鬼狼伝(45) 投稿者:vlad
 完全なボクシングスタイルだった。
 その手の位置、フットワークに、試合を観戦している出場選手の数人が怪訝そうな表
情をする。
 緒方英二の格闘技経験はボクシングであると紹介されているし、実際に、学生時代に
アマチュアボクシングで優秀な成績をおさめており、格闘技雑誌『ザ・バトラー』誌上
において、アマチュア時代の現日本ウエルター級チャンピオンに勝利したことも記載さ
れている。
 だからといって、総合格闘技の大会であるエクストリームにボクシング技術のみで出
場してくるわけはないと誰もが思っていた。
 しかし、試合開始直後に英二は、どう見てもボクシングの構えを取り、フットワーク
を使い出した。
 
 とりあえず、試すか……。

 角崎俊二は数発のジャブを軽く打った。
 それがことごとくかわされると右のショートアッパー。
 英二は、上半身を後方に反らしてスウェーでそれを避ける。
 どうしても、スウェーをする時は反らした瞬間は上半身を支えるために下半身に力が
入ってしまう。
 そこが狙いだ。
 角崎の体が沈みながら英二に密着していく。
 左手で英二の右足を掴むとともに、ショートアッパーに使用した右手を胴に回す。
 右肩で腹部を押していきながら右手で英二の胴を左に捻るように動かし、左手で掴ん
だ右足を持ち上げる。
 弧を描いて下方から突き上げるように英二の右の拳が角崎の顔面を捕らえた。
 だが、右足を持たれてしまい片足立ちになっていた状態で放ったパンチなのだから、
十二分な威力が無い。
 角崎は、英二を押していった。
 左足だけで自分の体を支えている英二は、これに耐え切れまい。
 ふっ、と──。
 英二の左足がマットから離れた。
 倒した。
 と、思った一縷の瞬間を狙い澄ましたかのように、英二の右拳が再び弧の動線を虚空
に引いて英二の胸部に押し付けられていた角崎の頭部へ炸裂した。
 左のテンプルに入った。
「くっ!!……」
 しまった!
 僅かにだが、油断してしまった。
 油断、というより、これで相手を倒したと確信した瞬間に、頭を切り替えてしまった
のだ。
 エクストリームでは、既に幾度か触れたように、倒れた相手への打撃が禁じられてい
る。そのルール用の闘い方を練習してきた角崎はこれで打撃は無し、と思ってしまった
のである。
 だが、英二のパンチが唸った瞬間、英二の体は宙に浮いた状態であり、角崎は上半身
を前に倒していたものの、マットに両足の裏以外の場所をつけてはいなかった。
 足の裏以外をマットにつけた時にダウンポジションとなるので、その瞬間には、英二
も角崎も、ダウンしていなかったことになる。
 その、スタンディングからグラウンドへと勝負の場が移る寸前のところで、英二の打
撃が角崎にヒットしたのだ。
 今のは効いた!
 気を抜いたところへ貰う攻撃は、気を張り詰めた時に貰うそれとはダメージが段違い
だ。
 しかし、倒した。
 もう、これでボクシングの技術はほとんど役に立たない。
 さあ、ボクシング以外の技術を持っているのなら、それを見せてみろ。
 でないと、極めるぞ。
 角崎は、英二の足首を極めに行こうと右足首を取りにいった。
 が、英二はそれを引き抜き、左足でマットを蹴って角崎から距離を取ろうとする。
「この……」
 角崎が多少ムキになって手を伸ばすが、英二はマットを蹴り続け、どんどん距離を広
げていく。
 双方、真剣なのだが、はたから見ていると失笑を誘う光景ではある。
 やがて、英二が立ち上がってしまった。
「くそ!」
 叫びながら角崎も身体を起こす。
 だが、今のでわかった。
 こいつ、パンチをかわしたりパンチを当てたりする技術には侮れないものがあるが、
それ以外は駄目だ。特にグラウンドでの寝技はほとんどできないに違いない。
 要するに、ボクサーだ。それ以上のものではない。
 確かに強い。
 ボクサーとして、ボクシングのリングに上がればそこそこのファイトができるだろう。
 同年齢という条件であれば、相手がプロボクサーでも互角の闘いができるに違いない。
 だが、総合格闘技ではプラスアルファが必要不可欠だ。
 ボクシングのような制限されたルールを持つ格闘技の技術だけでは、とても、総合格
闘の闘いのバリエーションに対応できない。
 英二が立ち上がった時点でレフリーの判断でブレイクがかかったために、二人とも中
央線へと戻った。
 試合再開後、角崎は間合いを計りながら右のローキックを放った。
 ローキックで足を攻め、機会を見てタックルに行ってグラウンドに持ち込む。
 おそらく、ボクサーはこれに対応できないだろう。
「ハッ!」
 角崎の右ローは、英二の左腿に綺麗に入った。

