鬼狼伝(47) 投稿者:vlad
 なんといったらいいのだろう。
 やはり、分厚いゴムを殴った感触、であろうか。
 耕一は右拳を引きながら、すぐに今度は左拳を疾走させた。
 狙いはやはり、両腕のガードで覆い切れていない眉間。
 すっ、と中條が体をずらす。
 先程と同じだ。耕一の拳は腕に当たった。
 そしてまたあの感触。
「んー……」
 首を傾げながら耕一は距離を取った。別に本人は意識してやっているつもりではない
のだが、顔と仕草が「これは困った」と主張しているようで滑稽さを伴う。
 耕一は蹴りの間合いから一歩分外に出たラインから内側に入らぬように、ゆっくりと
中條の周りを回った。
 対する中條、微動だにせず。
 両腕で頭部をガードしたまま立っている。
 時間が過ぎる。
 二十秒……四十秒……一分。
 耕一は前に出た。
 出ていく。
 蹴りの間合いに入る。
 中條、動かず。
 突きの間合いに入る。
 中條、不動のまま。
 ぶん、と耕一の右腕が唸った。
 ボディに拳を叩き付け、次に左のフックで中條の右耳の裏の辺りを狙う。
 中條はまたずらした。ボディへのパンチはしっかりと水月を狙ったものだったので、
まずそちらの攻撃を外し、そして右耳の裏への攻撃をまたずらしで外す。顔を少し右に
向けるような感じで耕一の左拳を右腕で受けた。
「おっ!」
 耕一が後退しながら思わず声を漏らした。
 腹を殴った右拳にも、あの感触があった。
 耕一は、また蹴りの間合いの少し外に出た。
「よし……」
 軽く頷いて呟く。
 耕一が深呼吸をする。
 大きく息を吸い込み、耕一は改めて構えた。
 タッ──タッ──タッ──という軽快な音が耕一の足とマットが触れ合って生じた。
 一気に、間合いを詰めていった。
 右のストレート。
 左のジャブを二発。
 右のローキック。
 ぐっ、と接近して左右のフックのワンツー。
 離れて左のローキック。
 全て、中條の急所には入っていない。

 こいつ……。
 と、中條は思った。
 とにかくラッシュしてくる気か……。
 面白い。
 受けて立ってやる。
 そう、思った。

 頭部と水月。
 ここ以外は好きなだけ打たせてやる。
 その代わり、そこは死守する。
 防壁に使うのはおれの両腕だ。練習に練習を重ねて、その日の練習が終わった頃には
缶ジュースすら満足に持てなくなったこの両腕だ。
 そういう試練を乗り越えて鋼と化したこの両腕だ。
 打ち砕けるものなら打ち砕いてみろ。
 半端な攻撃じゃビクともしねえぞ。
 足もだ。
 歩けなくなるまでスクワットで鍛えたこの足もだ。何発かローキックを入れてきてる
が一発も効いちゃいねえぞ。
 腹もだ。
 両手を使わなきゃ起きられなくなるまで鍛えたこの腹もだ。さすがに水月に貰っちゃ
まずいが、そうでなきゃ何発だって入れてこい。
 がつんがつんと腕が、腹が、足が揺さぶられる。
 いい攻撃をしてやがる。
 おれじゃなかったらとっくにガードをぶち破られてるんだろうが……。
 おれはそうは行かねえぞ。
 これほど立て続けに攻撃をしてきているのにこれといった隙が無い。こいつ、かなり
やるな。
 少しでも隙を見せれば捕まえて、投げてやるんだが……おっと、一度捕まえちまえば
どんなに堪えても投げる自信があるんだぜ。
 それから投げたらそのままグラウンドで関節を極める。
 こう見えても、殴ったり蹴ったりより、そっちの方が得意っていってもいいぐらいな
んだぜ。
 そろそろか……。
 そろそろ息が切れて、両手両足に疲労が溜まってくる頃だろう。
 そうなったら必ずどこかに隙が出来る。
 それとも、そうなる前に一度退くかな。
 そうしたら食らい付いて行ってもいいな。
 こいつの攻撃は思っていたよりもきつい。あんまり受けすぎると二回戦以降に影響が
ありそうだ。
 ばちっ、と腕に来た。
 ……こいつ……まだ続くのか……。

「あ……」
「気付いたかい」
 浩之の呟きを聞き逃さずに、すかさず英二がいった。
「ええ……殴り方が変わりましたね」
「うん」
 耕一の左右のパンチが立て続けに中條の両腕に炸裂している。
 さっきまでは、そのパンチは眉間や耳の裏を狙って行って、それをガードされるとい
う形で腕に接触していた。
 だが、途中から耕一のパンチが初めから中條の両腕を痛めつけるためのパンチに変わ
った。眉間や耳の裏を殴ろうとしてその間に腕を入れられるのではなく、そこを狙うよ
うな軌道を描きつつ、最初から腕がそれを阻むのを予想している感じだ。
「まずは外堀からか……」
 英二がいった。
 耕一がラッシュを始めてから二分が経過していた。

