鬼狼伝(38) 投稿者:vlad
 最終第3ラウンド。
 張り詰めた緊張感が会場内にあった。
 来栖川綾香。
 御堂静香。
 この二人の間にあるそれが、音も無く、あらゆる空間に漂っていた。
 全体的に、試合を有利に展開しているのは静香である。
 再三、綾香に関節技を極めている。
 一方、綾香の方は第1ラウンドに強烈な右のローを静香の左足に炸裂させたが、それ
きり、クリーンヒットが無い。
 ジャブやローキックが浅く入ることはあったのだが、とても致命傷には繋がらない。
 いつもここぞという時に彼女が放つハイキックもこの試合ではなりを潜めていた。
 ハイキックのような片足を高く上げ、上半身をやや後ろに反らしてしまうような技は
静香のようなグラウンド主体の選手を相手に外したら、ほぼ間違いなく倒される。
 そして、倒れてしまえば、グラウンドでの関節の取り合いには静香に一日の長があっ
た。

 曲がっていた綾香の右肘が伸びる。
 右のジャブを打ったのだ。
 静香の眼前で一瞬だけ停止し、すぐに戻る。
 当たるとは思っていないし、当てるつもりもない。
 今のは相手との距離をはかるためのジャブだ。
 しかし、静香は動じない。
 まばたきすらしなかった。
「シッ!」
 もう一度、右のジャブ。
 静香が僅かにだが動いた。
 先程よりも踏み込んだジャブであったために、迷ったのだ。
 踏み込んで、深く打つパンチならば、それをかわし、腕の横を抜けるように相手に突
っ込んで行き、パンチを打ったことにより空いた脇に入り込むように密着して倒してし
まおうとしているのだ。
 綾香が、静香を誘った。
 ジャブを戻した次の瞬間、同じく右のフック。
 左足を踏み込み、腰を回転させ、右拳を打ち出す。
 静香が動いた。
 右のフックを頭を下げることによってかわし、綾香の右脇に突っ込んでくる。
 綾香の右フックがその弧線を描ききらぬ内に停止する。
 それなりの力と速度が乗ったパンチはそうそう簡単には止められない。だが、綾香は
それをやった。その右拳は、急停止といっていい止まり方をした。
 急停止した綾香の右腕が再び速度を得て旋回する。
 右脇に突っ込んできていた静香の頭部を右腕で抱え込んだ。
 その時にはもう、綾香の上半身は後方に泳いでいる。
 綾香の両足が浮いた。
 自ら、浮かせたのだ。
 同時に、静香の頭部を抱え込んだ右腕を下に引き落とす。
 浮かび上がった綾香の両足が前のめりになっている静香の腰を挟み込んだ。
 綾香の背がマットに接触した。
 一瞬、見た目には、静香が綾香をタックルで倒したように見える。
 が、二人揃って倒れ込んだ時、技を決めているのは綾香であった。
 胴を足で固定して、抱え込んだ頭部を捻って、頸動脈を絞めるフロントスリーパーホ
ールドという絞め技である。
 その形からして、本来は相手が馬乗りになってマウントポジションになろうとする時、
下から胴を両足で挟み込み、その両足によって相手の上半身の動きを制限するという、
ガードポジションから狙うのに適した技であるが、綾香はこれをスタンディングポジシ
ョンからやった。
 万が一、倒れる際に腕と脇の拘束から、相手の頭部が逃れたとしても、両足を腰から
離さなければガードポジションが保たれることになる。
 倒れた相手への打撃が禁じられているエクストリーム・ルールでは、マウントポジシ
ョンは致命的な体勢ではないが、ガードポジションを取るのにこしたことは無い。

「そうか」
 浩之は試合場下で頷いていた。
 ルーズジョイントと呼ばれる特異体質で、異常に関節が軟らかい静香に対しては、グ
ラウンドでは絞め技の方が有効だろう。
「上手い……けど、ラインが近いな」
 今まで浩之の横でじっと黙って試合を見ていた耕一が呟いた。確かに、綾香の頭から
ラインまで一メートルぐらいしか無い。

「ラインだ」
 柳川のあまり大きくもない声が聞こえたわけではなかろうが、静香は両足でマットを
蹴って綾香を押した。

「場外!」
 レフリーの声を聞いて、綾香は技を解いて立ち上がった。
 静香は、その場にぐったりとしている。
 落ちた!?
「御堂」
 レフリーが耳元で声を上げた。
「はいぃ」
 間延びした声で静香が答えた。
 立ち上がる時に、ふらついた。一瞬だが、脳に酸素が全く行かなくなり、落ちていた
のだ。
 十秒ほどその場でぼうっとしていたが、やがて、
「わ、私、負けちゃいましたか!?」
 ハッと気付いて、レフリーに尋ねた。
 自分が場外に出ていたことをレフリーに聞かされると、大きく息をつく。
「できるか?」
「はい」
 レフリーとしても、ここであまり長く試合を中断して静香に回復の時間を与えてしま
っては綾香に不利なので、静香がある程度回復したら試合を再開しようとしているのだ。
 頭を軽く叩きながら静香は中央線へと戻った。

「はじめ!」
 レフリーの声。
 振り下ろされる手。
 爆発する歓声。
 それらが全て、二人にとって、別の世界の出来事だった。
 確かに、レフリーの声で、闘いが始まる。
 確かに、振り下ろされる手で、闘いが始まる。
 確かに、爆発する歓声で、闘志が掻き立てられもする。
 確かに、それらは二人のこの闘いに密接に関係を持ち、厳然と、綾香と静香の世界に
存在していた。
 だが、その一方で、確かに二人は、二人以外の者が誰も入り込めない一つの世界を形
成していた。
 拳──。
 脚──。
 汗──。
 感情──。
 それらを混ぜ合わせてできている世界。
 ここには誰も入れない。
 拳を振らぬ者──。
 脚を振らぬ者──。
 汗を流さぬ者──。
 感情を相手に叩き付けぬ者──。
 どれか一つが欠けても、そこに入る資格は無い。
 この全ての資格を満たしている者は、今この会場にただ二人。

