鬼狼伝(42) 投稿者:vlad
 勝った。
 自分が優勝した。
 実感が、まだもやもやとした状態で静香の中でくすぶっている。
 その状態のまま試合場を下り、廊下を歩き、控え室に入る。
 道着を脱ぎ、シャワーを浴び、上下のトレーナーを着る。
 こうしてみると、何もかもが一瞬の間に垣間見えた夢のような気がする。
 試合は……終わったのではなく、これから始まるのではないのか?
 そんな気持ちになる。
 今にも、大会の係員がドアを開けて、
「御堂選手、時間です」
 と、声をかけてくるのではないだろうか。
 ぼーっとする。
 ぼーっと壁を見ている。
 何の変哲もないきれいな壁だ。
 真っ白い壁を見ている。
 左目の上辺りが熱い。
 綾香にフックとハイキックを喰らった箇所だ。
 痛いというよりは熱い。
 そこにあるのは痛さというよりは熱さであった。
 その熱さが一時の白昼夢を現実へと繋げている。
 現実に、自分は来栖川綾香と闘い──勝ったのだ。
 実感が、ようやく輪郭を持ち始める。
 やった……。
 去年、準優勝で終わってからずっと練習に励んできた甲斐があった。
 報われた。
 あの辛さも苦しみも──
 静香は立ち上がった。これから、一応、病院に行くことになっている。頭部に攻撃を
受けたので今はなんともなくとも念のために検査を受けた方がいいと医務室でいわれた
のだ。
 柳川が表で待っているので急がねばならない。
 静香は立ち上がり、ジャンバーを拾おうとして何気なく、壁にかかっていた鏡を見た。
「……えぇーーーーっ!」

