鬼狼伝(46) 投稿者:vlad
「ねえねえ、次がお兄ちゃんの試合でしょ」
 チケットに付属していた大会パンフレットのトーナメント表を見ながら初音がいった。
初音は、格闘技の試合などというものを観戦するのは初めてなので、今までの試合を見
て、この娘には似合わずやや興奮気味である。
「お兄ちゃん、大丈夫かな? ねえねえ」
 これだけ試合があれば、中には凄惨なものもあり、蹴りを頭部に入れられてピクリと
も動かず、担架で退場していった選手もいる。
 初音は、元々殴ったり蹴ったりということをあまり身近にして生きてきたわけではな
い。精々、従兄弟が姉に蹴られているのを見たぐらいだ。
 そんな初音であるから、急速に従兄弟のことが心配になってきたらしい。
「うーん」
 問われた梓は梓で、耕一の実力というのは未知数なのである。
 耕一は、伍津という人に格闘技を学んでいるらしいが、その、伍津流というのは伍津
双英という人物が多くの他流派から技術を取り入れ試行錯誤した結果、いわゆる総合格
闘技の戦法に近いものになった。
 誰がいうともなく呼び始めた「伍津流」という呼称をそのまま受け入れて五人の直弟
子に日本各地に道場を開かせた。
 これが近年の総合格闘ブームによって注目を浴び始めたものである。
 そのことは、梓は耕一の口から聞いていた。
 だから、その気になればバーリ・トゥードでもやれる。と笑いながら耕一がいってい
たのを覚えている。
「大丈夫だよ、耕一はああ見えて強いから」
 梓は、初音を安心させるためにそんなこといった。半ばは、自分にいい聞かせたのか
もしれない。
「……でも、相手の人強そう……」
 初音がそういった時、既に、耕一の一回戦の相手である中條辰(ちゅうじょう しん)
は入場していた。
 黒いトランクスを履き、上半身は裸である。
 所々筋肉が盛り上がっており、一見して鋼のような印象を受ける。
「……」
 確かに、強そうである。
「大丈夫……」
 二人に挟まれた席に座っていた楓がいった。
「耕一さんは、大丈夫……」
 誰にいうともなく、呟いていた。

「あれですよね、プロレスのリングに上がったことあるってのは」
 例によって、浩之は選手入場口の辺りにたむろしていた。隣には、最近よくつるんで
いる緒方英二が立っている。英二は、自分の試合を終えた後、耕一の試合を見ようと急
いでやってきたというわけである。
「そうそう。確か、背広組と喧嘩して辞めたんだったかな」

 現在二十三歳、二十歳の時に日本では二大メジャー団体に次ぐ中堅どころといわれる
プロレス団体『新国際プロレス』の道場に入門。デビューは二十一歳の時に、同じくそ
れがデビュー戦の二人の選手と、それにデビュー二年目の五人の選手を加えた八人で行
われた「ヤング・バトルロイヤル」であった。
 そこで、デビュー組の他の二人を押し退けて先輩に突っ掛かっていったのが評価を高
め、その一ヶ月後には中堅クラスの選手とシングルマッチを組まれ、負けたものの善戦、
今後が楽しみと雑誌に書かれたのだが、その一ヶ月後に退団。
 原因はあるトラブルであった。
 中條はオフの前日に仲間のレスラーと道場近くの居酒屋で飲んで食って騒いでいた。
 やがて、隣のテーブル席に座っていた男たちが声をかけてきた。
 その場に居合わせた他の客によると、
「兄さんたち、すぐ近くにあるとこのレスラーだろ」
 と、三人いた内の一人がビール瓶を持って、中條の持っていたコップに、ビールを注
いだ。
 雑誌記者のインタビューに応じた店の主人によると、その三人は時々来る客で、見る
からに暴力団関係の人間であった。以前、他の、これまたそちらの方面の稼業人らしい
客と揉めて喧嘩寸前にまでなったことがある。主人にしたら、もう来て欲しくない客だ
ったが、いつも金はちゃんと払うし、それ以前に堅気の人間とトラブルになったことも
無いし、何よりも後難を恐れて帰ってくれとはいえずにその日も、酒を飲ませていた。
 主人は、その三人が近くにある道場にいるプロレスラーに声をかけたのを見てもちろ
ん眉をひそめたが、両者ともすぐに意気投合したようで和気藹々とした雰囲気になった
ので胸を撫で下ろした。
 やがて、三人の男の中でも兄貴分らしい四十歳半ばほどの男が、側に綺麗所が揃って
いる店があるからそっちに行こう、と提案した。
 酔っ払っている中條はともかく、もう一人の仲間のレスラーはいかにもやくざ風の人
間とあまり関わり合うのはどうか、と思ったが、なにしろ男ばかりの道場暮らしである。
綺麗所が揃っている店、といわれては心が動かないわけはない。
 その上、ここの勘定まで持ってくれるというので、中條もそのレスラーも、
「押忍。御馳走になります!」
 と、頭を下げたものだ。
 その居酒屋を出たところで、ことは起こった。
 以前に、三人組のやくざとこの店で揉めた連中が今正にこの店に入ろうとしていたの
だ。つい先日、不完全燃焼のまま喧嘩別れした双方であるから当然、睨み合った。
 相手方の方も、既にどこかで飲んだのか酒が入っており、喧嘩が始まる条件は揃って
いたといっていい。
 どっ、とあちら側が襲いかかってきた。あちらの人数は五人いて、自分たちが有利と
見て勢いにまかせて戦端を開いてきたのだ。
 その時、その五人の男たちはいずれも、喧嘩相手の三人組の後ろに続くガタイのいい
男を、全く関係の無い他の客だと思っていたらしい。
 人数の不利がそのまま反映し、三人組は押されていた。そこへ中條が、
「止めろ、止めろ」
 と、割って入った。
「なんだ、てめえは!」
 一人が激昂して腕を振った。身長一八六センチの中條の顔には届かずにその胸を叩い
た。
 もちろん、その程度は蚊に刺されたほどにも感じない。かえって殴った方が拳を痛め
てしまった。
「ふざけんな! この野郎!」
 中條は酒の勢いもあって激怒し、その男の頬を平手で叩いた。
 その一発で、敵と認識されてしまい。中條は四人の男に一斉に襲われることとなった。
 それを次々に殴り蹴り投げ、ものの十秒で全員を倒した。
 当然、後日問題になった。
 特にこれを問題視したのがいわゆる「フロント」と呼ばれる背広組であった。リング
に上がって戦うわけではなく、興行に際しての会場の確保、チケットの販売などを行う
人々である。

