鬼狼伝(41) 投稿者:vlad
「葵……藤田……」
 控え室のドアの前で突っ立っていた浩之と葵は、静かな表情をしている坂下好恵を見
て沈黙したままだった。
「綾香は……中か」
「はい」
 と、葵が答える。
 女子の控え室には今、綾香一人しかいない。他の選手はもう試合を終えて引き上げて
いるし、御堂静香はもう一つの別の控え室にいるはずだ。
 試合前に、対戦相手とは別の控え室に入ることになっているのだ。
「医務室……行ったんだろ?」
「やっぱり右の足首をやっちゃったらしいです……そんなに重い怪我ってわけじゃない
そうなんですけど……」
「……無理するからだ……」
 好恵はそういってから、葵の吊られた腕を見て、
「あなたもよ」
 と、付け加えた。
 葵は、照れ臭そうに俯いた。
 本来、足首の関節が損傷しているのだから一刻一秒も早く病院に行った方がいい。だ
が、綾香はどうしてもシャワーを浴びて着替えたいと控え室に入ってしまった。
 そう、逃げるように……。
「あ……」
 俯いた顔を起こして、それを好恵の方に向けた時、葵が呟いた。視線は、好恵の肩の
上辺りを抜けて後方へと走っている。
 好恵が振り返った先には──。
「あれ、うちの高校に通っているっていう綾香さんのお姉さんじゃ……」
「ああ」
 と、浩之は葵の問いに応じながら壁に寄りかからせていた我が身を浮かして、執事の
長瀬源四郎を伴ってこちらに向かってくる来栖川芹香へと近付いていった。
「よっ、先輩」
「……」
 こくり、とゆっくり頷いた芹香は、やはりゆっくりと視線を控え室のドアにと向けた。
「ああ、綾香の奴なら中だよ」
 それを聞いた芹香がノブに手を伸ばすのを浩之は制した。
「先輩、今は一人に……」
「……」
 首を横に振る。
 ゆっくりと。
「でもなあ……」
 芹香にじっと見つめられて困惑した浩之が助けを求めるように葵の方を向いた時、ド
アが開いていた。
「どうぞ、お嬢様」
 源四郎が、ドアを開けたのだ。
「……」
 源四郎に軽く頭を下げて、芹香は控え室にと入った。
「おい、爺さん」
「……なんですかな」
「いいのかよ? 綾香……もう少し一人にしておいた方がよかったんじゃねえのか?」
「今は……二人でいた方がよいと考えます」
 源四郎はドアの前に立ちはだかるように、その場に佇立していた。

