鬼狼伝(48) 投稿者:vlad
 エクストリーム大会、一般男子の部、Bブロック第二回戦。
 柏木耕一 対 中條辰。
 第1ラウンド、三分過ぎ、耕一が中條からダウンを奪った。
 そして、カウントナインで中條が立ち上がり試合再開。

「……」
 重い沈黙に身を浸して中條辰は睨んでいた。
 柏木耕一をだ。
 自分をダウンさせた男をだ。
 睨み付ける。
 段々と腕から痺れが引いてきた。
 行ける、と思う。
 さあ、来い。
 両腕を広げた。
 一瞬で、視界の中の耕一が大きくなる。
 凄まじいスピードで間合いを一気に詰め、右のストレート。
 耕一の右拳が中條の額に接触する。
「っ!」
 耕一が呻く。
 打ち抜けない。
 中條がその太い首で頭部を支えきったのだ。
 耕一が右腕を戻すのを追うように中條の体が耕一に密着していった。
 両腕を腰に回してクラッチ(結手)する。
 耕一の両足がマットから浮いた。
 中條の背が、少しだけ後ろに反っている。
 耕一を浮かせたまま中條は足を移動させ、体を右に旋回させた。回しながら、倒れて
いく。
 耕一が両足を中條の腰に回していた。
 どん、と耕一の背中がマットにつく。中條が上になっていた。
 しかし、下になった耕一の両足が中條の腰に巻き付いているのでいわゆるガードポジ
ションになっている。
 甲高い舌打ちの音が中條の口から漏れた。
 グラウンドでの打撃が禁じられているエクストリーム・ルールにおいてはこのような
体勢になった場合、相手の腕を取ってアームロックか腕ひしぎ逆十字固めなどの関節技
に持っていくのが常道といっていい。
 だが、相手にガードポジションを取られると、自由に腕を取りに行けない。
 相手が巻き付けた両足で、こっちの腰の動きを制限することができるからだ。
 耕一が自らの腰を捻るようにして中條の体を横倒しにしようとする。
 中條の体が傾いた瞬間、耕一の体がするりと中條の下から抜け出ていた。
 左膝を一度マットについて、右足はそのまま中條の腰に触れたままその位置を変えて
いく。
 耕一の体が瞬きするほどの間に中條の背中に回っていた。
 左足が跳ね上がって、再び中條の腰に巻き付いている。
 耕一の腕が中條の首へと走った。
 胴締めのスリーパーホールドを狙っているのは明らか。
 一転、下になってしまった中條は自分の腕で耕一の腕が首に食い込むのを防ごうとす
る。
 そして、その攻防をしながらも、ゆっくりと中條の体が起き上がっていった。
 毎日、百キロを越える人間を肩車してスクワットをしていた中條にとっては、その程
度のことは造作も無い。
 完全に立ち上がった。
 会場に低い歓声がどよめく。
 耕一が足をほどいた。そのまま中條が自分を下敷きにして後方に倒れて来ようとする
気配を察したからだ。
 双方、ともにスタンディングに戻っている。
 中條は、自分の左腕が捻り上げられるのを感じていた。
 耕一が背後から、左腕を極めにきたのだ。
 肘に痛みが生じる。
 これに逆らわず体を前方に倒して行けば、やがて完全に前のめりに倒され脇固めで腕
が極められてしまうだろう。
 中條は逆らった。
 真正面から逆らった。
 自分の腕一本で耕一の腕二本による極めを少しの間なら堪える自信があった。
 中條は背すじを伸ばしたままだった。

 どうだ!
 そう簡単におれの関節を極めようったってそうは行かない。
 おれみたいにパワーのある人間に、そう簡単に関節技はかけられないぞ。
 パワーだけのでくの坊じゃねえぞ。
 パワーがあって、何度も何度も道場のリングの上で関節を極められて悲鳴を上げたお
れだ。
 そう簡単には……。
 ほら、おれの背すじはぴしっと伸びているじゃないか。
 まだしつこくおれの左腕を極めて、おれを前に倒そうとするのか。
 それ、右と左の手をクラッチしたらどうだ。
 お手上げだろう。
 それ、せっかくお前がそこまで捻り上げた左腕が、右腕の力を借りてどんどん元に戻
っていくぜ。
 倒されるものか。
 後ろに体重をかけて──。