 暴力団関係者同士の喧嘩において、片方に加勢して大暴れした。

 まことに事実はその通りであり、プロレス関係の雑誌だけではなく一般紙にまでその
ことが取り上げられたのはフロント陣にとっては確かに頭痛の原因であったろう。
 解雇されるのではないか、という噂も流れた。
 将来が期待されていたものの、中堅どころながら人気レスラーを多数揃えていた新国
際プロレスにとっては中條辰はそれほどに惜しい人材ではなかった。
 中條はずっと禁足令を喰らって寮の自分の部屋で苛立ちながら日々を送っていた。
 やがて、新聞などで自分がまるで以前から暴力団と交際があったかのように書かれて
いるのを見て、フロントの方にその間違いを訂正したいと申し出たのだが、
「余計なことをするな」
 と拒絶され、さらに苛立っているところへ知り合いのプロレス雑誌記者の方から会社
を通さずにインタビューの申し入れがあった。中條はこれを受けた。
 そのインタビューに答えて、その自分が加勢したという暴力団関係者と自分はその直
前に偶然居酒屋で隣り合った席に座ったことから知り合ったばかりの人間であり、それ
以前からの付き合いは無いことを強くいった。
 これが雑誌に載ると会社からその雑誌に猛然たる抗議がなされ、中條は上の命令に従
わない不穏分子と見なされた。
 このことが、中條の解雇を決定したといわれている。
 だが、そのインタビュー記事は概ね好評であった。特に片方に加勢した理由を聞かれ
て中條が、
「酒を奢ってくれたし、綺麗な人がたくさんいる店に連れてってくれるっていうんで、
その人たちのこと凄いいい人だと思ってましたから、これは味方しなきゃいけないな、
と思ったんです」
 と、答えた部分が大いにウケて、元々、無茶な若手を面白がる傾向のあるプロレスフ
ァンから支持が集まった。
 先輩のレスラーの中にも、
「あの程度の『やんちゃ』は許してもいいんじゃないか。それはしばらくは出場停止と
か何らかのペナルティは必要だろうけど」
 などという人間もいたのだが、無断でインタビューに答えたのが致命的となり、中條
は解雇処分とされた。
 その後、他の団体から誘いを受けたのだが、もはや中條はプロレスと関わり合うのを
止めたくなっており、知人のツテを辿って、何度か総合格闘の試合に出たのだが、その
団体が経営不振から消滅してしまった。
 そして、今回、エクストリーム大会へと出場してきたのである。

