鬼狼伝(36) 投稿者:vlad
 体の調子はいい。
 去年の、高校生部門の優勝決定戦の前もこんな感じだった。
 行ける、と思う。

「両選手中央へ」

 試合会場をぐるりと見回す。
 試合場のすぐ下で、浩之と耕一がなにか小声で話している。
 その横で、片腕を吊った葵が自分を見上げている。

「肘と額は使用禁止、倒れた相手への打撃技は禁止」

 好恵と目が合った。
 すぐに視線を外して、前を向く。
 御堂静香と目が合った。

「はじめ!」

 声とゴングの音が重なった。

 下手な仕掛けはできない。
 特に不用意なミドルキックなどは禁物だ。腕で抱えられてグラウンドに持ち込まれる
恐れがある。
 先程の試合、静香は葵の関節を極めて勝っている。
 立っての打撃戦では明らかに葵が押し気味だったのだが、グラウンドに戦場が移ると
ほとんど静香の独壇場となってしまった。
 葵は柔道の道場にも通っており、そこで寝技も習っている。
 さらに、綾香も敵に塩を送る覚悟で、相当、葵にはグラウンドの技術を教えたつもり
ではあるが、静香のようなエキスパートにかかってはまだあんなものだろう。
 葵の一回戦と二回戦の相手は、ともに実戦空手とキックボクシングをやっていた人間
だ。だから、相手も立っての打撃戦を受けた。
 でも、静香のようなグラウンドを主体にしたスタイルの選手はとにかく倒して勝負を
自分の領域にまで持っていこうとする。
 葵も自分と一緒に随分と練習したのだが、自分の方が葵よりも勝っていた。そして、
静香は自分よりもグラウンドでの闘いが上手い。
 葵が負けるのも当然であったといえる。
 グラウンドで静香に負けたからといって恥じることは無いのだ。
 綾香の見るところ、間違いなく静香は日本でトップクラスの実力者だ。
 これからは、どんどんグラウンドでの勝負を得意とする、非立ち技系の選手がエクス
トリームに出てくるだろう。世界的に、格闘技の傾向がそうなりつつある。寝技もあり
の場合は、全体的に立ち技系よりも寝技系の方が有利なのだ。
 綾香は今日、ずっと立ち技でやってきた。
 一回戦の相手は明らかに立ち技系の選手で、その上、緊張して体が固くなっていた。
ローを途中でハイに変化させるフェイントのキックが簡単に決まった。
 二回戦の相手は寝技で挑みたかったようだが、綾香とはレベルが違い過ぎた。タック
ルに来るのを読んで膝を顔面に合わせてKOした。
 もしも、倒されたとしても、十分に綾香が勝てるレベルであった。
 この静香は違う。グラウンドに持って行かれれば、すぐにはやられないが、自分が不
利な闘いを強いられるのは確かだ。
 綾香は牽制のジャブをワンツーで放った。
 右。
 左。
 この左のジャブに静香が掴みかかる素振りを見せた。が、綾香の戻しが早く、間に合
わないと見るや、あちらも素早く手を引いた。
 右を打った時点で、次にワンツーで左が来るであろうことを予測されたのだ。
 油断はできない。
 闘気のようなものは感じられないが、妙に威圧感のある人だ。
 この人と初めて言葉を交わしたのは、緒方理奈主演のドラマにゲスト出演した時だ。
彼女は緒方理奈の格闘方面の演技指導をしていた。
 それ以前から、エクストリームの一般女子の部の準優勝者として顔だけは知っていた。
 もう二十一歳になるはずで、綾香は一度も闘ったことが無かった。
 実のところ、静香は外見だけで判断するとなると、格闘技などやっているようには見
えない。
 だが、対峙してみてようくわかった。
 隙が無い。
 普段は床にバナナの皮を放っておいたら滑って転びそうな人なのに、道着を着て、試
合場に立ち、敵と向かい合うと別人のような顔になる。
 研ぎ澄まされた表情。
 澄んだ目。
 澄んだ視線が自分の体を貫いている。
 次の行動が全て読まれているような錯覚が綾香を襲った。
 駄目だ。
 距離を取って、自分の頬を叩く。
 負けちゃ駄目。
 心理戦で負けちゃ駄目。
 向こうだって、こっちが怖いはず。
 私が突きや蹴りをかわされて、それを取られて関節技に行かれるのが怖いのと同じよ
うに、あの人だって、私の突き蹴りをかわせずにそれを喰らってしまうのを恐れている
はず。
 足を取られてアキレス健を極められるのが怖いのなら──。
 タックルに行って、顔面に膝を貰うのも怖いはずだ。
 結局、怖いのだ。
 闘っているんだから、怖いに決まっている。
 でも、私は闘う。
 静香さんも闘うだろう。
 葵も闘うし、好恵だって闘う。
 闘うことで、得られるものだあるからだ。
 怖さだけじゃない。
 他のものが闘いの中にはある。
 勝利の喜び──。
 それもある。
 でも、それだけじゃない。
