鬼狼伝(39) 投稿者:vlad
 暗転。
 遠くの方から声が聞こえる。

「ワーン! ……ツー!」

 えっと……なんだったかな? これは?

「スリー! ……フォー!」

 頬が、ひんやりとしていた。
 静香の右頬がマットに着いているのだ。
 自分は倒れている。
 ふと、顔を上げる。
 あ、柳川さんだ。
 柳川さんがこっちを見てる。
「!!!!」
 何か叫んでる。
 右の掌を上に向けて、それを上下させている。
 ……?
 立てっていってるのかな?

「ファイブ! ……シックス!」

 ……。
 あ! そうだ!
 このカウントがテンを数える前に立たなきゃいけないんだった。
 頭がすごいクラクラするけど……よい、しょっと……。

「セブン! ……エイト!」

 立ちましたよ。柳川さん。
「!!!!」
 柳川さんが拳を握って、両手を顔の辺りまで上げている。
 そうか、ファイティングポーズをとれっていってるんだ。
 よし! ファイティングポーズをとりましたよ。
 次はどうすればいいんですか? 柳川さん。
「御堂、できるか!?」
 誰だろ、この人?
 私の目の前で掌をブンブン振っている。
「御堂、続けられるのか!?」
 あ、この人、レフリーの人だ。えっと……私、試合してたんだっけ?
「御堂!」
「あ、はいはい、できます!」
 私はぐっと拳に力を入れて叫ぶ。
「それじゃ、中央線へ」
 中央線。
 ああ、あそこの線か。
 やっぱり私、試合の最中だったんだ。
 左目の上辺りがすごく痛む。
 いいのを一発貰って、少し意識が飛んでいたらしい。
 中央線に立つと、目の前に女の子が立っている。私より三歳か四歳ぐらい年下かな?
 えっと……来栖川綾香さん。
 そうだ。
 覚えてる。
 思い出した。
 私は、この子と試合をしてたんだ。

「はあっっっ!!」
 試合再開直後。
 綾香の右ハイキックが上空に放物線の軌跡を描いて疾走した。
 カウントエイトで立ち上がってきた静香の意識が飛んでいたらしいことを見越して、
思い切った。奇襲ともいえるハイを放っていったのだ。
 静香はそれを腰を落としてかわして、時が刹那を刻むのも待たずに突っ込んできた。
 まだ蹴り足である右足はマットから離れている。
 静香の狙いは軸になっていた左足だ。
 これに片足タックルをしかけてくる。
 さすがに素早い。
 でも……。
 さっきまでのキレがない。
 綾香は左のショートフックを突っ込んでくる静香の側頭部に当てた。
 一瞬、静香が怯む。
 だが、これも先程までなら絶対当たらないか、若しくは当たっても肩の辺りに命中す
るのがせいぜいの攻撃であった。
 一瞬、怯んだものの静香はかまわずに来る。
 しかし、綾香もその一瞬の間で、だいぶ体勢を立て直していた。
 右足を戻し、左足を引く。
 左足を狙った静香のタックルが空を切る。
 かわしざま、綾香は静香の左側に回り込んでいる。
 静香が前のめりに倒れたのに綾香が覆い被さろうとする。
 静香の腰が回転した。
 右足がマット上を滑るように左へと走った。
 左足がそれをまたぐように交差し、それと同時に、上半身も回転して仰向けになる。
 静香の左手を取ろうと伸びていた綾香の右腕が、開かれた左右の足の間に捕らわれた。
 静香の両手が綾香の右手に食い付く。
 そして、肩に両足が食らい付いてきた。
 このまま足で肩をロックされて、引き倒されては、裏十字固めが極まってしまう。
 腕ひしぎ逆十字固めをうつぶせになって仕掛ける技だが、仕掛けられる側が完全に胸
をマットにつけてしまえば、ほぼ脱出不可能といっていい。
 綾香は素早く体勢を低くして、静香の両足の中に首を突っ込んでいった。
 これだと足で肩がロックされることはない。
 だが、この体勢だと、おそらく三角絞めに移行してくるだろう。
 果たして、静香の足が綾香の右腕を巻き込んで首に巻き付こうとする。
 綾香は起き上がって、上から、前に前にと体重をかけていった。
 左手で、自分の右腕を掴んでいる静香の右手首を取り、引き剥がした。
 綾香が上になり、静香が下になり、両者の間に静香が足を入れて、それで綾香が攻め
てくるのを防いでいるような状態になった。
 これが膠着状態になって、やがて、第3ラウンド終了のゴングが打ち鳴らされた。

 エクストリームは、3ラウンドを闘ってなお決着がつかぬ場合は、三分間の延長戦と
なり、それでも決着がつかない時に、判定となる。
 延長戦の前には一分の休憩時間が挟まれる。