「でも、プロじゃないんですか?」
 浩之が疑問を発する。エクストリームは原則としてアマチュアの大会である。
「アマとプロの間に明確な線引きは無いよ。まあ、一般的に『金を取るのがプロ』って
いう考え方はあるけど、そんなこといったらエクストリームだって、他の大会だって、
賞金が出るからね」
「に、しても……」
「彼はフリーランスだからね、しかもけっこう特殊な……」
 現役のプロの格闘技選手というのは、大体がどこかの団体と契約しており、自分の意
志で所属団体と関係のない大会に出場するのは困難である。
 そして、フリーの選手であるが、これもまたアマチュアの大会に出るようなことはほ
とんど無い。プロの選手というのは、それで食うために試合に出る。そうなると、それ
なりのギャラが出ない限り、試合をしようとはしない。
 だが、フリーの中でも特殊な例がある。
 中條のように、別のジャンルで有名になって総合格闘に転向してきたような選手であ
る。
 ネームバリューはある。
 何度か試合にも出た。総合格闘もやれるということは示してある。
 だが、いまいち実力が認められているとはいえない。
 中條は三度、総合格闘の試合に出たが、そこで急所をガードした上で打たせるという
戦法を実行していた。
 受ける、という意味でプロレス的な闘い方といえないこともない。
 三戦して全勝。相手が打ち疲れたところを捕まえてパワーで豪快に投げ、そして一転
して精密な関節技でタップを奪うというのが勝ちパターンであった。
 相手は三人とも駆け出しの選手でプロレスラーとして鍛えられた中條には物足りない
相手であった。当然、見る人間も、それでは中條のことを認めていない。
 そして若手を三人撃破したところで、いよいよ中堅クラスと試合を組んでもらい、自
分の強さをアピールしてやると意気込んだところでの団体消滅である。
 中條は宙に浮いた格好となっていた。
 そこに、エクストリームの話が来た。
 一応、自分はプロであるとの自負もあり、今までは見向きもしていなかったのだが、
最近のエクストリームのレベルの高さはプロにも迫るほどだといわれてビデオを見せら
れた。
 中條の目から見ても、なかなかいい選手がいるようであり、既に何人か、エクストリ
ームをステップにしてプロになって活躍している人間も多い。
 そして、なんとしても魅力なのはその知名度だ。まだまだ一般的とはいえないが、格
闘技ファンの間では年に一度の大イベントと認識されており、ゴールデンタイムではな
いが、試合はテレビ中継される。
 これは自分を総合格闘界に売り出すいい機会と中條はやる気になった。
 英二は、その間の情報も入手していた。芸能界と格闘界はまるっきり別物のように見
えて、アクション映画の俳優が実際に格闘技をやっていたり、格闘家がけっこうテレビ
番組のゲストに呼ばれたりと接触する機会は多い。
「エクストリーム関係者から誘いがあったんじゃないかって話もあるよ」
「え?」
 浩之は虚をつかれたように英二の方を見た。
「中條辰は色んな意味で知名度はあるし、総合格闘の経験もある。これが出場するとな
れば話題になると思ったんだろうね」
「……そうっすね」
 現に浩之も雑誌などを読んで、中條のことは知っていた。
「でも、いいんすかねえ、元プロレスラーが優勝さらっていって……」
「それは……彼の戦法が『打たせて勝つ』式だからねえ……長丁場のトーナメント戦じ
ゃ最後まで残れないと踏んでいるんじゃないかな」
「なるほど……」
「それから、これは別口の全然裏がとれてない情報なんだけど、彼がもし優勝したら、
前々回の一般男子の部の優勝者で今はプロに転向している佃忠久(つくだ ただひさ)
と試合が組まれるって話もあったな」
「……はあ……」
 浩之は、英二が出してくる「情報」にやや圧倒されたようである。ここまで精通して
いるとは思わなかった。
「お、柏木くんも入場したようだな」
 英二のいう通り、二人で話している間に、耕一は既に試合場に上がって、中央線に立
ち、中條と向かい合っていた。
 身長は耕一の方が少し低い。
 肩幅も耕一の方が少し狭い。
 全体的な筋肉量も耕一が劣っているだろう。
「さて……どう闘うか……」
 英二は呟いた。この試合で勝った人間が二回戦での自分の相手なのである。

「はじめっ!」

 レフリーの声に中條の両手が動いた。
 肘を曲げ、顔の両脇に持っていき、頭部をガードする。
 耕一が接近してきた。
 耕一とて決して軽量の選手ではないのだが、その動きは素早い。二人の能力を数値化
すれば素早さでは耕一が勝っているはずだ。
 耕一の右拳が一直線に眉間へ──。
 両腕のガードで覆い切れていない箇所がある。眉間と側頭部の耳より後ろの部分であ
る。
 その眉間へ、耕一の拳は走った。
 中條の上半身が僅かに動く。
 眉間に来ることを読んで、頭部を少しずらしたのだ。
 その動きは小さかったために、眉間への直撃は避けたものの耕一の右拳は中條の右腕
に炸裂した。
「!!……」
 耕一の口から、声にならぬ声が漏れた。
 分厚いゴムを殴ったような感触だった。

                                     続く

     どうも、vladです。
     46回目となりました。
     先日、とある方に、
     「プロレスラーは出さないんですか?」
         と、いわれたのでその気になって、現役でどこかの団体に属してい
     る人間は幾ら何でも無理があるんで色々とそれらしい設定をでっち
     上げました。けっこうそういうでっち上げ作業が好きであることが
     最近判明(笑)

 

http://www3.tky.3web.ne.jp/~vlad/