 腕に衝撃が走り続ける。
 こいつ!
 まだ続くのか!?
 こんな重く、鋭い攻撃を延々と二分も続けてきて、その上まだ続くのか!?
 その上まだ重い。
 その上まだ鋭い。
 なんだ? こいつは!
 こんな奴、初めてだ。
 プロレス時代も含めて、こんな奴は初めてだ。
 まずい。
 いい加減こっちが保たねえ。
 なんて奴だ! おい!
 一瞬、攻撃が止んだ。
 その次の瞬間も、攻撃は来なかった。
 そうか、そうか、そうか。
 やっぱりな。この辺が限界だろうと思ってたぜ。
 今度はこっちの番だ。
 行くぞ、手を伸ばして掴んで──掴んだらもう逃がさねえ。休まれて回復されたら厄
介だ。逃がさねえぞ。
 ……?
 ん?
 腕に、力が入らないぞ。
 まさか、さっきまでのこいつのパンチでおれの腕が痺れてやがるのか!?
 くそ! そんなヤワじゃねえだろ、おれの腕は!
 もっと素早く動けるはずだろ、おれの腕は!
 あれだけ鍛えたんだぞ、おれの腕は!
 行け! 早く奴を捕まえろ!

 中條の手が思い切り、宙を掴んでいた。
 耕一はその手の届く範囲からは既に逃れていたのだ。中條の腕が試合開始当初の状態
であったら間違いなく耕一を捕らえていたであろう。
 が、中條の自慢の両腕は、耕一を逃した。
 中條の体が少し前に泳ぎ、両腕もまた前方に向かって出されている。
 耕一が素早く前進する。
 先程のラッシュ時から全く衰えぬ速度で、一瞬にして中條の懐に入った。
 獲物を捕らえようと中條の両腕が再び動こうとする前に、耕一の右拳が一直線に中條
の顎を真っ正面から打ち抜いていた。
 それを引く寸前に左足を踏み込み接近し、左のフックを中條の右側頭部に一閃させる。
 頭が揺れた。
 だが、まだ倒れない。
 まだその両腕が耕一を捕らえることを諦めていない。
 中條の両腕が耕一の腰に巻き付いたと見えた刹那、耕一の右腕が天に向かって突き上
げられていた。
 強烈なアッパー。
 中條の顔が上を向く。
 ぐらり、と大きく揺れて体勢を低くして……だが、まだ倒れない。
「シィッ!」
 低くなった頭へ、耕一の右の蹴りが食らい付くように走っていった。
 重々しい音が、後ろの方の席に座っている人間の耳にまで聞こえた。

「ダウン!」
 上から聞こえたレフリーの声が、中條の意識を繋ぎ止めていた。
 ダウン……。
 おれは、ダウンしちまったのか。
 このおれが、ぶん殴られて、蹴っ飛ばされて、ダウンしちまったのか……。
 全く……冗談じゃねえぜ……。
 あの野郎、見下ろしてやがる。
 手で、顔に浮いた汗を拭って、涼しい顔してやがる。
 軽く運動して一汗流した……っていうような顔だ。
 そして、いいやがったんだ。
 涼しい顔で、
「やっぱりプロレスラーは打たれ強いなあ」
 本当に、心底、そのことに感心してやがるようだった。
 全く……冗談じゃねえぜ……。
 ……レフリーのカウントがファイブまで行ってやがる。そろそろ立たねえとノックア
ウト負けだ。
 立たねえと……。
 おれはプロレスラーだぞ、この程度でノックアウトされるもんか。
 おれはプロレスラー……。
 って……。
 おれはもうプロレスラーじゃなかったっけか……。
 今のおれはプロレスラーじゃなくて総合格闘家なんだよな。
 ……。
 いや。
 違うぞ。
 例え今はそうでも、おれのこの肉体は、格闘技をやるための元手はプロレスラーの時
に出来上がったものだ。
 だったら、おれはやっぱりプロレスラーだ。
 今はプロレスラーじゃないだろうって?
 うるせえ!
 黙れ! 黙れ! 黙れ!
 おれはプロレスラーだ。
 おれの基礎は、全てプロレスラーだった時に培われたんだ。
 だから、おれはプロレスラーだ。
 何より、おれがプロレスラーであると思いたがっている。
 一度、もう自分はプロレスラーじゃねえ、もう自分はプロレスとは関係無い人間にな
るんだって、決めたな。
 でも、しょうがねえだろ。また、そう思いたくなっちまったんだからよ。
 だから、おれはプロレスラー。それでいいだろうが。
 立つぞ。
 プロレスラーだから立つぞ。
 おれはプロレスラーだ。
 殴られてなんぼのプロレスラーだ。
 蹴られてなんぼのプロレスラーだ。
 マットに背中を打ち付けてなんぼのプロレスラーだ。
 マットに頭を逆さに落とされてなんぼのプロレスラーだ。
 だから立つぞ。
 あいつのいう通りだ。
 プロレスラーは打たれ強いんだ。この程度で寝ちまうような往生際のいい人種じゃね
えんだ。
 さあ、立つぞ。
 ほら、立った。
 おい、レフリー、カウント数えるの止めねえか。
 今、ナインっていってたよな。だったら間に合ったってことだな。
 おう、ファイティングポーズか、んなもんお安い御用だ。
 さあ、ほら、どけ。
 どうだ、おい。
 おめえ、今ので終わったと思ってただろ。
 あの蹴りは強烈だったからなあ、あれで終わったと思うのは無理もねえ……。
 だがな……。
 プロレスラーは打たれ強いんだ。

                                     続く

     どうもvladです。
     47回目です。
     つうわけでもうちょいこの試合続きます。