鬼狼伝(33) 投稿者:vlad
 はじめの合図がかかり。
 綾香コールが沸き起こってすぐ──。
 しなった綾香の右足が低く走り、次の瞬間天空を望むがごとく跳ね上がり、相手の側
頭部を痛打していた。
 綾香コールがどよめきと歓声に一変し、
「決まったのか!? 今ので決まったのか!?」
 やや呆然とした声があちこちで湧いた。
 レフリーが頭上で両手を慌ただしく交差させ、歓声はより爆発的に高まった。
「やるじゃねえか」
 と、いったのは選手用に試合場のすぐ下に設けられた特別席に座った浩之であった。
「や、やっぱりすごいです。綾香さんは」
 と、これは葵である。
「でも、葵ちゃんのさっきの試合もすごかったぜ、そんなおっかながることねえって」
「で、でも、私なんか一回ダウンしちゃったし、それに比べて……」
「綾香と比べることなんかねえよ、葵ちゃんは葵ちゃんだろ?」
「そ、そうでしょうか……」
「おれさ、葵ちゃんは何度もダウンしながら、何度も壁にぶつかりながら強くなってい
くタイプだと思うぜ」
「何度もダウンしながら……」
「ああ、おれもちょっとそういうタイプかもな、やっぱし似てんな」
「え?……」
「師弟同士、似てるって思ってな」
「そ、そんな、師弟だなんて……」
「おれに格闘技の基礎を教えてくれたのは葵ちゃんだぜ」
「でも、強くなったのは藤田先輩の力ですよ」
「まあ、おれは葵流の一番弟子みたいなもんだろ」
 浩之がそういうと、葵は恥ずかしそうに俯いてしまった。
「そうだ。今まで流派聞かれたら我流って答えてたんだけどこれからは葵流っていって
いいかな?」
「そ、それは」
 浩之はもちろん冗談のつもりでいったのだが葵は狼狽しまくった。その姿を見て、浩
之が笑い出してもまだ葵は狼狽えている。
「さて、そろそろ二回戦だろ」
 綾香の試合がBブロックの第四試合であるから、この後、休憩時間を挟んで葵の第二
回戦が始まる。
「それじゃ、私はそろそろ……」
「おう、ここから見てるからな、頑張れよ」
「はい!」

 いきなり、開始三十秒後にいいのを貰ってダウンしてしまった。
 左のストレートが真っ正面から、浅いとはいえ顎に入った。
 くらくらっとして倒れた。
 カウント6で立ち上がった。
 やっぱり綾香さんのようには行かないのか……。
 右のローが左腿に痛打を加える。
 強い。
 でも、綾香さんならこの程度の相手は難なく倒してしまうのだろうか……。
 それとも、綾香さんといえど、これほどの相手となると手こずるのだろうか……。
 この相手選手、確か筒井瑤子(つつい ようこ)さんといったろうか、パンフレット
に載っていた選手データによればキックボクシングをやっているらしい。
 さすがに、時々放ってくるローキックが鋭く強烈だ。
 キックで決めようとしている。
 パンチはそのための下準備に使うつもりだろう。
 ぶん。
 と、凄い勢いで右フックが目の前を通り過ぎていく。
 あれをテンプルか顎に貰っていたら危なかった。
 確かにキックで決めようとしている。
 でも、パンチだって一発一発が急所に入ればノックアウト確実の重さと速さだ。
 駄目だ。
 考えが甘かった。
 そんな生半可な相手じゃない。
「シュッ!」
 右のミドルキックが上手く脇腹に入った。
 でも、筒井さんはダウンしないで向かって来る。
 綾香さんだったら、今ので勝負を決めてしまっていただろうか……。
「待て!」
 レフリーの人がそう叫ぶのと同時にゴングが打ち鳴らされる。
 ああ、もう五分闘ったんだ。
 基本的に、ラウンド間のインターバル時には何をしてもいい。でも、その場に寝そべ
ったり座り込んだりする選手はいない。大体は立ったまま呼吸を整えている。
 私もそうしていた。
 荒くなった呼吸を段々と落ち着ける。
 なんだか気分も落ち着いてきたような気がする。
「葵ちゃん」
 後ろから藤田先輩の声が聞こえた。
「葵ちゃんは強い!」
 私は思わず振り返る。
「だろ?」
 藤田さんが親指を立てて、にやっ、と笑っていた。
 それに釣り込まれて私も笑う。
「第2ラウンド開始。両選手中央へ!」  

