鬼狼伝(43) 投稿者:vlad
 エクストリーム大会、一般男子の部、Aブロック二回戦。
 精英塾二段、深水征(ふかみず ただし)。
 精英塾──。
 早くから他の人間に先駆けてボクシングのパンチ技術を取り入れて「開明派」と呼ば
れた空手家である塾長、姫迫泰三(ひめさこ たいぞう)が三十年前に作った道場である。
 そのなんでも取り入れるという貪欲さが、この精英塾に十年前、寝技を導入するとい
う現象を起こした。
 当時、既に八十歳で一線を退いていた姫迫泰三の後を継いでいた、姫迫の高弟、音羽
幸二(おとわ こうじ)がサンボに魅せられたことがその原因だった。
 サンボ。
 ロシア──正確には旧ソ連──で生まれた格闘技である。
 相似点が多いことから、日本の柔道によく似た……と日本では紹介されることが多い。
そのサンボが誇る関節技のバリエーションの多彩さは、かつて日本柔道が、柔術からあ
る変化(進化とも退化とも断定するのを避ける)をした時に、立ち状態、すなわちスタ
ンディングポジションからの関節技を禁じるルールを設けたために生まれようがなかっ
た、組んだ相手に飛びついて関節技をかける飛びつき十字固めなどの技をその技術体系
の中に産み落とした。
 十年前といえば、そろそろサンボが一般にも注目されていた頃であろうか。
 その時期に音羽幸二は決断し、精英塾にサンボを基調とした関節技、及び、絞め技を
導入することを発表した。
 当然「精英塾が変わってしまう」という反対意見も多く、それらに窮した音羽は前塾
長、姫迫泰三の病室を訪ねたという。
 当時、姫迫泰三は病室にその身を横たえて、一日一本の注射によって薬物を体内に取
り込まねば生命活動の維持が困難なほどの病身となっていた。
 注射を打って少し気分の良くなった姫迫は、音羽の意見を聞いた。
「正直、自分でも自分が正しいかわかりません」
 思っていたよりも多い反対者に音羽は戸惑ってもいた。
「やれ」
 と、一言、姫迫は呟いたといわれる。そしてしばらく沈黙し、
「精英塾の精神が変わらねばよい」
 天井を見上げながらいった。
「押忍」
 以後、音羽は自らの決断を実行に移した。
 彼の師の「なんでも取り入れることが精英塾の精神であり、それが変わらねばよい」
という意を悟って力を得たからである。
 精英塾の精神が変わらねばよい。という姫迫の言葉をもって彼は反対派の説得にあた
り、残念ながら数名の脱退者を出しながらも、なんとか精英塾が潰れるようなことなく、
その道場の床の上で寝技の練習がなされるようになった。
 だが、まだまだ寝技に未熟といえる音羽はたまたま、自宅の近所にサンボの経験者が
住んでいたのを良いことにその人物に師事しようとした。
 彼は、それほどの実績のある選手ではなく、精英塾の塾長が教えを乞いに来たことに
恐縮して、自分のつてを頼って、全日本大会クラスの人間を紹介してくれた。
 その人物のところに音羽は通い、後には、先方に、精英塾の道場へと出向いてもらっ
た。
「ボクシングは、その面だけを突き詰めてきただけに、パンチの攻防の技術に関しては
空手を上回るものがある」
 そう思い立った四十三歳の姫迫泰三は、三十七年前、あるボクシングジムに足を踏み
入れた。
 道場こそ開いていなかったものの、姫迫は既に空手界では有名な選手で、畑違いなが
ら同じ格闘技ということでボクシング関係者の中でも彼の名を知る者は多かった。
 そのボクシングジムで、彼につくことになったトレーナーもその一人で、これまた、
三十七年後、彼の一番弟子に教えを乞われたサンビストのようにただただ恐縮していた。
 ただでさえ、そのトレーナーと姫迫の間に十を数える年齢差があったことも、それを
助長していただろう。
「私が教えてもらいに来ているのだから、あなたは教えてやればよいのです」
 姫迫のこの言葉は有名である。
 その話を聞いていた音羽は「これも、精英塾の精神だ」と常々思っていた。
 今や道場主である彼が、他人に教えを乞いに足を運んだのも、その精神を尊んでいた
ゆえであろう。
 その精英塾。
 エクストリームには、今まで何人か選手を出していて、優勝者こそ輩出していないが、
既に開催当初からのファンにとっては、耳に馴染んだ存在である。
 今回、精英塾は、若干二十歳の深水征を送り込んで来た。
 まだ初段だが、その素質に関しては師範、先輩連中が折り紙をつけている。
 若手の中でも最近、頭角を現してきた選手として雑誌などで紹介されており、注目が
集まっていた。