 ドアが開く音が聞こえた。
「姉……さん?」
 返事はない。
 でも、人の気配はする。
 とても、懐かしい気配。
 ゆったりとした気配。
 姉さんだ。
「やっぱり……」
 顔を上げた綾香は、微笑を表情に浮かせて呟いた。
 芹香が、黙って綾香の姿を見ている。
 綾香は、試合の時に着ていたレオタードのようなトレーニングウェアの上に、ジャン
バーを羽織っていた。
「……」
 芹香が、そのジャンバーをそっと持ち上げた。
「……着替え……手伝ってくれるの?」
「……」
 芹香は頷きながら、椅子の上にジャンバーを一度広げ、それを丁寧に畳んだ。
 その間に、ウエアを脱ぎ捨てて裸になった綾香はシャワールームに消えている。
 熱いシャワー。
 肌が焼けるようなシャワー。
 身体が火照った。
 熱く熱く──火照る。
 まるで、まだ闘いが続いているような錯覚に陥る。
 もう、終わったのに──。
 冷たいシャワーを浴びながら思う。
 もう、闘いは終わったのだ。
 身体が冷えていく。
 負け……なんて、随分と久しぶりだ。
 エクストリームに出場してからは負け無しだったから、空手をやっていた時以来では
ないだろうか……。
 と、いうことは、こんな気持ちでシャワーを浴びるのも久しぶりということだ。
 敗北は、やはり嫌だ。
 今までやってきたことが全て否定されたような気がする。
 全部だ。
 全部、無駄だったのではないか。
 どうすればこの自分を救うことができるのだろう?
 格闘技を止める?
 それで救われるのか?
 この「世界」から去ってしまえば、この「世界」でのことは忘れることができるのか?
 綾香がエクストリーム高校生女子の部で優勝を果たした直後、芹香に、負けたらどう
するのかと尋ねられたことがある。
「うーん……負けちゃったら、止めちゃうかもねえ」
 確か、そう答えたはずだ。
 笑いながら、軽い気持ちでそう答えたと覚えている。
 止める……。
 終わったから止める……。
 ならば、葵も止めるのか?
 葵だって負けた。
 でも、葵は、たぶん止めないだろう。
 自分に勝った御堂静香は前回は準優勝だった。
 負けたのだ。そして、今回、勝ったのだ。
 止めなかったから、勝つことができたのだ。
 止めたら……もう勝てない。
 負けない代わりに、勝てない。
 それでいいのか?
 終わったのか? 本当に終わったのか?
 確かに、足首を怪我した。でも、今回のこれは、再起不能になるような大怪我じゃな
い。
 終わった。──そう思っているのは自分だけではないのか?
 終わってないのに、負けたのが嫌で、また負けるのが嫌で──そう思っているだけで
はないのか?
 もう、勝ちたくないのか?
 もう、あの勝利の瞬間を掴むことができなくてもいいのか?
 自分が──たかが高校生部門で不敗のチャンピオンと呼ばれた程度の自分が──たっ
たの一度負けたからと格闘技を止めるなどと、ただの傲慢ではないのか?
 何様なのだ?
 空手を始めた頃は、幾らでも負けたではないか。
 強くなって、勝ち続けるようになって、自分は脆くなってしまったのではないか?
 数々の、様々な思いが綾香の中で渦を巻いていた。
 気持ちが揺れ動き、右に左にと思考が乱れる。

 もう、止めようか?
 もう、終わろうか?
 もう、ここから去ろうか?

 なぜ? 

 負けたから?
 もう、負けるのが嫌だから?

 甘ったれるなってのよ!
 そんなこという奴には私はそういってやるわ。
 うん……もしも、葵がそんなこといったら、私はたぶんその言葉を声にして、激しく、
叩き付けるように、葵にぶつけるだろう。
 私の中に、そういうことをいっている私がいる。
 だから、そいつにいってやらなきゃいけない。
 別の私が──。
「甘ったれるなってのよ!」
 まだ、終わってない。
 まだ、終わらせない。
 自分の闘争心は……闘う心は折れていない。
 足首が折れたって──。
 腕が折れたって──。
 なんなら、首が折れたって──。
 その音を聞かない限りは終わっていない。
 折れる音──。
 聞いていない。
 自分は、そんなものは聞いていない。
 だったら、終わってない。
 だったら、終わらせないことができる。

 綾香の手が、シャワーの温度調節のつまみを右へ右へと捻っていった。
 降り注いでくる熱さに、綾香は身を浸して天井を向いていた。
「まだ……まだ……」

「あ、姉さん、ありがとう」
 手を壁に着きながらシャワールームから出てきた綾香に、芹香がバスタオルを差し出
した。入り口のところで、ずっとタオルを持って待っていたらしい。
 綾香は塗れた体を拭き、服を着た。
「……」
「ん? なあに? 姉さん」
 芹香が、自分のことを見つめている。
「どうしたの?」
「……」
 芹香の口に耳を寄せた綾香が、絶句してその顔を見やる。
 芹香はいったのだ。
 格闘技、止めてしまうの?
 と。
 ずっと前の、あの時のことを芹香も覚えていたのだ。
 そして、心配している。
「嘘」
「……?」
「嘘よ、あんなの」
「……」
 芹香が微笑んだ。
「さっ、早く病院行かなきゃ」
 綾香は、医務室で診断を受けてそこで足首を冷やしたものの、やはり正式にレントゲ
ンなどを撮って調べなければならない。
 試合会場のすぐ側に病院はある。
 今から急いで行って治療を済ませてくれば、男子の部の二回戦ぐらいには間に合うか
もしれない。