「あ、あ、あ、あ、あ」
「少し落ち着けって」
 口をポカンと開けたまま、英二と角崎が動くたびに声を出している由綺に、右隣の席
に座った冬弥がいった。
「あ、あ、あ、当たっちゃった」
 そういった由綺の視線の先では、丁度、角崎の右ローが決まったところだった。
「落ち着け落ち着け、そうそう簡単に英二さんがやられるもんか」
 と、いいつつ冬弥、別に英二が闘っているところを見たことはない。ただ、閉店後の
エコーズのカウンター席で英二がいった。
「おれの心が、やりたいっていうんだよ」
 その言葉、その時の表情。
 それを冬弥は信じていた。
 あんな顔をして、あんなことをいった英二がそう簡単に終わるわけはない。
「兄さん、負けるんじゃないの?」
 が、冬弥の右隣に座った実の妹がいうことは容赦無い。
「そ、そんな、理奈ちゃん」
 と、冬弥は小声でいった。
 冬弥たちが座っているのは最前列から二十八列ほど行ったところの席である。
 緒方英二が出場することで色々な意味で話題になっているのである。アイドルで妹の
理奈がそう望めば、おそらく大会側から特等席ぐらいは用意してもらえただろうが。
「嫌よ、そんなの」
 という理奈の一声で、普通に空いている席のチケットを買い、今ここに座っていると
いうわけである。
 だから、会場のほとんどの人間が、緒方理奈が英二の試合を見に来ているとは思って
いない。精々、理奈たちを関係者立入禁止の選手用通路に通してくれた大会役員ぐらい
だろう。
 理奈は以前からマスコミにそのことを聞かれても、
「その日は、仕事がありますから」
 と、答えていた。
 そのことがまた、英二と理奈が最近不仲だという報道に繋がったが、二人とも、全く
気にしていない。
 と、いうわけで冬弥は、会場に入ってからは由綺と理奈の名前はことさら声を小さく
して呼んでいた。
「だって、兄さんはボクシングだけしかやったことないのよ」
 と、理奈もまた「兄さん」という言葉を小さく発音している。
 理奈は、最近、ドラマの仕事のためにエクストリームのビデオを見ているので、ちょ
っとした知識はある。
「相手の選手がローキックばっかり使いだしたってことは、そのことをわかってるのよ」
「はあ……」
 格闘技に関してはずぶの素人である冬弥は、そういわれれば英二が負けそうな気にな
ってくる。
「……そうとも限らないのではないでしょうか?」
 今までずっと沈黙していた弥生がいった。彼女は、理奈の右隣に座っている。
「もしかしたら、ボクシングの技術しかないように見せているのかもしれません」
「なんでそんなことを?」
「……人を驚かせるのが好きな方ですから」
「……」
 冬弥は、なんか、そんなこといわれたらそんなような気もしてくる。
 優柔不断な男である。
「でも、兄さん、そんなこと練習してるようには見えなかったわ。なんか時々、廊下を
歩きながらシャドーボクシングやってたけど……そもそも、ボクシング止めてからは、
『おれは音楽にかけては天才だから努力する必要は無い』とかいってたのよ、あの人は
……」
 理奈が、なぜボクシングでもかなりいいところまで行っていたのに音楽の道を選んだ
のか、と聞いた時に、
「だってさ、ボクシングは努力しないと……その点、音楽は努力しなくてもいいから」
 などと平然と答えたこともある。
 とにかく、たまには体を動かせといっても「疲れるのやだ」というような兄なのであ
る。
「隠れてやっていたのかもしれませんよ」
 弥生が静かにいった。普段から、無駄なことはほとんど口にしないような人間なので、
珍しく饒舌になると妙に説得力がある。
「私は、見たことがあります」
「え?」