 右のジャブが立て続けに打ち込まれてきた。
 牽制だ。
 それほど強くも無いし、打ち込みも浅い。
 どこまで打ち込んでくるのか見切った後はそれほど大きく避けたり防いだりする必要
は無い。
 頬に当たる。
 でも、触れただけ。
 大体、ジャブというのは目標物を打ち抜くことを主眼に置いたパンチじゃない。
 でも、油断しているとすぐにストレートが飛んでくる。
 読みが当たった。
 かわして右のロー。
 左の膝に横から入った。これは効いたはず!
 でも、筒井さんは後退しながらも倒れなかった。
 今のが綾香さんだったら、筒井さんはダウンしていただろうか……。
「葵ちゃん!」
 藤田先輩の声が聞こえる。
 藤田先輩といえば、さっきの綾香さんの試合の時にいっていた。
 葵ちゃんは葵ちゃんだろ?
 私は私。
 綾香さんだったらとか、そういうことは考えないようにしよう。
 私は私。
 綾香さんじゃない。
 私は私だから──。
 綾香さんみたいには勝てない。
 でも、私は私だから──。
 私らしく勝ってみせよう。
「行けぇぇぇっ! 葵ちゃんは強おい!」
 あの時も……好恵さんとやった時も、そういって私を元気づけようとしてくれました
よね。
 私、やっぱり藤田先輩のその声を聞くと元気が出てきます。
 でも、いつまでも先輩に頼ってばっかりはいられませんよね。
 これからは自分でやらなきゃ。
 右のロー、と見せかけて、たぶん途中で軌道を変えてハイキックにしてくるような素
振り……。
 来た! その通りに来た!
 私はそれを潜るようにかわす。
 筒井さんが、自分の足が邪魔になって私のことを見失った瞬間に左手をフックとアッ
パーを合わせたようなスイングで振って拳を顔に叩き付ける。
 右のストレートを一発当てておいて、体勢が崩れている下半身に右のロー。
 筒井さんの体が大きく揺れる。
 藤田先輩が声援を送ってくれる。
「おーし、葵ちゃんは強い!」
 私は強い!
 バチッ、と、音がした。
 確かな衝撃が右足に走っていた。
 私の右のハイキックが筒井さんの顎を横から捉えたのだ。
 筒井さんの頭部が揺れて、彼女は背中から倒れて行った。その際に受け身を取らなか
った。目が閉じている。失神しているのだろう。
 私は呼吸を整えながら、レフリーのカウントを待った。
 筒井さんは立ち上がれず、カウント10のすぐ後に担架で運ばれていった。
「ふう……ふう……」
「よっ、葵ちゃん、やったな」
「はい!」

 次の試合は、一回戦をそれぞれ、二分前後で勝った御堂静香と三堀美久(みほり み
く)の試合であった。
 試合開始三十八秒。
 御堂静香がグラウンドでの膝十字固めで三堀美久からギブアップを奪って勝利した。
 試合が始まって二十秒は軽い突き蹴りでの牽制があり、三堀が両足タックルで静香を
倒して上に乗り、腕を掴んで腕ひしぎ十字固めに行った。
 正直、それで終わったと葵は思ったし、隣で見ていた浩之の口からは「あー」と感嘆
の声が漏れていた。
「あれ?」
 と、浩之が呟いたのは五秒ぐらい経ってからだった。
「タップしないのか?」
 タップとは相手の体を二回軽く叩く運動で、つまりはギブアップだ。
 静香の肘がかなり外側に曲がっているのだが、彼女がタップする気配が無いのである。
「おい、あれで極まってねえのか? もしかして」
 浩之が慌ただしい様子で綾香に尋ねた。
「まだね……前回の大会ではあれよりももう少し曲がった状態で二分以上耐えたわよ、
あの人」
 綾香がいうには、ほとんど異常ともいえるほどの関節の軟らかさを静香は有している
らしい。
 ルーズジョイントと呼ばれる特異体質である。
 試合開始三十秒。
 三堀が腕を極めるのを諦めて拘束を弛めた瞬間、静香が起き上がって腕を引き抜いた。
 三堀の両足が静香の首を腕ごと巻き込んで三角締めに持って行こうとするが、足と足
が合わさる前に静香の上半身が三堀の右足の上を滑るように回転して脱し、両手が三堀
の右足を掴んでいた。
 静香の両足が三堀の右足の腿を挟み込んでいた。
「極まるわよ」
 綾香がいってすぐに三堀がタップした。
 膝十字固めが極まっていたのだ。

「やりました。やりましたよ」
 選手控え室の前に立っていた柳川祐也を認めると静香は小走りでやってきて柳川の右
手を両手で掴んだ。
「見ていた」
「腕ひしぎ行かれた時、もう駄目かなって思ったんですけど」
「話には聞いていたが、本当に関節が軟らかいんだな」
「はい」
「次は、松原葵か……見た限りではなかなかいい動きをするようだったが」
「ええ、今回初出場ですけど、彼女強いし可愛いし、いいですねえ、ああいう子は」
「まだ高校一年生なのになぜ一般部門に出ているんだ?」
 と、柳川はパンフレットを見ながらいった。
「それはですねえ、彼女はあの来栖川綾香と同じ空手道場に行っていたらしいんですよ」
「そうなのか」
 などといいつつ柳川、実は来栖川綾香のこともよく知らない。
「はい、それで今回、来栖川さんが一般部門に出るんで松原さんもそっちに出場したん
だそうです。雑誌に書いてありました」
「ほう」
 その辺の事情は『格闘道場』誌上において小さいとはいえ、記事になっていたので、
目ざとい者には周知のことであった。
「来栖川さんと闘わせてあげたいけど、私だって負けられません」
「お前も、前回は準優勝だったからな」
「はい、私、今回は優勝狙ってますから……それに、柳川さんも緒方さんも応援してく
れてるし……負けられないです」
「緒方? ……」
「あ、柳川さんは会ってなかったですね」
 そういって、静香は、自分が現在、あるドラマの撮影現場で緒方理奈の格闘方面の演
技指導をしていることを話し、緒方英二との経緯なども柳川に教えた。
「ふむ……その緒方英二とかいうのが好きなのか?」
「……は、はぃぃぃ」
 静香の声が間延びする。
「さっき、お食事に誘われちゃいましたぁ」
「ふむ……で、その緒方英二とかいうのは元ミュージシャンで今はアイドルプロデュー
サーをやっているんだな?」
「はい、そうです」
「収入はどの程度だ?」
「うーん、ああいう仕事だから決まった収入は無いと思いますけど……でもすごい豪邸
に住んでるし……プロデュースする歌は大ヒットしまくってますから」
「収入はかなりあるんだな」
「そうですね」
 柳川は少し何かを考え込んで、やがて身を翻した。
「あ、柳川さん、どこへ?」
「挨拶してくる」
   
                                             続く

     どうも、vladです。
     三十三回目となりましてございます。
     予定より伸びた原因はこれです。
     一回か二回で終わらす予定だった女子部門がやたらと長くなったせ
     いです。

 

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