「両選手、中央へ!」

「押忍!」
 レフリーの声に答えて、深水は試合場に上がった。
 去年出場した先輩に聞いていたように、そこそこの固さがある。
 足で数度、踏み鳴らす。
 前を見た。
 対戦相手が静かに、立っている。
 異常に細い目をしていた。
 一体、前が見えているのかいないのか。
「はじめっ!」
「おうっ!」
 深水が気合を入れて構えた時、相手の細い目が、一瞬僅かに開いて輝いたように見え
た。

 全く、注目されていない選手であった。
 格闘技の前歴は、空手。
 小倉道場で一年学んだ。と、パンフレットの選手紹介にはある。
 月島拓也。
 細い目を持つ男だった。
 相手が「期待の新鋭」などといわれている深水である。こっちに注目しろというのが
無理な話だ。
 小倉四郎の小倉道場は、知っている人間も少ないし、格闘技の雑誌の取材なども受け
たことはない。
 だから、パンフレットを見た人間の中には、
「なんだ空手家か。グラウンドもできる精英塾の選手の敵じゃないだろ」
 と、早くも勝敗を予想していた者もいた。
 しかし、小倉道場は、精英塾ほどの知名度は無いが、元々空手道場でありながら、寝
技も教える道場である。
 そして、そのことは精英塾の深水征も承知していた。
 この辺りの情報収集は、やはり、大きな組織に属している強みであろう。自分以外の
他の十五人の選手の情報を深水は知らされていた。

 細い目が自分を見ていることを深水は感知していた。
 じっと見ている。
 真っ直ぐに肘の辺りを見たかと思えば、膝へと視線が移る。
 薄気味の悪い感じがする視線であった。
 構えを取っている深水に対して棒立ちである。
 ただ、見ている。
 そのまま三十秒の時が刻まれ、焦れた深水が接近していった。
「……」
 声と呼べるようなものは、拓也の口からは発されなかった。
 ひぅぅぅぅぅ。
 とでもいうような、掠れた口笛のような音色だった。
 拓也の腰が落ちる。
 いよいよ構えを取る気か。
 深水が前身を止める。
 どんな構えをするのか見定めてやろう、といった感じだ。
 腰が落ち、頭が沈む。
 両手を開いたまま前方に出す。
 それが揺れる。
 ゆらっ。
 と、空中を漂うように揺れている。
 空手の構えではない。
 アマレスのそれに近い。
 すり足で、拓也が前に出てきた。
 明らかに組み付いていくことを前提とした構えだ。
 頭部が両肩の間に沈み込むように首を下げているために、打撃を頭部へと炸裂させる
のは困難であろう。
 特に、足技でいえば回し蹴り、手技でいえばフックなどの横に弧線を引くような攻撃
を頭部へ当てるのはほぼ不可能だろう。
 そのような攻撃が来たならば、おそらく、すぐさま体全体を沈めて攻撃をかわすとと
もに腰か足にタックルで食らい付いてくるに違いない。

