鬼狼伝(34) 投稿者:vlad
 綾香コールが控え室にまで聞こえてくる。
 あの容姿と強さなら人気があるのは当然だろう。
 野太い男の声援ばかりかと思ったら、女のファンにも物凄い支持を受けているらしく、
黄色い声援が甲高く響いている。
 そういえば、ある雑誌で行われた「理想の女性」という女性を対象にしたアンケート
で来栖川綾香は五位になったことがあるらしい。
 歓声が一層大きくなった時、英二は綾香の勝利を確信した。
「おい」
 上から声が降ってきた。
「は?」
「緒方英二だな」
「そうだが」
 歳の頃、二十半ばと思われる眼鏡をかけた男が英二を見下ろしていた。英二もそこそ
こ身長があるのだが、この男はそれよりも高い。
「御堂静香を食事に誘ったそうだな」
「は?」
 なぜ、この男がそれを知っているのだろうかと英二は思った。静香の知り合いなのだ
ろうか。
「誘ったけど、それが何か?」
「あいつはお前のことが好きだそうだ」
「はあ……」
「で、おれとしては、お前は収入の点では問題ないと思う」
「はあ……」
 何かが、どこかで恐ろしく何かが食い違っていそうな予感を英二は抱いていた。
「幸せにできるのか?」
「は!?」
「幸せにできるのかと聞いている」
「……」
 この男の意図するところは明確にはわからぬが、とにかく、ふざけた返答など許さぬ
真摯な態度が男にはあった。
「誰だね、君は」
「柳川祐也、警察官だ。しかし、今はそれは関係ない、私人としてお前と話している」
「はあ……で、静香さんとはどういった関係で?」
「法的根拠は一切無いが保護者だ」
「はあ……」
 柳川が鋭い視線で英二を貫いている。
「幸せにできるというのなら、おれとしてはとりあえず付き合いを認めても……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
 英二は慌てて柳川の言葉を遮った。
「何か勘違いしていないか?」
「何をだ」
「別に静香さんを誘ったのはそういうつもりではなくてな」
「どういうつもりだ」
「ただ、ちょっと今度お食事でも、と」
「軽い気持ちだったのか」
「そうそう、軽い気持ち」
「つまり遊びだな」
 なんだか話が不穏な方向に向かっているような気が英二はした。
「今後、あいつに近付かんでもらおう」
 柳川がいい捨てて身を翻そうとする。
「待て待て」
 英二としてはここで、はいそうですかと引き下がるのも嫌である。別に静香にそれほ
どに御執心というわけではないが、いきなりこんな法的根拠は無いと自ら認める保護者
などに邪魔されてしまっては緒方英二の名折れである。
「君にとって、静香さんはどういった存在なのだ?」
 この男、なんだかんだといいつつ、結局静香に惚れているのだろうと英二は見当をつ
けた。
「法的根拠は一切無いが被保護者だ」
 柳川の声に淀みは無かった。
「感情的にいえば、昔世話になった人の娘だ」
 付け加えて、また身を翻す。
「待てって」
「なんだ?」
「もし、おれが静香さんに近付いたりしたらどうなるんだ?」
 故意に、英二は挑発的にいった。
「近付けないようになるだけだ」
 素っ気なく、柳川はいった。
 それに含まれたこの男の怖さを英二は理解した。
 少し前の自分ならどうということはない。
 だが、今の自分は……こういう男を目の前にするとその男のことが知りたくなってく
る。
 何をしてでも知りたくなる。
 知りたい。
 一発入れてみようか。
 どうしようもない欲望が、英二の中で息づき始める。
 今の位置──。
 英二が座っていて、柳川が立っている。
 仕掛けるとすれば立ち上がりながらその反動を利してアッパー系のパンチで下から顎
を突き上げるか。
「思っていたよりも骨がありそうだな」
 上からのその声に、英二は拳を握った。
 この男、自分の思考を読み取ったのか──?
 体は寸分も動かしていない。何か、気配のようなものの動きを察知されたのだろうか。
 背筋が寒くなった。
 氷柱に寄っかかったような感じだ。
 怖い男だ。
「おい……」
 柳川がいった。
「何を怖がっているんだ?」
 と……。
 英二の腰が浮いた瞬間。
 英二の瞳に、柳川の背中が映っていた。
「ただチャラチャラしているだけの男かと思ったがそうでもなさそうだな」
 背中を見せたまま柳川がいった。英二は中腰になってそのまま固まっている。
 いきなり背中を向けられて、それと同時に射程距離からは外れられてしまったために
気が空かされた。
 柳川に攻撃を届かせるには立ち上がって、さらに一歩踏み込まねばならない。
 立ち上がるところまでは行った。
 だが、踏み込みを決断する一瞬前に、柳川が話しかけてきたために、その決断を躊躇
し──いや、躊躇させられ──タイミングを逃してしまったのだ。
「あいつの試合が始まる」
 そういって、柳川は控え室のドアを開けた。
 松原葵の名前がコールされているのが微かに聞こえてくる。
 次は静香の名前が呼ばれるはずだ。
 ドアが閉まった。
「……」
 英二が息を吐き出した。
 控え室の隅で、月島拓也が閉じたドアを輝きを帯びた目で見つめていた。