 ふわり。
 と、中條の体が浮いていた。

 しまった!
 前に倒そうとするのはフェイントだ! 堪えるために後ろに体重をかけたのを利用さ
れた!
 意地を張って直立していようとしたのが災いした。
 せめて片膝をついておくべきだった。
 それにしても、その力を利用したとはいえ、おれを持ち上げるとはなんて奴だ!
 持ち上げられて、後方に投げられる。
 受け身を取らねば後頭部を打っちまう。
 この感覚……。
 不思議だぞ……。
 この感覚は以前に味わったことがあるぞ。
 奴の頭がおれの左脇に密着してやがる。
 で、後ろに投げて、相手の後頭部を……。
 あ!
 そうか!
 そうだ!
 これは、バックドロップじゃねえか!
 おれは単なるファンだった頃からこの技が大好きだったんだ。
 自分がプロレスラーになってからはこの技を練習して得意技にしたんだ。
 新国際プロレスに入門して半年ぐらい経った時、同じ日に入門した奴と、こっそりと
道場のリングでバックドロップの練習をしたよな。
 入門後半年ぐらいじゃ、まだまだ技を教えてもらえなかったからな。
 そしたら、それをデビュー十年目の高原さんっていう選手に見つかったんだ。
 「十年はやい!」ってぶん殴られたんだっけな。
 でも、高原さん、次の日から他の人には内緒でおれたちにコツを教えてくれたっけ。
 あん時は嬉しかったな。
 おれは、高原さんのバックドロップが好きだったからな。
 ファンだった頃から、あれが好きだったんだ。高原さんの試合を見る時はいっつもあ
れを楽しみにしてたんだ。
 だから、嬉しかったな。
 それからも、高原さんはおれに色々なことを教えてくれたよな。
 おれの解雇に最後まで反対してくれたのも高原さんだったしな……。
 高原さん、二ヶ月ぐらい前に新国際プロレスを抜けて、新国際よりずっと小さいとこ
に移ったって聞いたな。

 様々な思考も思いも──。
 ふっ飛んだ。
 後頭部がマットに接触した。が、落ちた角度はそれほど急ではないためにしっかりと
受け身をとった中條にそれほどのダメージはない。
 それよりもバックドロップで投げられたのが精神的にこたえた。
 と、いっても耕一はそういうつもりでこの技をやったわけではない。相手が後ろに体
重をかけるのを利用して後ろに投げただけのつもりだ。
 その証拠に、耕一が仕掛けたそれはプロレスのバックドロップとは異なる部分があっ
た。
 落とす寸前に、頭部を相手の脇から抜いて胸に密着させ、後ろから腰に回していた方
の手──この場合は右手──はそのままに、左手を相手の頭部に添えるような形になっ
ていた。
 この体勢だと、落とした次の瞬間には、左手で相手の首を抱え込み、右手で相手の左
腕を掴んで袈裟固めに持っていける。
 バックドロップというよりも柔道の裏投げに近い。
 事実、耕一は中條に袈裟固めを決めていた。
 さて、ここから腕を極めに行くか、と耕一が思案した時には、中條の右肩が上がって
いた。
 そして、右腕が耕一の腰に回る。
 その右肩が、両肩が押さえ込まれてからきっちり二秒後に上がったことに気付いた人
間は会場にほとんどいなかったであろう。
 中條が、強引にパワーで抱え込まれた首を逃がそうとする。
 首の筋肉が脈打った。
 そして、首が抜けた。
 尋常ではない外し方であった。
 尋常ではない首を持っているからできたことであった。
 中條は立ち上がり、耕一を見下ろした。
 耕一が中條の表情を伺いながら立ち上がる。

「第1ラウンド終了!」
 レフリーの声と同時に、ゴングが鳴っていた。

 試合場の隅に立って呼吸を整えている耕一を見上げてから、浩之はその視線を中條の
方にと転じた。
「すごいっすよ、あれ……」
「あれ?……」
 英二は、一体、なんのことをいっているのかわからずに問うた。
「耕一さんの攻撃ってね、ホント、すごいんですよ」
「ふむ」
「思い切りやられたのに……まだやれるなんて……」
「ああ……」
 英二は理解した。
 浩之は耕一の攻撃を喰らってなお、活動を続けている中條の耐久力に畏怖を感じてい
るのだ。
「あの人に殴られるとね、頭ん中のものがすっ飛んでくんですよ」
「ああ……柏木くんのすごさはわかっているつもりだ」
 英二は耕一が闘うのを過去、一度だけ見たことがある。そして、その相手はここにい
る浩之であった。
 耕一のフックを側頭部に貰った浩之の体が一瞬、逆さになったところを英二は目撃し
ている。

 体中が熱い。
 痛みもある。
 だが、それを熱さが覆い隠している。
 熱い。
 さっき、自分は両肩を押さえ込まれた時、思わず二秒後に右肩を上げていた。
 プロレスでは、両肩を押さえ込まれて三秒間フォールされると負けになる。
 そのクセが出てしまったのだ。
 あいつのせいだ。と、中條は思う。
 あいつがバックドロップなんかやるからだ。
 あいつがあんなことするからだ。
 ついつい「プロレス」をやっちまった。
 しかしなあ……。
 やっぱりなあ……。
 格好が悪いよなあ……。
 プロレスラーが素人にバックドロップなんかやられたまんまじゃなあ……。
 なんか最後の形は違ってたけど、あれは途中までは完全にバックドロップだったもん
なあ……。
 いけねえよなあ……。
 よりにもよっておれが一番好きで、一番得意だった技だもんなあ……。
 こんなの、高原さんが見てたら情けなく思うぜ。
 それは、いけねえよなあ……。
 どうするかな……。
 ……。
 そうだ!
 高原さんに教えてもらったバックドロップを、あいつにぶちかましてやりゃいいんだ。
 うん、そうだ。

「第2ラウンド! 両選手中央へ!」

 ああ。
 今行くよ。

 中條は中央線に向かって歩き出した。

                                     続く  
     どうもvladです。
     48回目であります。
     この試合、次回で終わらせます。


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