 来栖川綾香。
 御堂静香。  

 この二人だけだ。
「シィッ!」
 呼気が綾香の口から短く迸る。
 前傾姿勢になっていた静香が素早く後ろに下がる。
 タックルに行こうとしたところを、綾香が絶妙のタイミングで膝を蹴上げてきたのだ。
 綾香が一瞬でも膝を出すのが遅かったら、静香のタックルを喰らって倒されていた。
 静香が一瞬でも身を引くのが遅かったら、綾香の膝蹴りを喰らって倒されていた。
 見た目では、静香が体を沈めながら前に出て、綾香が膝を蹴上げただけである。
 二人の体は互いにかすりもしていない。
 しかし、その間にあった無形の攻防を悟ったのか、観客の一部から「おおーっ」とい
う低い声が漏れた。
 先程の綾香のフロントスリーパーは効いていた。
 静香の脳には、もうしっかりと血が酸素を運んでいるから、頸動脈を絞めたことによ
るダメージはもう無い。
 しかし、精神的に効いている。
 第1、第2ラウンドよりも、思い切ったタックルをしてこない。
 タックルに行って、頭部を抱え込まれてフロントスリーパーに行かれたことが、静香
の心に効いている。
 思い切って仕掛けたフロントスリーパーだったが、思っていたよりも大きな効果があ
った。静香が寝技を得意とし、綾香が立ち技を得意としている選手であるから、なおさ
らだ。
 静香が右のローキックを放った。
 低く、会場がどよめいた。
 静香が、自分から打撃技で攻めるのは非常に珍しいのだ。
 右のローは、前に出ていた綾香の右足に決まった。
 先程と、全く立場を逆にした状態であった。
 先程は、綾香が右のローを打ったのだ。
 しかし、静香の両足に蹴り足が絡め取られてしまい、変形STFに持って行かれてし
まった。
 あれと同じ事を綾香がやろうとしても無理だ。
 あのようなことは、相当に練習をし、さらに相手がそのようなことを全く予測せずに
にローを打ってきた場合にしか決まらない。
 自分にできるのは、相手がローを打ってきたら、こちらも打ち返すということだ。
 蹴られた右足で、静香の左足を蹴り返してやる。
 鋭い綾香の蹴りは、したたかに静香の左足を打った。
 静香は第1ラウンドに同じく左足に綾香のいい右ローを貰っている。
 静香の体勢がやや崩れ、綾香が後方に退く。
 第1ラウンド、静香がローを貰って崩れたと見せて自分の足を取りに来たのを覚えて
いてそれを警戒したのだ。
 果たして、静香はそれを狙っていた。
 それが手の素振りなどでわかった。
 だが、足を取ろうにも綾香は手が届く範囲から外に出ている。
 静香の体勢は低くなっている。
「せいっ!」
 この機を逃さず、綾香は静香の頭部を狙って左のミドルキックを放った。
「!……」
 静香が顔をそらし、綾香の蹴りは静香の右肩と首の間、鎖骨が通っている辺りに食い
込んだ。
 入った。
 浅くは無い。
 しかし、鎖骨を粉砕するまでではない。
 ローで崩されたと見せた静香の体は右側に傾いていた。
 そこへ綾香の左のミドルが走ってきて、静香の体を左側に飛ばした。
 狙い通り。
 静香を倒れさせないで、ミドルで起こし、もう一発入れようというのが綾香の狙いで
あった。
 静香の体が倒れていく。
 先程も同じ状況があった。
 葵との試合でも同じ状況があった。
 体勢が崩れれば、いっそ自ら倒れてしまうという、倒れた相手への打撃技禁止という
ルールを利用した戦法だ。
 だが、綾香はそれも読んでいた。
 綾香の両手が伸びて、倒れようとする静香の脇の下に入った。
 まだ、静香の足の裏だけがマットについている。
 まだ、静香はダウンしていない。
「立ってっ!!」
 綾香の両手に力が籠もり、静香を引き起こす。
 静香は一瞬の間、呆然としていた。
 自分は倒れようとして、でも、綾香が自分を掴んで、引き起こした。
 自分は立っている。
 正確にいうと立たされている。
 しかし、立っていることには変わらない。

 打撃が来る!

 一瞬は、綾香にとってそれほど十分な時間では無かったが、短い時間でも無かった。
 左手で静香の脇を掴んで、倒れにくいようにしつつ、右腕を引く。
 静香が、両腕を上げて顔面をガードしようとする一瞬前。
 一瞬。
 一瞬の差。
 綾香の右のフックが、ガードをかいくぐって静香の左目の辺りに接触した。
 静香が接触した瞬間、頭部を引いてダメージを軽減させようとする。
 ここにも一瞬の攻防があった。
 綾香は、一瞬を捉えた。
 綾香の右フックのスピードは、静香が頭部を退くそれを上回った。
 打ち抜いた。

                                     続く

     どうも、vladです。
     38回目であります。
     ところで……綾香と静香、すごく紛らわしいとは思いませんか?
     ええ、私は紛らわしいと思います。書いてて混乱してきますもん(笑)
     御堂静香というキャラクターを登場させた時には、まさか、こんな
     終盤戦まで絡んでくるキャラになるとは思わなかったんで、適当に
     響きのいい名前をつけたんですが、これが綾香と試合することにな
     ったら紛らわしくてしょうがないです。(苦笑)
     いや、どうも、読みにくくてすみません。

 

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