鬼狼伝(40) 投稿者:vlad
 エクストリーム、一般女子の部、優勝決定戦。
 来栖川綾香VS御堂静香。
 3ラウンド十五分で決着がつかず、試合は三分間の延長戦へと入っていた。
 延長戦開始後三十秒。
 沈黙の内に、時が刻まれていく。
 試合開始の時の中央線の位置から綾香は動かず、静香がその綾香の周りを半円を描く
ように動いていた。
 はかったように、静香の身体はスレスレで綾香の足の射程外にあった。
 すっ。
 と、時々、その射程の中に入ってくる。
 すっ。
 と、すぐに外に出る。
 ギリギリのところで綾香を誘っている。
 猛獣の牙が届く間際の位置で自らの腕を前後させているのに似ていた。
 延長戦が四十六秒を過ぎた時、綾香が静香のリズムを読んだ。
 静香が、すっ、と射程内に入ったと同時に踏み込んだ。
 右のストレートが静香の顔目がけて疾走する。
 すぐさま退いた静香の口の辺りに軽く綾香の右拳が触れる。
 間を置かずに綾香が踏み込もうとした刹那を掴んで、静香がタックルを仕掛けてきた。
 胴に組み付こうとする胴タックルだ。
 綾香の右膝が天を向く。
 静香の頭部が微妙に動いて、それをかわした。
 勢い余った綾香の膝頭は静香の右肩のすぐ上を突き抜け、スネが右肩に引っかかる形
となった。もちろん、その位置では当たってもほとんどダメージは無い。
 静香の右腕が綾香の右足に回って、右足が肩に担がれた。
 と、同時に静香の右足がマット上を滑って綾香の左足を刈っている。
 右足を担がれ、左足を刈られ、綾香は後方に泳いで倒れた。
 マットの上に二つの肢体が接触するや、静香の身体が180度回転して両足で綾香の
右腿を挟み込んだ。
 そして、両手が足首を絡め取っている。
 アンクルホールド(足首固め)が極まりかけている。
「くあっ!!!」
 叫びざま、綾香がラインに向かって横転して行く。
 アンクルホールドで捻られているのと同じ方向に体を回転させて行った。
 だが、後少しでラインに達するというところで、技が完全に極まった。
 綾香の動きが止まる。
 静香は捻った。
 綾香の足首を、全力を籠めて捻った。
 捻る。
 捻っていく。
 綾香も、静香ほどではないが関節は軟らかい。が、それにも限度がある。
 捻っていった。
 足首が、みしみしと悲鳴を上げている。
「っっっ!!……」
 タップしない。
 綾香はタップしなかった。
 歯を食いしばって、足首を捻られる激痛に耐えていた。
「ギブアップ!? ギブアップ!?」
 レフリーが盛んに綾香に向かって問うが、その声が聞こえているのかどうかも疑わし
い。
 もう限界の寸前だろうというところまで足首は捻られていた。
「……」
 静香は一瞬躊躇った後、さらに捻った。
 向こうがギブアップしない以上、やらざるを得ない。
 そして──。
 静香の手に、いやな感触が生まれた。
 静香は、関節技は得意だが、月島拓也のように相手の靱帯を断ち、骨を折ることを趣
味にしているような人間ではない。
 むしろ、故意でなかったとしても、試合で相手の骨などを折ってしまうのはいやなも
のだ。
 やってしまった……。
 静香の心中に後悔が大きく両手を広げたその瞬間だった。
「!!……」
 綾香が、静香の手の力が緩くなった一瞬を逃さずに体を転がしてライン外に自分の右
手首から先を投げ出した。
「場外!」
 レフリーがそう叫んで、綾香の足首を掴んだ静香の両手を離すように促す。
「中央線へ」
 そういったレフリーに、静香は不思議そうな表情で尋ねた。
「まだ。続けるんですか?」
 と。
「ああ、早く中央線に戻って」
 レフリーは何をいっているのかといった顔を静香に向けていった。
 自分がそんなことをしている間に、綾香が立ち上がって右足を引きずりながら中央線
へと戻っていく。
 自分の勘違いか。
 と、静香は思った。
 確かに、かなりのダメージを綾香の右足首に与えることができたが、足首の関節を破
壊するまでには至らなかったようだ。
 先程の手応えは、筋が伸びた程度のことだったのだろう。
 静香は立ち上がって中央線へと向かった。
 綾香は、左足を前に出して構えている。明らかに右足をかばった構えだ。
 それを裏付けるように、綾香は体重のほとんどを左足にかけていた。注意して観察す
ればそれがはっきりとわかる。
 今ので決められなかったのは残念だが、これで俄然自分が優位に立った。
 それを確信した静香だが、さっき綾香にフックで殴られた左目のまぶたが段々と腫れ
てきたようだ。
 その腫れに押しつぶされるように、左目の視界が右目のそれよりも狭くなっている。
 おそらく、綾香もそれには気付いているはずだ。そうなれば、死角となった左からの
攻撃に注意せねばならない。
 負傷している右足はともかく、右のパンチを警戒しなくてはならない。特に直線的な
ジャブやストレートよりもフックやアッパー系の弧を描くパンチには要注意だ。
 試合が再開された。
 綾香はその場を動かない。移動するのにも難渋するほどのダメージが右足首にあるの
だろう。
 静香はジリジリと接近していくが、綾香はそれに対してやはり微動だにせず。
 前に出ている左足にタックルで食らい付いていって捕まえてしまえば、残る右足で体
を支えられるわけはなく、難なく倒せるだろう。
 しかし、それは綾香も十分以上に承知の上のはずだ。
 静香が、綾香の足が届く範囲内に無造作に足を踏み入れた。
 さらにそこから踏み込んで、ジャブで牽制しながら片足タックルの機会を狙おうと思
っていた。
 左の方で何が動いた。
 静香の狭まった左目の視界が、それを捉えていた。
 しかし、瞬時にはそれの正体がわからなかった。
 当然、瞬間的に右のパンチが来るのであろうと思った。
 だが、綾香の右手は脇に引きつけられている。
 と、いうことは──。
 綾香の右足がマット上から消えていた。
「っ!……」

