずに、
思い切り後頭部をマットに打ち付けてしまった。
 明らかに、自分がプロレスの試合で見た投げ方ではない。
 効いた。
 頭がクラクラする。
 が、そんなことばかりもいっていられない。すぐにグラウンドでの攻防へと頭を切り
替えねばならない。
 一瞬とはいえ、意識が飛んでしまった。それにより出遅れてしまった以上、まずは防
御に回ることを覚悟せねばならない、下になっても、三角絞めや腕ひしぎなど、幾らで
も反撃するチャンスはある。
 耕一が警戒しながら身を起こした時、中條は寝ていた。
「ん?」
 耕一はその顔を注意深く見た。もしかしたら「死んだフリ」ではないかと疑ったのだ。
しっかりとある程度の距離は取っている。
 中條がやがて目を開けた。
 どうやら「フリ」ではなかったようだ。
 バックドロップを敢行する前に頭に貰ったパンチが効いていたらしい。
 それほどに効いていながら投げたのだ。
 バックドロップという技に執着したのだ。
 中條がゆっくりと身を起こす。
 二人の距離は蹴りの間合いである。二人して膝立ちになっているこの状況では間合い
の外といっていい。
 双方、互いを警戒しながら立ち上がる。
 立ち上がる時、自然と、耕一の口から出ていた。
「……あんた……プロレスがやりたいんじゃないのか?」
 本当に、ごく自然にそれが出ていた。
「……」
 中條は一瞬だけ呆然としてから、微かに笑った。
 レフリーが二人に試合再開を促す。
 中條は前に出た。
 耕一は後ろに下がった。
 この試合で初めての耕一の後退であった。
 足下がおぼつかない。後頭部への強打で起こした脳震盪から完全に回復していないの
だ。
 行ける。
 中條は前に出た。
 もう一度──。
 ぱん、と耕一の軽いジャブが顔に入る。
 左が二回入った。
 そして右のストレート。
 中條の頭が沈んだ。
 瞬きする間に、耕一のバックへ回る。
 もう一度、バックドロップ。
「っ!」
 中條の目の前に耕一の目があった。
 相手の脇に頭を差し込もうとして前のめりになっていた中條の額に、耕一の額が当た
っていた。
 互いに、額で押し合うような形になっている。
 こいつ!
 脳震盪を起こしながら、おれの動きについてきている!?
 中條が耕一からほんの少し距離を取ってその周りを回ったのに比べて、耕一は体の位
置はそのままで向きを変えただけであるという有利さはあるにせよ、あの形のバックド
ロップで後頭部を叩き付けてやった直後の人間がこれほど素早い動きをそうそうできる
ものではない。

 こいつ……。
 なんだ……。
 目が……。
 気のせいか?
 こいつの目、一瞬、真っ赤に見えたような……。

 中條の背筋を悪寒が縦断していた。
 背中が引き裂かれるような悪寒。
 下方から、それは来た。
 顎に物凄い衝撃を受けて、中條は天を仰いだ。
 耕一が右のアッパーを放ったのだ。
 天井が見えた。
 煌々と照る照明が見えた。
 後屈していた首が自然と前に垂れるにしたがって、視界が天井から移る。
 中條の視界には耕一はいない。
 再び、下方から衝撃。
 再び、首が後ろに倒れる。
 そして、それに引っ張られるように、中條辰の肉体はマットの上に、大の字になって
寝転がった。
 アッパーを打った耕一がすぐに中條に近づき、その後ろに倒れた頭部が戻ってくるの
に合わせてほとんど真下といっていい角度から蹴りを放ったのだ。
 それで顎を突き上げた。
 レフリーがダウンカウントを数える間、耕一は腰を落として頭を振ったり、頭を軽く
掌で叩いていた。
「テン!」
 その声が、耕一の腰をマットに落とさせた。
 その場に座り込んで深呼吸をする。
 試合場の下にいる師の伍津双英が軽く頷くのが見えた。
「七分十九秒、ノックアウトで柏木耕一選手の勝利です」
 そのアナウンスを聞きながら耕一は立ち上がった。中條の方も意識を取り戻して、担
架を拒否して自分の足で立ち上がっているところだった。
 試合場から下りた耕一は、双英に軽く頭を下げた。
「ふう……手こずりました」
「よくやったな」
 という師の言葉に、耕一は驚かずにはいられなかった。かつてアメリカでプロレスラ
ーと闘ったことがあるという双英は試合前、
「プロレスラーというのは、確かに肉体は鍛えに鍛えてあるが、こういう闘いはあまり
上手くない。さっさと決めてしまえ」
 と、いっていたので、手こずってしまったことを怒られるかと思っていた。
「いい忘れておった」
「はい」
「プロレスラーの中にも、強い人間はいる。こういう闘いもな」
「……はい」
「……あの中條というのは、強い奴だったな」
「……はい、そう思います」
 ようやく脳震盪が収まってきた頭を掻きながら、耕一はいった。

