鬼狼伝(44) 投稿者:vlad
 自分に向けられている大歓声と好奇の視線を完全に無視して、月島拓也は花道を歩い
ていた。
 歓声。
 全く無名の選手だった拓也が、優勝候補とまではいわないが今大会、かなりよいとこ
ろまで食い込むのではないかと予想されていた精英塾の深水征を破ったことに皆、驚い
ている。
 それがこの歓声となっていた。
「やるじゃねえか!」
 という声を発した人間は、おそらく拓也の負けを予想していたのだろう。
 満員の会場には一万人以上の人間が入っている。
 それらが上げる歓声が自分に向けられている。
 それを喜ぶものは拓也の中には無かった。
 そういうものを喜ぶ人間もいるだろう。
 四方からの歓声に身を浸して快感を味わう人間もいるだろう。
 だが、拓也はそれとは無縁の、別種の存在であった。
 足りない……。
 歓声の音量が足りないのではない。
 もっと別のもの──それが足りない。
 自分が求めているもの──それがここには無いのではないか?
 ふと、不安になる。
 この不安は大きかった。
 何人かの、気になる人間が出場するから、自分もここにやってきたのだ。
 すぐに誰かと当たるだろうと思っていたのが間違いだった。自分は、一人だけAブロ
ックであり──。
 柏木耕一。
 藤田浩之。
 緒方英二。
 それらの男どもは、全てBブロックにいる。
 なんだか、自分だけがのけ者にされているような気すらしてしまう。
 やはり、こんなことは自分の性に合っていないようだ。
 例えば、やりたい男がいる。
 その男が夜道を歩いている。
 その進行方向に立って睨み付けてやる。
 睨み付けながらいってやる。
「やろう……」
 と。
 自分にはそういうやり方が合っているのではないのか?
 歓声。
 賞賛。
 栄光。
 そんなものはいらない。
 そういうものが欲しくてやっているんじゃないんだ。
 花道の脇に、男がいる。
 藤田浩之と緒方英二だ。
 二人でそこから拓也の試合を見ていたらしい。
 緒方英二の方は正直、どういう闘いをする人間なのかわかっていないが、藤田浩之の
方は一度、手を合わせたことがある。
 いいファイターだ。
 とてもいい闘いをする。
 指で目を突こうとすれば、なんの躊躇もなくその指に噛み付いてくるような素晴らし
いファイトをする。
 拓也の表情が、この日、初めて歓喜に歪んでいた。
 同志よ──。
 勝手にそのように呼びかけられても浩之にとっては迷惑かもしれないが、ある一点に
おいて、藤田浩之は月島拓也にとって同志であった。
「……」
 無言の内に、拓也が浩之に何かをいっているように、英二には見えた。
 つまらないものを見せたね。
 そんなようなことをいっているように見えた。
 浩之もそれには気付いているはずだ。
「……おっ、ここでやる気かよ」
 おどけた様子で一歩退いてにやりと笑う。
 拓也が浩之へと視線を向けた瞬間、その視界に入った浩之を、英二の体が隠していた。
「二人とも、止めたまえ」
 拓也が、立ち止まった。
「藤田くんも、そういうことをいうなよ。彼は、本当にここで始めてもおかしくないん
だから」
 苦笑しながら英二がいった。
 しっかりと浩之と拓也の間に入っている。
 気勢を削がれたのか、それとも緒方英二という男に一抹の興味を覚えたのか、拓也は
唇の端に微かに苦笑を浮かべて、そのまま花道を下がっていった。
 なんとなく、英二の顔を立てたような感じだ。
「あーあ、行っちまった」
「おいおい」
 残念そうに呟いた浩之に、英二はまた苦笑せざるを得なかった。
「やりたかったのか」
「まあ……ここで始まっちまってもよかったっス」
 浩之はいいながら握り拳を解いた。
「君らは……全く、なあ……」
 呆れたように英二はいい、身を翻す。Aブロックの後二試合が終わればすぐにBブロ
ックの第一試合が始まるのだ。英二はそこで角崎俊二(すみざき しゅんじ)という二
十二歳の選手と闘うことになっている。
「それじゃ、おれは少し体を暖めておくよ」
「はい、見てますよ、試合」