 そっちがそう来るのならば……。 

 深水は寄っていった。
 一発だけ、牽制の左ジャブを放つ。
 一瞬だけ、拓也の前身が止まる。
 そして、またすぐに前へ前へと進んでくる。
 ほぼ体格に差異は無い。少し、拓也の方が背が高いぐらいで手足のリーチにはそれほ
どに差が無い。
 互いに、ほぼ同時に、互いの射程距離内に入った。
 拓也の体勢が沈む一瞬前、深水の体が素早く前に出て組み付いていた。
 右腕が拓也の脇の下を通って、拳が天井へと突き上げられる。
 丁度、拓也の左脇に、深水の曲がった右腕がはまった形になった。
 その右腕の拳を自分の顔に向けるようにして引きつけ、拓也の左半身を吊り上げるよ
うに持っていく。
 左手は拓也の右手首を掴んで下方に引き落とすと同時に自分の側へと引き寄せる。
 拓也の左足が浮いた瞬間。
 深水の背が拓也の腹部に叩き付けるように当たっていき、右足が右足へと重ねられた。
 膝に力をかける。
 深水の右足の上を横に回転して、拓也の体が舞い上がった。
 柔道でいう払い腰。
 綺麗にマット上に拓也を叩き付けたそれは、柔道の試合ならば一本を取っていたであ
ろう。
 だが、エクストリーム・ルールでは、いくら相手を綺麗に投げても勝負は決まらない
し、延長戦を終えてからの判定でも、それほど大きなポイントが与えられるわけではな
い。
 拓也が倒れた時には、深水は左手で手首を掴んでいた拓也の右腕に、自らの右手を走
らせていた。
 そして、自らも背中から倒れていく。
 左足が跳ね上がり、拓也の首へと落ちていった。
 払い腰からの腕ひしぎ逆十字固め。
 ほぼ、セオリー通りの攻めである。
 だが、払い腰で投げられた時点で、既に拓也もこれあるを予期していた。受け身をと
った左手をすぐに右に振ってクラッチ(結手)する。
 膠着状態が一分ほど続き、やがて、二人の腕に浮き出た汗が深水の右手を滑らせた。
「!……」
 その寸瞬の好機を逃さずに、拓也は両腕を左に振った。
 左手の拘束も切った。と、いうより、深水の方が、腕ひしぎを諦めて離した。
 体を180度転回させて拓也の上に覆い被さる。
 相手の胸の上に自分の上半身を横倒しにするように乗せて、下方になった側の腕で、
相手の首や頭部をロックする袈裟固めの体勢に持っていこうとした。
 袈裟固めは、柔道では「押さえ込み技」とされ、三十秒間その体勢を維持すれば一本
勝ちとなる。
 が、エクストリームのような総合格闘技では、袈裟固めや、柔術ではサイドポジショ
ンとも呼ばれる横四方固めなどは、関節を極めに行く前の一つのステップのようなもの
である。
 相手を押さえ込んで、それから関節を極めに行くのだ。
 袈裟固めからの関節絞め技への移行には、肘関節をテコの原理で極めるアームロック
系の技や、相手の腕を上げさせて、肩に自分の頭を押し付けて両手をクラッチして頸動
脈を締め上げる肩固めなどが最も無難で無理の無い形である。
 深水も、柔道でいう腕絡みことV1アームロックへの移行を狙っていた。
 肘が曲がって拳が頭部方向を向いている状態の相手の腕の手首をマットに押さえつけ、
空いている方のもう一方の手を、相手の肘の下を潜らせて手首を押さえた腕を掴み、肘
の下を通した腕を上方に上げていくことによって、相手の肘は破壊される。
 そのためには手首と、そして肩とをロックせねばならない。
 袈裟固めから深水がそれに移行しようとした時、
「上半身、下げろ!」
 先輩の声がした。
 上半身──。
 そういえば、少し上半身が上がり気味かもしれない。
 拓也の左足が跳ね飛んで深水の頭を刈ったのは次の瞬間の出来事だった。
 会場に、低いどよめきが上がる。
 確かに、深水は袈裟固めの時にやや上半身が高い位置にあった。しかし、それも、そ
れほどに高いというわけではなかった。
 観客たちは、拓也の体の柔軟さに驚いたのである。
 試合場への花道のところでこの試合を見ていた浩之と英二は、あの男の軟体動物のご
とき足の動きを一度見て、浩之にいたってはそれのせいで痛い目に合っているために、
今更驚くことでもない。が、やはり驚異なのは確かである。
 首を足で刈られた。
 すぐにこれを外さねば、肩を足でロックされて腕ひしぎ逆十字固めに持って行かれる。
 深水は両手で首に絡みつくように密着している拓也の左足を引き離すと同時に、頭を
斜めに振って逃れた。
 ほっと一息つく暇も無く。恐ろしく研ぎ澄まされた冷たい気配が自分の後背に回って
いるのを深水は直感で悟っていた。
 首に悪寒。
 これは、もはや、予測というより予感に近い。
 思った通り、拓也の腕がスリーパーホールドに来る。
 が、深水は顎を引いて、腕の侵入を許さない。
 拓也の腕が少し上にと移動した。力ずくで強引に顔を上げさせて首をがら空きにして
しまおうとしているのだ。
 負けるか!
 首の筋肉だって鍛えている。この程度で負けるか。
 そう思った深水の目の前に、拓也の右手の親指があった。
「あ!」
 と、隣にいた浩之が苦々しげに叫んだのを、英二は、微笑ともとれるような笑みを口
辺に浮かべながら聞いていた。浩之は以前、拓也と闘って似たような手口を使われた経
験がある。
 拓也は曲げた親指の関節部を深水の閉じた目の上に押し付けていた。目を閉じている
とはいってもこれは効く。
 しかも、ご丁寧に、親指以外の四本の指でそれを隠している。あまり長くやっていれ
ばレフリーに見咎められたかもしれないが、それによって深水の顎が上がるのにそれ程
の時間はかからなかった。
 左腕が即座に首に巻き付く。
 右手が、顔から後頭部へと移った。
 スリーパーホールドが入った。
 頸動脈を締め上げるこの技は、一度入ればそうそう保つものではない。
 完全に技が入ったと見るや、沸き上がった歓声は、レフリーが拓也の腕をほどき、不
承不承といった面持ちで拓也が立ち上がり、その後に残された深水が落ちていることを
知ると、より一層、爆発的に高まった。
「勝者、月島拓也」
 勝ち名乗りを受けながら、到底、勝者とは思えぬ不満面で拓也は試合場を下りて行っ
た。途中、試合場に駆け上がる精英塾の門下生に対しても一瞥もくれずに去って行った。
「ここは僕の居場所じゃないんじゃないか?」
 その呟きを聞いた者は誰もいなかっただろう。