 他に、口では……言葉ではいい表せないものが、そこにはある。
 何度かいわれたことがある。
「来栖川さんはなんで格闘技なんかやってるの? 来栖川グループのお嬢様なのに」
 来栖川グループのお嬢様が格闘技なんかやる必要は無いのではないか。
 と、つまりは、そういいたいのだろう。
 わかっていないのだ。
 そこにあるものが。
 来栖川グループのお嬢様であることでは手に入らないものがそこにあるということが、
わかっていないのだ。
 なんで格闘技を始めたのかは既に記憶の彼方だ。
 でも、なんでそれにのめり込んだのかはわかる。
 そこが、来栖川グループのお嬢様であるということが「無力」に近い世界だからだ。
 もちろん、完全に「無力」だとはいわない。
 トレーニングの環境は、他の人間よりもいいだろう。
 健康管理の面だって、腕のいいドクターがついてくれている。
 でも、強くなるために流した汗は、自分のものだ。
 強くなるために食いしばった歯は、自分のものだ。
 強くなるために痛めた体は、自分のものだ。
 自分がやったのだ。
 それが実感できる「世界」だ。
 いつだったか、自分がまだ高校一年の頃、空手をやっていて、ある大会で優勝したこ
とがあった。
 決勝戦で、二つ年上の人と当たって、ボロボロになりながらも勝った。
 その相手には一年前の同じ大会で負けていたので見事、雪辱を果たしたことになる。
 一年間、その人を目標にやってきたので嬉しくてしょうがなかった。
 家族に表彰状を見せて自慢した。
 姉さんが頭を撫でてくれた。
 執事のセバスも誉めてくれた。
 準決勝で自分に負けた好恵も、悔しそうだったけど、やっぱり誉めてくれた。
 まだ中学生だった葵は、一緒に喜んでくれた。
 前よりずっと、格闘技が好きになった。
 その大会から少しして、名前を忘れてしまったが、ある格闘技雑誌を読んだ。前から、
自分のことを小さくだが取り扱っていた雑誌だ。
 やたらと「来栖川の令嬢」という言葉を多用するのが煩わしいといえば煩わしかった
が、ただ単に来栖川のお嬢様が格闘技などやっているのを物珍しがって取り上げていた
だけだったと思っていたので、それほど悪い感情は持っていなかった。
 綾香は、自分が「来栖川の令嬢」であるといわれることに、馴れてしまってもいた。
 だが、その時の記事には自分が優勝したのはおかしいと書いてあった。
 なぜか?
 その時の決勝戦の相手と、綾香は前年の大会の一回戦で当たり、ほとんどいいところ
無く負けていた。それはその通りだ。天才といわれた綾香にとって久しぶりの敗北であ
った。ちなみにその相手はそのまま勝ち上がっていって優勝していた。
 だから、綾香が勝ったのがおかしいというのだ。
 何をいっているのか?
 一年の間に、自分が何もせずにいたとでも思っているのだろうか?
 自分は、負けた悔しさをバネにして一年間努力に努力を重ねたのだ。
 それがわからないのだろうか?
 記事を読み進めていくと、どうやらそれだけではないらしい。
 つまりは、綾香が来栖川グループのお嬢様であることに、相手選手が遠慮したのでは
ないか、とかいうことが書いてあった。
 ようは、それがいいたかったらしい。
 馬鹿にしている。
 自分を、相手を、なにより格闘技を馬鹿にしている。
 これを書いた人間を殴ってやりたくなった。
「ぶん殴ってやるわ!」
 実行しようとして、好恵と葵に止められた。
 しばらくイライラした日々を過ごしていると、あの時の決勝戦の相手があの記事を書
いた人間を殴ったという話を聞いた。
 その雑誌から、インタビューをしたいという話が来たので、あの記事のことで文句を
いってやろうと思って、その話を受けたのだ。
 インタビューに来た編集者からその話を聞いた。
 突然、編集部にその記事の載っている号を持ってやってきて、これを書いた人間を出
せといった。丁度、その場にその人間がいた。
 しばらく何かいい合っていて、やがて初めから不穏だった空気がより一層不穏になっ
たのを感じて、周りにいた人間が止めに入ろうとした時、掌が唸って彼らの同僚はふっ
飛んでいた。
「馬鹿にするな!」
 平手打ちで男をふっ飛ばしたその女は、そう叫んだそうだ。
「あたしがあいつより弱かったから、あいつがあたしより強かったからあたしが負けた
んだ!」
 その時持っていた雑誌を床に叩き付け、
「馬鹿にするな!」
 もう一度、叫んだ。
 そのことを聞いて、綾香は頭の中でモヤモヤとしていたものが瞬時に吹き払われたよ
うな気がした。
 わかってくれている人がいた。
 そうだ。
 自分と闘った相手は、わかってくれているはずだ。
 やっぱり、綾香は格闘技が好きだ。