「いい試合だったな」
 中條辰は控え室で、シャワーも浴びずに椅子に座って下を向いているところへ声をか
けられた。
 上方から降ってきた声の主を見んと、顔を上げた中條が驚愕を面に表す。
「相手は強かったな」
 その人物は、三十半ばと思われる男だった。
 中條はその男をよく知っていた。
「でも、お前も強かったぞ」
 太い腕が、ぶん、と唸って中條の肩を強すぎるほどに叩く。
 デビュー戦のバトルロイヤルの後も、この人に、こういう風に肩を叩かれたことを中
條は覚えていた。
「デビュー戦で物怖じしないで先輩に思い切りぶつかっていけるなんて、そうそうでき
ることじゃない。お前、見所あるぞ」
 そういって、思い切り強く、肩を叩かれたのだ。
 心地よい痛さだった。
 そして、今、肩に生じているそれも……。
「来てたんですか、高原さん」
 中條の声が湿り気を帯びていた。
「ああ、お前が出るというんでな」
 と、かつて新国際プロレスで中條の先輩であった高原はいった。
「強くなったな」
「……ありがとうございます」
 新国際プロレスで一番自分に目をかけてくれたのが高原だった。
 高原は中條に自分が持っている技術を惜しげも無く教えてくれた。
 そしてある日、いったのだ。
「強くなれよ……そうだな、お前にはおれの引退試合の相手をしてもらっておれに引導
を渡して欲しいもんだな」
 と。
 強くなろうとした。
 おれが強くなれたのは、あなたのおかげなんです。
 そういいたくなったが、なんだか照れ臭くていえなかった。
「中條、実はお前の試合を見に来ただけじゃないんだ」
「何か他に用ですか?」
「お前をスカウトしに来たんだよ」
「え?」
「おれが今、RRにいることは知っているだろう」
「はい」
 それは聞いていた。高原は今、新国際を辞めてRR、通称ダブルアールといわれてい
るレスリング・レボリューションという団体に属している。
「中條、お前プロレスに戻って来い」
「……」
「社長も、お前をうちのリングに上げることには大賛成だ」
「……」
「来い、おれとシングルマッチをやろうじゃねえか!」
 また、強く肩を叩かれた。
「おれと、高原さんがシングルで……」
「そうだ。もうほとんどそのカードは決定だ」
「おれ……」
「来てくれ、中條」
 高原が、中條に向かって頭を下げていた。
「今日の試合を見て思った。お前は戻ってくるべきだ」
「……お願いします……」
 その高原よりも低く頭を下げて呟くようにいっていた。
「お願いします。お願いします。また、高原さんと一緒に練習したいです。高原さんと
試合がしたいです。お願いします……お願いします」
 声に、嗚咽が混じっていた。
 震える肩を、また、強く叩かれた。
 心地よい痛みが、中條の肩を走った。

                                     続く

     どうもvladです。
     49回目と相成りました。
     おれの悪ノリが行き場を失って暴走したといえなくもない耕一VS
     中條戦、これにて終了です。
     次回、一回戦最後の試合、浩之の試合となります。