「深水、前塾長が呼んでるぞ」
 目を開いた時に、いきなりそういわれて深水征は驚く以外の行為ができなかった。
 なにしろ、さっきの試合がどうなったのかもわかっていないのである。
 話を聞くと、スリーパーホールドで落とされてしまったらしい。
「で、なんていいました?」
「前塾長が呼んでる」
 前塾長といえば今年で九十歳になる姫迫泰三のことである。
「会場に来ていたんですか!?」
 確か姫迫は、五年前に退院し、自宅療養に移れたものの車椅子に乗らねば外出できぬ
ほどに体は弱っていたはずだ。
 深水は、ノロノロと起き上がって控え室を出た。廊下の隅に、ごつい体格をした数人
の男に囲まれて車椅子に座っている老人がいる。
「押忍」
「見てたよ」
 その言葉が、重くのしかかった。
「は、恥ずかしいものをお見せしました」
「最後の……裸絞め(スリーパーホールド)の前に……目をやられたろ」
「!……」
 レフリーも気付いていなかったことをこの老人は感付いていたのか。おそらく、長年
の経験による判断であろう。
「相手が悪かったな……」
「押忍」
「で、あの相手……どこら辺を凄いと思った?」
「……おれより若いのに……勝つことに対する執念とか……そういう……上手くいえな
いんですけど、メンタル的な部分が……自分は完全に負けていました」
「……で、どうする?」
「見習います。あいつを見習って、肉体以上に……精神を鍛えます。……あ、いえ、決
して目を突いていくということではないです!」
「うん」
 満足そうに、老人は笑った。
「そろそろ……昇段試験を受けてみなさい」
「……押忍」
 頭が、自然と下がった。
「やります……やります……おれ、やります」
 下を向いて、深水征は呟き続けた。下を向いたのは、この師匠に涙を見せたくなかっ
たからかもしれない。

                                     続く

     どうも、vladです。 
          四十三回目、いよいよ男子の部へと突入です。
     えーっと、あらかじめ断っておきますと今回出てきた精英塾の深水
     征は今回だけのゲストオリキャラです。
     すんません、本当は適当に月島兄やんに潰されてもらう役だったん
     ですが、何気なく書いた精英塾の説明のところに無用にノッてしま
     って(笑)こんな具合になりました。
      

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