 ビチッ!

 と、鳴った。
 自分が放った右のローキックが、静香の左腿を叩いたのだ。
 静香の体勢が崩れた。
 大きく崩れた。
 大きすぎる!
 と、思った時には足を掴まれていた。
 軸足に使った左足だ。
 するりと後ろに回られた。
 足に密着しながらだ。
 足首の辺りを左手で引き、膝裏を右手で押してくる。
 前に倒れながら、綾香は右足を踏み出した。
 右足をマットにつけ、右膝を曲げて、堪える。
 一瞬、堪えて、体を後ろに振り向かせながら左足を回転させて静香の両手による拘束
を切る。
 静香の拘束に力が無い。
 故意に左足を外したのか!?
 左足を引き抜いた瞬間、静香の右手がマット上を滑るように走ってきて、綾香の右足
を掴んだ。
 すぐに左手もやってきて右足を掴む。
 静香の腰が円を描くようにマット上を動いて、両足が綾香の右足に巻き付く。
 足首を手で引き、腿の付け根の辺りを足で押してくる。
「くっっっ!」
 綾香の背中がマットを叩いた。

「膝十字!」
 試合場の上に乗りだした浩之が叫ぶ。
「まだ極まってはいないけど……もう少しで極まるぞ」
 浩之のやや後方に立っている耕一が誰にいうともなく呟いた。
「……」
 葵は、何もいわずにそれを見ていた。
 歯を食いしばってなんとか逃れようとする綾香を見ていた。

「極めろ」
 小さい声で、柳川は呟いた。
 この試合、彼は静香に頼まれて静香のセコンドとして試合場のすぐ下にいる。別にセ
コンドといっても特に何をするというわけではない。ただ、ラウンド間のインターバル
時にちょっとしたアドバイスをしてやるつもりだった。
 極まった。
 と、その時、
「待て!」
 ゴングが打ち鳴らされていた。
 第1ラウンドが終了したのだ。

「惜しかったな」
「はい」
「次もその調子で行け」
「はい!」

「綾香さん、さっきのローは効いてますよ。次もこの調子で行って下さい」
 綾香は黙って頷いた。
 そうだ。今、静香は立ち上がる時、だいぶ左足を気遣っているようだった。
 辛いのは自分だけじゃない。
「ありがとう、葵」

                                     続く

     どうもvladです。
     三十六回目となりました。
     んで、女子の部の優勝決定戦です。こいつが終われば後は男子の部
     に行き、それが終わったらこのダラダラと続いた話は終わります。

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