 開始三分。
 右のハイキックが空を切り裂いた時、葵はその仕掛けが時期尚早であったことを悟っ
た。
 急ぎすぎた。
 まだこんな大技を喰らうほど相手は消耗していない。
 試合開始から今までの三分間、ほぼ一方的に葵が攻撃した。ストレートとジャブに時
折ローキックを交えて押していった。
 リズムに乗った。
 それに乗って右のハイを繰り出した。
 だがそれが外れた。
 相手が葵の攻撃リズムを読んでいたのだ。そして、まだ余力が十分に残っていたのだ。
 そのどちらもが備わっていたからこそ、葵が渾身の力を込めた素早いハイキックをか
わすことができたのだ。
 腰を落として上半身を後方に反らして、葵の右足が描く軌道に体の線を合わせたよう
な最小限度の動きでかわした。
 蹴り足を戻す前に、体勢を低くしてタックルに来た。
 まだ右足がマットに着いていない時点で両手で左足が刈られた。
 とん。
 と、右足がマットに着いた時には左足をすくい上げられ、葵の背中はマットに向かっ
て倒れていくところであった。
 この人──。
 前回の準優勝者だけあってやっぱりすごい人だ。

 この子、強い。
 軽度の脳震盪でクラクラする頭を少し振りながら、御堂静香は葵の左腿を両足で挟み
込んでアキレス健固めをかけようとした。
 できるならばこれで決めてしまいたい。
 このアキレス健固めは外されても、もう立ち上がらせてはいけないと思った。
 このままグラウンドで決着をつけるのだ。
 立っての打撃戦では自分よりもこの葵という子の方が有利だ。
 技術的、経験的なことをいえば決して自分が劣っているとは思わないが、とにかく勢
いとキレがあるために、一発いいのを貰ってしまうのが怖い。

 葵は体をひっくり返した。
 ロックされかけている左足首を回転させるために勢いをつけて返した。
 回しながら引くと、左足は抜けた。
 ほっとしたのも束の間、うつ伏せになった葵のうなじの辺りに電流のようなものが走
った。何かが来る、ということを葵が今まで鍛え上げてきた体が彼女に教えてくれたの
だ。
 背後から静香の右腕が葵の首を刈り取るように迫ってくる。おそらくスリーパーホー
ルドを狙っているのだろう。
 だが、背中に目は着いていない葵だが、それを察していた。
 曲げた右手を横に突き出した。
 葵の腕が静香の肘の裏に当たる。
 右肩と右腕を思いきり上げて上からのし掛かっている静香の右半身を持ち上げその隙
間から這い出るように葵は静香の下から脱した。
 葵は静香の腕を取ろうとか脚を取ろうとかということはせずに立ち上がって構えた。
 自分の得意分野が何かはわかっている。
 この大会のためにグラウンドでの関節技や絞め技も覚えた。でも、その領域では自分
は勝てない。
 どちらかというと、その領域は静香の領域だ。
 正直、エクストリーム・ルールで立ち技のみで闘うのは辛い。
 その時、ゴングが鳴った。

 立たれてしまった。
 静香が立って自分を見下ろして構えている葵を見ながらゆっくりと体を起こした時、
ゴングが鳴った。

「よーし、葵ちゃん、いい感じだぞ」
「はい」
 試合場下にいる浩之はすっかり葵のセコンドと化している。
「次のラウンドで決めてやれ、この後、優勝決定戦があるんだからな」
「はい」
「よし行け、葵ちゃんは強い!」

 柳川さんにでもセコンドを頼めばよかったと静香は思っていた。
 まあ、間違いなくいやがるだろうが、頼み込めば引き受けてくれただろう。
 静香以外の人間ならば、どんなに這いつくばって懇願したところで柳川は見向きもし
ないであろうということは、静香にはよくわかっていない。
 それだけ、柳川という男は御堂静香──御堂巡査長の娘──に対する時はそれ以外の
人間と比べて、雰囲気から態度から時には行動原理までもが違う。
 そんなことを考えていると──。
 ゴングが鳴った。
「あ……あの、葵ちゃんは強い、っていうのいいなぁ」

「第2ラウンド、両選手中央へ」
 
                                                                       続く

     どうもvladです。
     三十四回目を数えるに至りました。
     さっさと女子部門を終わらせないといつまで経ってもこの話、終わ
     らんなあ。
     

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