 ばちっ。

 その試合を見ていた誰もが聞いていたその音を、静香は聞いていなかった。
 左目のすぐ上辺りに凄まじい衝撃を感じるのと同時に、聴覚などはふっ飛んでいた。
 意識も飛んで、どこかに行ってしまった。
 静香の頭部が右に激しく揺れ──僅かな時間を置いた後──静香の体は右にゆっくり
と倒れていった。
 綾香の右のハイキックが静香の頭を捉えたのだ。
「おおおおおおおおおお!!」
 会場全体を揺るがすような大歓声が上がったが、すぐにそれが訝しげな声に変わった。
 会心の右ハイを命中させた綾香が、その直後に左膝を着き、右足首を両手で押さえて
その場にうずくまってしまったのだ。
 レフリーは、既に静香のダウンカウントを数え始めている。
「ワーン! ツー! スリー!」
 刻まれていく。
 一刻一刻、それが刻まれていく。
 右足首の激痛と戦いながら、綾香はそのカウントをナインまで聞いた。
「テン!」
 と、レフリーがその一言をいえば、全てが終わる。
 なのに、その一言が聞こえない。
 顔を上げた。
 静香が、虚ろな表情で立っていた。
 左目をつぶり、作り物のように光の無い右目でこっちを見ていた。
 静香さん……なんて顔してるのかしら……。
 そう思ったのは一瞬だけだ。
 自分だって「なんて顔」をしているのに決まっている。
「来栖川! できるのか!?」
 綾香は、そう問い掛けるレフリーに向かって微笑んだ。
 何もいわずに、ただ微笑んだ。
 そして、ゆっくりと立ち上がった。
「来栖川!」
「やります」
 できます。とは、綾香はいわなかった。
 やります。と、いった。
 できるかどうかは正直、やってみなければわからない。
 でも、やるかどうかははっきりとわかる。
 やる。
 自分はやる。
 やってやる。
「やります」
 綾香は、自分が笑っているのだろうと思った。