 一ヶ月前ほど、弥生は英二に承諾を貰わねばならぬ事柄があって、緒方プロダクショ
ンの社長室へと行ったのだが、その際にドアが少し開いていたのでそのまま開けて入室
した。
 日頃から英二に「別に中で大したことやってるわけじゃないから、声かけないで勝手
に入ってきちゃっていいよ」といわれていたために、特に何もいわずに入った。
「失礼します」
 入ってからそういった弥生の目の前で、英二は右足を高く上げていた。
 爪先が、英二の頭頂よりも頭一つ高いところに到達している。
 ハイキックを放った直後の体勢であることを弥生は看破した。
「おっと、弥生さんか」
 珍しく困惑を表情に浮かせて、英二が右足を下ろした。
「あー、何かな?」
 これまた珍しくバツの悪そうな顔で尋ねる。
「幾つか、許可を頂きたいことがありまして」
「ああ、そう」
 英二はうっすらと額を湿らせた汗をさりげなく拭いながらソファーに座って、弥生の
話を聞いた。
 英二は、用件を済ませて部屋を出ていこうとする弥生に、
「弥生さん……やっぱりこれからは入る前に声をかけてくれるかな?」
 と、いった。
「はい」
 弥生はほんの少しだけ微笑んで答えた。

「へえ……」
 と、理奈は、ようやく兄を少しは見直す気になったのか、感嘆を表情に表している。
「……人に努力しているところを見せるのが嫌いな方ですから」
 弥生はほんの少しだけ微笑んでいった。

 六発目のローキック。
 そろそろ頃合いか……。
 角崎は七発目のローを英二の足に送り込みながら、タックルに行く機会を狙いだした。
 英二が左のジャブを連続して打ってきたので、角崎は少し後退して距離を取った。
 英二の右腕が動いた。
 この距離だ。届くまい。
 そう思った角崎の予想を裏切って、英二の右ストレートが正面から角崎の顔面のど真
ん中に打ち込まれていた。
 腕が伸びた!? 
 一瞬、角崎にはそうとしか思えなかった。
 実際は、英二がストレートを打つのとほとんど同時といっていい絶妙のタイミングで
踏み込んできたのだ。
 忘れていた。
 この男がボクサーとしては一流であることを忘れていた。
「ぬあっ!」
 後方に倒れていく上半身を立て直して角崎はすぐに倒れ込むように前進した。このま
ま英二の足に食らい付くつもりだ。
 それを察知した英二が後ずさる。
 だが、それを追撃すべく角崎は体勢を低くして突進した。
 今度は、こっちがあいつを逃がさない。
 マットすれすれといっていいほどに低い。
 ある格闘技雑誌の記者に「地を這うような」と形容された低空飛行の両足タックルだ。
 移動距離も長い。
 さらに、こんなに体勢を低くされては英二には攻撃の術が無いはずだ。
 迎撃するには足技を使わねばならないからだ。

 これは捕らえた!

 確信した角崎の顎に右から衝撃がやってきて突き抜けていった。
 脳が激しく震動するのを感じる暇も無く、角崎俊二は意識の途絶えた虚ろな顔をマッ
トに着けていた。
 英二の放った左のローキックが、角崎の顎を横から痛打したのだ。
 カウントをとろうとしたレフリーが身を屈めて、角崎の顔を覗き込み、閉じている瞼
を指で無理矢理開いて眼球を見ていたかと思うと、立ち上がって緒方英二の勝利を宣言
した。
 歓声が上がった。
「ボクシングだけじゃないぞ!」
 そんな声が各所で混じる。

「あー、よかったぁ……」
 いきなり肩の力を抜いた由綺の横で、冬弥も理奈も、呆然とした顔を並べていた。
 とにかく英二が勝ったのが嬉しくて、よくわかっていない由綺はともかくとして、素
人の冬弥にも、多くの試合ビデオを見ている理奈にも、今の英二のローキックが、ボク
シングだけをやっていた人間が苦し紛れに放ったものではないことがわかった。
 明らかに、キックボクシング、それもタイ流のそれによく似た足のしなり方をしてい
た。
「いいフォームでしたね」
 弥生がいうのに、辛うじて頷く冬弥と理奈の向こう側で由綺が、
「そうですよね」
 と、はしゃいでいた。

「余裕っすね」
 花道から選手通路へと移る場所に、浩之が立っていた。
「いや、手強い相手だったよ」
 英二は手を振りながらいった。
「最後のローが外れてタックルを決められていたら危なかった……」
「そうすか」
「それに……足を使わされてしまった」
「……」
 英二は、君も頑張れよ、と浩之に声をかけて控え室へと向かって歩いていった。
 その背中を見送りながら浩之は、
「やっぱり……余裕じゃねえか」
 ぽつり、と、呟いた。

                                     続く

     どうも、vladです。
     四十五回目と相成りました。
     今回特に何もいうこと無し。
     後はもう闘いの連続です。


  

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