 その声を、柳川祐也は控え室のドアの前で聞いていた。
 優勝者インタビューのために控え室の前に集まっている雑誌記者たちが何事かと顔を
見合わせる。
「おい、どうした」
 柳川は、僅かにドアを開け、その隙間から中に滑り込んだ。
「おい」
「あ、柳川さん」
 静香はジャンバーを頭から被って右目だけを覗かせていた。
「……なんだその格好は?」
「……」
 沈黙した静香に近付いていった柳川は無造作に、その頭の大部分を覆っているジャン
バーを取ろうとした。
「あ! いや! 駄目です!」
 静香は物凄い勢いで後退した。
 ジャンバーを掴もうとして空かされた右手を引っ込めながら、柳川は憮然とした様子
でいった。
「一体、なんだ?」
「……」
 また沈黙。
「おれにもいえないことか?」
「……笑いません?」
「面白かったら笑う、という可能性は完全には否定できん」
「……じゃ、駄目です」
 いいつつ、静香が壁を沿うように柳川から離れていく。
 柳川は溜め息をついて微かに苦笑した。静香には見馴れた表情なのだが、彼の知人が
見たら目を剥くかもしれない。
「笑わんから話してみろ」
「……笑いませんね?」
「ああ」
「絶対ですね」
「ああ」
「ちょっとこっち来て下さい」
 ちょいちょい、と指先で静香が招くので柳川は部屋の隅の方に移動した。
「なんだ。部屋には誰もいないぞ」
「これ、見て下さい」
 そういって、静香が頭からジャンバーを取った。
「ふむ……」
 柳川が手を伸ばして、静香の左目の上、瞼の辺りに触れる。
「見事に腫れ上がったな」
 静香の左目はもうほとんど閉じられていた。赤く変色して膨れ上がった瞼が静香の左
目を押し潰しているのだ。
 どうやら、先程のハイキックのせいで腫れだしたらしい。
「……おかしくないですか?」
「試合の後だ。別におかしくはない」
 そういいながら、柳川は依然として静香の瞼に触れている。
 熱く、熱を持っていた。
「すぐに病院に行くぞ」
「あの……」
「なんだ?」
「表に、記者さんたち来てるんですよね」
「ん……ああ」
「うーん」
 と、唸りながら静香はまた頭にジャンバーを被った。
 他人の気持ちを汲み取るのが得意とはいえぬ柳川だが、彼女が腫れ上がった顔を他人
の目にさらしたくないという気持ちはわかった。
 しかし、できるだけ早く病院に行った方がよい。
「そのまま、ジャンバーで隠して行けばいいだろう」
「でも、それだとどうも視界が限られてしまって歩きにくいんですよ」
「おれが誘導する」
 と、柳川は右手を出した。
 静香はその手を握った。
「あと、もしジャンバーが取れて、もし写真なんか撮られたら……」
「そんな奴は殴る」
「でも、撮られちゃったら……」
「カメラを壊す」
「でもでも、撮ってすぐに逃げられたら……」
「地の果てまでも追い掛ける」
「じゃあ……お願いします」
「ああ」
 柳川が、左手でドアを開けた。
 柳川の後に静香が出てくると見るや、すぐにカメラのフラッシュが幾つもの光を静香
に浴びせてくる。
「どけ、インタビューは病院に行ってから受ける」
 柳川の声は連続して押し寄せる質問の声に流されて行った。
「あの……すみません。あとでお答えしますので」
 ジャンバーに包まれた頭を下げながら静香は柳川に引っ張られて行く。
「一言だけでいいんです!」
 叫んだ記者が勢い余って静香の体に触れた途端、その記者は横合いからやってきた手
に頭部を掴まれていた。
「のけ」
 その手の持ち主は眼鏡のレンズの奥で目を冷たく光らせながらいった。
「道を開けろ」
 前方を向いていった柳川の声が人垣を切り開く。
「行くぞ」
「はい」
 足早に去って行く二人を追おうとする者はいなかった。
 廊下を歩いている間、その珍奇な二人組に視線を注ぐ人間は多かったが、試合の時と
は服装が違い、さらには顔を隠しているので長身の無闇に眼光の鋭い男に手を引かれて
行くのが御堂静香であると気付いた人間はほとんどいないようであった。
「ありがとうございました。柳川さん」
「うむ」
 そういう間に二人は試合会場を出ていた。
 エクストリームが行われている試合会場は公園に隣接しており、会場を出るとすぐに
さくらの木が左右に植えられた並木道に出る。
「あの……柳川さん」
「なんだ?」
「今まで……お父さんが死んでから……色々とありがとうございました」
「……」
「さっきもいったけど……私がここまでやってこれたのって柳川さんのおかげだと思う
んです」
 柳川は、何もいわずに静香の手を引いて行く。
 この人はいつもそうだ。
 父親が死んだ後、毎日のように家にやってきた。
 線香を上げて、
「何か困っていることはないか?」
 と、聞く。
「特にありません」
 と、答えると、
「そうか」
 と、いって黙ってしまう。
 でも、この無愛想と無口の極みにいる男が側にいると、母を、そして父を喪って一人
になってしまった自分が、なんだか一人じゃないような気がして、嬉しかった。
「ありがとうございました……本当に」
 その声が消え、二人の間に沈黙が流れた。
 その沈黙を吹き払ったのは前を向いたまま柳川が口にした声だった。
「少し昔のことだ……」
 柳川の歩幅がやや狭くなる。
「おれには、友人がいた。年下の……弟みたいな奴だ」
「……はい」
「奴はおれのことが好きだったし、おれも奴のことが好きだった」
「その人は?」
「死んだ」
「……」
「おれがこうしていられるのも、お前のおかげなのかもしれん」
 話が、いきなり飛んだ。
 そして、柳川はまた沈黙を二人の間に置く。
 話が飛んだ部分にあるものを、静香はなんとなくわかっていた。
 大切な人が死んで──悲しんで──うずくまって泣いて──やがて立ち上がって──。
 そういう経験を、この人もしたのだろうと静香は思った。
 風が穏やかに吹く。
 陽光は柔らかく、暖かい。
 ずっと試合会場の中にいたから気付かなかったが、今日はいい天気だ。
 木々の葉が微風に揺れて互いの身を擦り合わせる音が、微かに耳に入ってくる。
 そして、手が引かれていく。
 引いて行くのは大切な人だ。
 今まで、彼にとって自分はどんな存在なのか、いまいちよくわからなかったのだが、
さっきの一言でわかった。
 自分は、この人にとっての大切な人なのだ。
「柳川さん……」
 静香は、大切な人に声をかける。
「なんだ」
 素っ気ない声。
「こんなところで手を繋いで歩いてて……周りの人にはどう見えるんでしょうね」
「……さあな」
「親子……には見えませんよねえ……兄妹かな? ……もしかしたら恋人とか……」
「……そうか?」
 丁度、容疑者を連行しているみたいだと思っていたところである。
「静香さーん」
 その声は、公園の出口のところに止まった黒い高級車からのものだった。
 静香が声の元を見やると、そこには先程まで闘っていた少女が窓から身を乗り出すよ
うにして手を振っている。
「静香さんも病院行くんでしょ、一緒に行こう」
「え、いいの?」
「うん」
「え、それじゃお願いしちゃおうかなあ」
「そちらの人もどうぞ」
「ああ」
 綾香にそういわれて柳川は頷いた。元より、病院まで同行するつもりである。
 静香は綾香と並んで後部座席に座り、柳川は助手席に腰を下ろした。運転席の長瀬源
四郎を一瞥して、やや目を細める。
「いかがなさいました?」
「少し、知り合いに似ていたもので」
 正直、驚いた。隆山にいた頃の上司の長瀬が歳をとったら、おそらくこの運転手と全
く同じ顔になるだろう。
「そんで、そこのケーキが美味しいんですよ」
「え、そうなの。私、まだ一度も行ったことないの」
 後ろでは、てっきり黙っているか、言葉少なに先程の試合のことを語り合うのだろう
と思っていた綾香と静香が、おいしくて安いケーキ屋の話題で盛り上がっていた。
「柳川さん、ケーキは好きですか?」
 静香がウキウキとした声で尋ねてくる。
「甘いものは好かん」
「そうですかあ……」
「……食えんこともない」
「あ、そうですか! それじゃ今度一緒に行きませんか。今、いいお店教えてもらった
んですよ!」
「……それはよかったな」
「食べ放題のお店ですから、十個食べても百個食べてもいいですよ」
「……」
 百個のケーキは、想像するだけで口の中が甘ったるくなる。
「おい……」
「はい」
「……甘くないケーキというのはあるのか?」

                                     続く

     どうも、vladです。
     四十二回目つつがなく終了。
     次回から男子の部に入ります。

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