「大丈夫なのか……おい……あの足首は……」
 試合場の下では、浩之が誰にいうともなく呟いている。
 葵は試合場にかじりつくように綾香を見ていて、先程から一言も声を発しようとしな
い。
 耕一は、腕組みをしたまま苦い表情で浩之の呟きを聞いていた。
 正直、自分にそういう権利があるのなら試合を止めている。
「ギリギリのところだな……」
 耕一のその声も、誰にいったというものでもない。
「おい」
 その時、葵に向かって男が声をかけてきた。
 耕一がその男を見て、軽く頭を下げる。
 男は、静香のセコンドについている柳川祐也であった。試合場をぐるりと回ってこっ
ち側にやってきたらしい。
「右の足首が完全にやられている。もう止めろ」
 柳川は、葵に向かっていった。葵のことを綾香のセコンドか何かだと思っているらし
い。
「いえ……私には……止められません」
 葵は泣きそうな顔でいった。
「あいつは優しい奴なんだ……」
 柳川が、ぼそりと、試合場の中央で綾香と向かい合う静香を見ながらいった。
「辛い思いはさせたくない……」
「私も……辛いです……本当に……」
 葵の目に滲むものがあった。
「仕方が無いな……」
 柳川はそういうと、耕一をじろりと一瞥してから去っていった。
 あいつは優しい奴だ。
 だから、明らかに相手が怪我をしている箇所を攻めるのに抵抗があるだろう。その点
では、静香は、生死の堺で行われるような死合には性格的に向いていない。
 だが、静香は、綾香の右足を攻めていくはずだ。
 容赦無く攻めていくはずだ。
 あいつは優しい奴だから……それで辛い思いをするはずだ。
 でも、手は抜かないはずだ。

「どんな時でも手は抜くんじゃないぞ」

 それがあの人の口癖だったから──。
 絶対に、静香は手は抜かない。

 柳川が元の位置に戻った時、静香の低空の右ローキックが綾香の右足首を横から痛打
していた。
 そしてすぐさま左足にタックルを仕掛けていく。
 左足が浮かされると、綾香は、右足一本では到底体を支えきれずに倒れた。
 静香の両手が綾香の右足首にかかる。
「っっっ!!」
 綾香の表情が歪んだ。
「待て! ストップだ。御堂!」
 レフリーが再びアンクルホールドをかけようとする静香を制した。
 静香が綾香から離れてすぐに、白衣の男が試合場に上がってきて綾香の右足首に触れ
た。
 万一のために試合場下に控えていたドクターをレフリーが呼んだのだ。
「……折れている……」
 小さく呟いた。
 やはり、綾香の足首は先程のアンクルホールドで破壊されていたのだ。
 綾香はすがるような目で、ドクターを見た。
 まだ、戦う心は折れていない。
 まだ──。
 まだ──。
 やれる……いや、やる。
 だから──。
 懇願する視線を真正面から受け止めた初老のドクターは、ゆっくりと首を横に振った。

「ドクターストップ!」
 マイクを持ったレフリーがいうや否や、会場に大きな、重いどよめきが沸き上がって
いった。
   
                                     続く

     どうも、vladです。
     四十回になりました。
     で、三十九回目まで書いた時点で、まだどっちを勝たせるか決めて
     いなかった綾香VS静香が終わりました。
     ああ、もう、今回の結果に対する意見があったらうちとこの掲示板
     に書き込んで下さい(笑)
     
 

http://www3.tky.3web.ne.jp/~vlad/