 控え室にまで歓声が聞こえてきた。試合が終わったのだろう。
 少し早いが、英二は立ち上がった。
 控え室を出ると、丁度、自分を呼びに来た係員と鉢合わせした。
「緒方選手、時間です」
「ああ」
 と、廊下を歩いていくと人がいた。
 四人。係員とかには見えない。もう、この辺りは関係者以外は入れないところだ。
 女が三人。男が一人。
 男は知っている。よく行く喫茶店でバイトをしている青年だ。
 女性の一人も、すぐにわかった。自分が代表取締役などというものをやっている会社
の社員だ。
 そして、残りの二人も、よく見たら知っている人間だ。
 英二は自然と頷いていた。誰もが緒方英二の身内と知っている人間ならば、頼めばこ
っちに通してくれることもあるだろう。
「みんな、来てたのか」
 英二は立ち止まった。
「試合、見に行くっていったでしょ」
 笑いながら、藤井冬弥がいった。
「今日は由綺さんが夕方から仕事なので着いてきました」
 と、業務報告をする時と寸分違わぬ表情と声で、篠塚弥生がいった。
「英二さん、頑張って下さい」
 やたらと嬉しそうにいったサングラスをして髪をお下げにしている異様な風体の人物
は森川由綺であるらしい。
 と、なると、
「……」
 黙ったまま、じっと、英二を見つめているのは妹だろう。
 やはり、目を隠すためか、サングラスをして、帽子を目深にかぶり、普段テレビなど
に出ている時よりも大分地味な服装をしている。もっとも、このトップアイドルをやっ
ている妹は、家にいる時はあまり化粧もせずにいる。
 いつも下ろしている髪を結び上げてポニーテールにしているので、一目見ただけでは
わからないだろう。
「応援に来てくれたのかい? 理奈」
「……とうとうここまで来たわね……兄さん」
 と、緒方理奈はいった。
「うん、来た」
 しばらくの間、顔を合わせる度にエクストリーム出場を取り止めろと兄にいっていた
理奈の表情は苦い。
「どうなったって知らないから」
「でも……応援はしてくれるんだろ」
「……寝たきりになられても迷惑だからね……」
「うん、頼むよ」
 英二は、理奈に微笑した。
 久しぶりに見る種類の兄の笑顔だった。
 いつもは、どことなく人を小馬鹿にしたような、はっきりいってしまえば余りいい感
じのする笑顔は見せないのだが、その時のそれは珍しく純度の高いもののように理奈に
は見えた。
 久しぶりに見る種類の兄の笑顔だった。
 アイドル・プロデューサーに転向した英二が、妹の理奈をデビューさせる直前、
「理奈、頼んだよ」
 そういって、あんな風に笑ったことを覚えている。
 当時、英二のアイドル・プロデューサー転向はファンには歓迎されず、そんなことし
ないでミュージシャンとしての活動を続けてくれというファンレター、というよりも、
嘆願書が段ボール箱一杯に入っていたのを理奈は目撃している。
 緒方英二にとって音楽家人生の正念場といってよかった時期だろう。
「頼むぞ」
 と、その時期、理奈は英二にそういう類のことをいわれることが非常に多かった。
「応援してるから」
 と、いう声も、自分がプロデュースしたアイドルを応援するのは当たり前なのだが、
よくよく考えてみれば、英二なりに、真摯な気持ちだったのだろう。
 なんといっても理奈がその世界に足を踏み入れたのには英二の意向が大きく関わって
いるのだ。ここで失敗させるわけにはいかないと思っていたはずだ。
 兄の微笑が消えて、兄が自分に背中を向けた瞬間。
「兄さん」
 少し大きめの声で理奈は兄を呼んでいた。
「ん?」
「応援してるから!」
「……ああ」
 もう一度、ふっとあの微笑を浮かべると、英二は前を向き、軽く片手を振って試合場
へと向かっていった。

 野球、サッカー、バスケット、バレー。
 学生時代は、色々な球技を経験していて、二十歳を過ぎてから総合格闘技のジムに通
い始めた選手だった。
 角崎俊二。
 格闘家として見れば、純粋培養に近い総合格闘家(トータルファイター)である。
 どうしても格闘技の経験自体が少ないというマイナス部分はあるものの、生まれて始
めてやった格闘技が総合格闘であり、それ用の練習のみをしてきただけに、総合格闘の
試合では不利になるようなクセがついていないという利点もある。
 対戦相手よりも先に入場してきた角崎は試合場でいきなりバク転を見せた。
 わっ、と歓声が上がる。
 アマチュアであるエクストリームでは、あまりやる選手はいないが、それでもこの程
度のパフォーマンスはよく見られる。
 特に、角崎はその傾向が強い選手で、もし勝ったら三回連続のバク転を見せるなどと
雑誌のインタビューに答えている。
「へえ……盛り上げるねえ」
 沸き立つ歓声の中を、英二が試合場へと歩いてくる。
 英二は、ボクサーのようにトランクスを履いて上半身には無地のTシャツを着ている。
 英二に浴びせられる歓声はミュージシャンとしての彼のファンがけっこう多いのか、
概ね好意的なものだったが、やはり時折、
「格闘なんかできんのかよ!」
 という野次というか、本当に疑問に思っているのか、そういう声も混じる。
「英二さん、頑張って下さい」
 花道のすぐ横から女性の声がした。見てみると、なかなか可愛い女性だ。どうも、見
た感じではエクストリームのファンではなくて緒方英二のファンのようだ。
「どうせ脱ぐんだ。あげちゃおう」
 英二は小さく呟くと、その場でTシャツを脱いで、それをその女性に向かって放り投
げた。
 咄嗟にそれを受け取った女性が、一瞬呆然としたが、やがて顔を赤らめた。
 歓声が高まる。
 緒方英二はどうも一般的には「気障」という印象があるらしい。
 今のは、英二がその一般的にイメージされているキャラクター通りの行動をしたので、
「あ、こいつやっぱり緒方英二だよ」とでもいうような、ある種、安心にも似た感情が
見ている人間に生まれて、それが歓声となって表れたものであった。
 だが、注意深く聞けば、女性の声を多分に含んだ嬌声に混じるように、へえ、とか、
ほう、とかいう感嘆の声が上がったことを看破し得るだろう。
 Tシャツを脱ぎ捨てた英二の上半身は、その身長としては理想的といっていい量の肉
がつき、体全体が締まっていた。
 試合場に上がった英二が軽く両手を上げて歓声に応える。
 そして、その歓声が完全には静まらぬ内に、レフリーが英二と、角崎の間に入って、
細々とルールの確認をする。
 それが終わると、レフリーが数歩退く。
 二人の間には誰もいない。
 後は「始まる」だけだ。
 そして……。
「はじめっ!」
 始まった。

                                     続く

     どうも、vladです。
     やっとこ44回目となりました。
     完結まで後十六回となりまして、なんだかすぐ終わるような、終わ
     らないような気がしております。