「セバス、病院行くから車回して!」
 芹香に肩を貸してもらった綾香はドアを開け、出入り口を塞いでいる大きく、広い背
中に向かっていった。
「は……」
 源四郎は、綾香の表情を見て、すぐに身を翻した。その時、微かに、小さく頷いたよ
うに見えた。
「あら、好恵、来てたの」
「ああ……」
 壁に寄っかかっていた好恵が無造作に答える。
「久しぶりにあんたが負けるとこ見たよ」
「……」
 綾香は笑っていた。
「あの試合、見てたのね」
「ああ、見てた」
「それじゃ、来るんでしょ?」
「……どこに?」
 不思議そうな好恵の瞳に、笑っている綾香が映っていた。
「来年のエクストリーム」
「……さあね」
 素っ気ない好恵の返事に、綾香はなんら心を動かされた様子は無い。
 笑っている。
「私が知っている坂下好恵は、あの試合を見てじっとしてられるような人じゃないわ」
「……」
「好恵……空手にこだわるのもいいけどね……空手の大会でやっていいことは、エクス
トリーム・ルールでは全部許可されているわ」
「……」
 好恵の表情に、僅かに影が差した。
「来なさいよ……クシャクシャにして上げるから」
「……」
 自分を睨み付ける好恵を、綾香は涼しい顔で見返していた。
「……しばらく私とやってないでしょう……私だって、前のままじゃないのよ」
 押し殺された怒りが、押さえようもなく、好恵の声の端々に滲み出ていた。
「あんたの方がクシャクシャになるかもよ」
「私をクシャクシャにしたかったら来なさい」
「……」
「なんだかあなたとやりたい気分なのよ」
 と、足をかばって壁によりかかりながら綾香はいった。
 足を怪我していなければ、ここで今すぐにでも始めそうな雰囲気があった。
 闘いたい。
 闘って勝ちたい──。
 今の敗北を埋めるための勝利が欲しい。
 敗北を勝利で塗りつぶすのだ。
 敗北を消すために考えついた極めてシンプルな方法である。
 好恵が精神的に気圧されて上半身を僅かにだが後ろに反らす。
 さっき会った綾香とは別人のように見えた。
 だが、好恵はそんな綾香を見るのが初めてではなかった。
 エクストリームに出場し始めて負け知らずになってからは見ていなかったが、その前
には度々、好恵は、こういう綾香を見たことがあった。
「今度こそ勝ちたいわよねえ」
 そういって、試合で負けた翌日、凄まじい形相で練習に打ち込んでいた時の綾香。
 あの綾香だ。
 勝利への渇望。
 勝利を至高の位置へと置き、あくまでそれを追求する。
 そんな綾香だ。
 勝利への貪欲さで、今の綾香に勝てる気が全くしない。
「……落ち込んでるだろうから、少しは慰めてやろうと思ってたけど……」
 好恵の口元に微かに笑みが浮かぶ。
「いい顔してるじゃない」
 ふふん、と綾香は笑い、
「じゃ、私は病院行ってくるから」
 身を翻した。
 綾香が身を翻すのに合わせて芹香が動こうとするが、どうもよろよろしていた危なっ
かしい。
「あ、私が……」
「ありがと、葵」
 葵が、芹香と入れ代わって綾香に肩を貸す。
「それじゃね、たぶん二回戦までには戻ってこれると思うから、浩之、一回戦で負けち
ゃ駄目よ」
「おう」
 綾香と、葵と芹香が去っていく。
 それを見送る好恵の目には、葵も、芹香も、映ってはいなかった。

                                     続く

     どうも、vladであります。
     41回目となりました。
     負けた綾香はどうなるか? またどうするか?
     というのが今回の主題といえば主題です。
     餓狼がまた一匹誕生しました(笑)
     どうも、綾香という人間は負けたからといって格闘技を止めてしま
     うような「敗北に安住」するような人間には思えないもんで、こう
     いう結果となりました。
     正直なところ、今回の話が良かったといわれるならば、自分が綾香
     を負けさしたのは正解でした(笑)
 

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