「……」
 綾香は黙って呼吸を整えていた。
 タックルのキレが悪くなっているのを見て、寝技を挑んでいったのが間違いだった。
 あの、一瞬の裏十字固めはなんとかかわせたが、もう少し頭を逃がすのが遅れていた
ら極まっていた。
 やっぱり、怖い人だ。
 でも、素晴らしい人だ。
 素晴らしい闘いだ。
 あと少しだ。
 あと、もう少ししかあの人と闘えない。
 もっとやりたかった。
 体は古い疲労を新しい疲労が次々に塗りつぶして、疲労が幾重にも溜まっている。
 でも、大丈夫だ。
 肉体の疲労はもう、それほど問題じゃない。
 ダメージでいえば、先程、クリーンヒットを顔面に貰った静香の方が大きいだろう。
 競い合いだ。
 闘う心の競い合いだ。
 先に、心が折れた方が負けだ。
 もう、この闘いはそういう段階に入ったと思う。
 久しぶりだ。
 こんな感じは久しぶりだ。
 肉体の強さを競い合おうとか──。
 技術の上手さを競い合おうとか──。
 そういう段階を越えた感覚。
 肉体の強さも、技術の上手さも、もう散々に競い合った。
 それでも決着がつかない。
 と、なれば、あとは心だ。
 どちらの闘争心がより強靭であるかを競い合うのだ。
「綾香さん!」
 葵の声に、綾香は、無言で手を振った。
 綾香は、ゆっくりと中央線に向かって歩みだした。

「さっきのパンチを喰らったところ、大丈夫か?」
 柳川が、試合場の隅に座り込んだ静香に尋ねた。
「あ、はい、ちょっとまだ痛いんですけど……」
 呟きながら、静香が左目のすぐ上の辺りをさする。
「あとは……キックを肩の辺りに貰っただろう」
「えっと、あれはそれほど深く貰ってないからなんとか大丈夫です」
「そうか、無理はするなよ」
「はい」
 綾香が、まだ時間ではないのに中央線にと向かっていた。
「相手はやる気のようだな……」
「ここまで来たら、もう心の強さの比べ合いです」
「心の強さ……」
「はい、力とか技とかは、もう通り越してるんです」
「そういうものか」
「そういうもの……だと、私は思ってます」
「そうか……御堂さんも見てるだろう、頑張ることだ」
「お父さんが見てるんですか?」
「たぶん、見てるだろう」
「そうでしょうか」
 静香の表情が引き締まったのを見て、柳川は「ああ」と短く頷いた。
 霊魂とかそういったものを柳川は信じているわけでも、信じていないわけでもない。
 今までそういうものを見たことはないが、いないともいいきれない。
 その程度の認識だ。
 ただ、そういった方が、そう思った方が、静香の足しになるだろうと思ったから、そ
のようなことをいった。
 三年前に死んだ父であり、静香が格闘技を始めたきっかけともいえる御堂巡査長に見
られていると思えば、これから来栖川綾香と行う「心の強さの比べ合い」とやらにプラ
スになるだろうと思ったのだ。
 それに、もし死んだ人間が生きている人間の世界を見ているのだとしたら、間違いな
く、御堂巡査長はこの試合を見ているはずだ。
「さあ、行け……おれも見ている」
「はい、行ってきます」
 おれは……御堂さんの代わりにここにいるようなものだ。
 あの娘の父親の代わりになれれば、と漠然と思っていた。
 年齢からいえば、父親というよりは兄だろうか?
 とにかく、十八歳の時に家族がいなくなってしまったこの娘のために何かをしてやり
たかった。
 彼女の父親の死の原因に自分のミスがあったこともあるかもしれないが、とにかく、
一人になった静香を放ってはおけなかった。
 なまじ、暖かく、優しく接してくれた父親だから、失った時の悲しみも格別なのだろ
うと、父親と会ったこともない柳川は思っていた。
 父親というものを全く知らぬ自分が、果たして静香の父親代わりとして上手くできた
かはわからない。
 家族を失って悲しみにくれる少女のところに夕食を食わせてもらいに行っていただけ
ではないのか、と疑問に思わないでもなかった。
「あの……柳川さん」
「なんだ……延長戦が始まるぞ」
 既に綾香は中央線に立ち、レフリーも出てきていて、静香が中央に行くのを待ってい
る。
「えっと、今までありがとうございました」
「……なんだ、いきなり」
「あの、お父さんが死んでから、私がここまでやってこれたのって柳川さんのおかげだ
と思うんです」
「……そんなに大したことはしていないぞ」
「いえ、絶対そうです」
「……」
 いつになく、強い調子で断言した静香に、柳川は沈黙した。
「今、ふと、そう思ったんです。試合が終わってからいおうとも思ったんですけど……
なんだか、すぐに御礼がいいたくて……」
「始まるぞ」
 レフリーが手招きしている。もう延長戦開始の時間はとうに過ぎているのだ。
「あ! そ、それじゃあ、行ってきます」
「ああ」
 柳川は、小走りで中央線へと向かう静香の背中を見ていた。
 年齢的には、娘というより妹のようなものだ。
 静香も、柳川を父親とは思っていないだろう。兄のように思っているに違いない。
 父親もいなければ、兄弟もいない柳川だが、かつて彼を兄のように慕ってくれた人間
はいた。
 柳川は、彼を弟のように思っていた。
 その死によって欠けた何かを、しばらく補うこともできずに心に空洞を抱えて生きて
きた。
 その欠けを、ここしばらく静香が補ってくれていたのではないだろうか。
 あいつがいたから、おれはここまでやってこれたのかもしれない。
 試合が終わったら、そのことを告げようと柳川は思った。
 そして──。

「延長戦、はじめっ!」

 ゴングの音が鳴った。
 透き通るような音色をしていた。

                                    続く

     どうも、vladです。
     39回目を終えました。
     綾香VS静香は次回で終わらせます。
 
 

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